山口敬之の唾棄すべき発言「苦しんでいるのは私だけではない。伊藤さんも苦しんでいるはずだ」

今朝の5時の気温5℃。

小雨。

散歩に出るころには、朝日が雲にあたってオレンジ色に、その奥に青空がほの見える。

丹沢山塊、下の方まで降雪。

雨が降っていたせいか、近所の畑に霜は降りていない。

すれ違う顔見知りの人たち、「寒いですね」と言い交すが、帰途には身体が少し温まってきた私は、ネックウオーマーも外している。

 

今日の鳥たちは、カモ、セキレイコサギアオサギカワセミなど。みなどれも数は少ない。

 

 

Twitterやブログを見ていると、伊藤詩織さんのことで、膨大な情報が飛び交っている。

 

概略としては、

元TBS記者でワシントン支局長の山口敬之氏から性的暴行を受けたとして、被害者の伊藤詩織さんが東京地裁に損害賠償1100万円を求めた民事裁判、東京地裁は伊藤さんの主張を全面的に認めて、山口氏に330万円の支払いを命じた事件。

併せて裁判所は、山口氏が「伊藤さんに名誉を棄損され、社会的信頼を失った」として1億3000万円の損害賠償や謝罪広告を求めた反訴に対して棄却。

 

 

さまざまな情報を読んだり、見たりするのが途中で嫌になってしまうのは、どこか既視感がつきまとうからだ。

 

3つだけ、心に留まったことを書いておく。

一つ目。

 

まず、東京地裁の判決について。

いい判決は東京から遠い裁判所で出るのが通例だが、この判決を見るとそうした傾向が変わったというよりは、ようやく性的暴行事件に対する裁判所の見方が、世間の変化に合わせるように変わってきているということを感じる。

それともうひとつ、伊藤さんが出した被害届に対して警視庁は立件相当として裁判所に逮捕状を請求、裁判所はこれを認めて山口氏の逮捕状を発布。しかし、空港で帰国する山口氏を待っていた捜査官らが山口氏を逮捕することはなかった。

 

送検された山口氏に対して検察は不起訴、検察審査会も不起訴相当としたのだが、裁判所としては発布された逮捕状が、官邸の番犬とまで言われる警視庁の中村格刑事部長(当時・元菅官房長官の秘書官、現在は警察庁官房長)の指示によって執行されなかったことに対して、強い異議をもっていただろうと推察される。

このことが、判決の結論に直接関係したかどうかは別として、少なくとも裁判所はその独立性をしっかり守ったといえる。一方官邸が、安倍夫妻とも交友のある官邸べったりの記者山口氏を刑事手続きを捻じ曲げて守ったことは、政治や省庁の信頼性を失わせたのは間違いない。

これって既視感そのもの。この数年、そんなのばっかし。

さて、判決。

この部分だけは外せない。

 

「(伊藤さんが)自らの体験を明らかにし、広く社会で議論をすることが性犯罪の被害者をとりまく法的、社会状況の改善につながるとして公益目的で公表したことが認められる。公表した内容も真実である」

 

重要なのは、もちろん最後の「公表した内容も真実である」という部分で、伊藤さんの主張を裁判所が全面的に求めたことにあるのだが、それ以上に前段部分の「性犯罪者被害者を取り巻く法的、社会状況の改善につながるとして公益目的で公表した」事実を取り立てて明らかにしたことだ。

 

裁判所が認めたのは、被害者が被害者として訴えることの当たり前さ以上に、訴えそのものが「公益目的」、つまりこれからも起きるであろう性犯罪事案に対して被害者が泣き寝入りをせずに堂々と闘える、そういう場を伊藤さんはつくったのだということを、裁判所の意思表示、判決というかたちで明らかにしたということだ。

 

裁判所も捨てたものではない、と思った。

 

ふたつ目は、この事件の外枠の関する論評について。

元文部次官の前川喜平氏は、東京新聞のコラムで次のように述べている。

『(略)東京地検が山口記者を不起訴にしたのも、被害者が首相のお友達だからではないか?検察審査会の結論も「不起訴相当」だったが、審査会事務局が素人の審査員を誘導したのではないか。/「刑事と民事で判断が分かれた」と言われるが、裁判所は刑事の判断をしていない。「検察と裁判所の判断が分かれた」と言うべきだ。不起訴の背景に「法の不備」や「立証の困難さ」がるという声もあるが、真の理由は「政権による検察の支配」なのではないか?/山口記者はなぜ逮捕も起訴もされなかったのか?そこには、安倍政権による「刑事司法の私物化」という恐るべき疑惑が存在するのだ。』

 

さまざまな論評があるが、あまりにもあからさまな「私物化」が進行しているのを前川氏は在職中にいくつも見て来たはずだ。彼の言葉には重みがある。

「私物化」、まだ桜の季節ではないけれど、新宿御苑「桜」は、安倍のもの。

 

3つ目は、これぞ既視感そのもの。山口氏のインタビューの中で語られた女性の『伊藤さんは偽物の性犯罪被害者だ。ほんとうの被害者は笑顔や表情を失っており、テレビ出たり、インタビューを受けたりできないはずだ。』という主張を山口氏が真に受けて主張していることだ。

 

この理屈で言えば、性犯罪の被害者は、自ら堂々と被害を訴えることなどできない存在ということになり、性犯罪自体が立件されることなどありえないというすごい理屈が成立することになる。

 

社会的弱者の抵抗権を思い切り否定している理屈。さらにこの裏には、性犯罪被害者には相応の「隙」があるものという偏見が隠れている。

 

 

これを根拠に山口氏はもちろん、彼を支援する人々、私がインタビューで見たのは国会議員の杉田水脈氏が、「伊藤さんは明らかに嘘をついている。山口氏こそ被害者である」としていることだ。

杉田議員は、生産性発言や映画『主戦場』での根拠のない感情的なしゃべくりでもその偏狭さは明らかだが、彼女の一番の問題は、性被害が現場での事実を立証できない場合、すべて無罪となってしまうこと、つまりいつまでも女性は性被害をこうむり続けるのであり、それに対して被害を訴えることなどできないということになること、そのことに気づいていいないか、それとも意図的にそう主張しているのか。これは、慰安婦問題はなかったとする主張と全く同じ視点であることを忘れてはならない。

 

こういう主張を今まで何度も見てきた。ばかばかしい。

コラムニストの小田嶋隆氏のTwitterでの見解が、この理屈のばかばかしさを浮き立たせている。

 

「水に沈めて浮いてきたら魔女確定。無実なのは沈んだまま浮いてこなかった女だけ」

     『小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句~世間に転がる意味不明』から

 

きちんと自分を主張する人間は魔女であり、まっとうな人間は黙って死んでいけ、ということだ。

 

 

もうやめよう。

 

山口氏は、自らこの事件によってPTSDを患っているとしている。そのことを記者に問われて、

「苦しんでいるのは私だけではない。伊藤さんも苦しんでいるはずだ」という意味のことを答えていた。

 

お前がそれを云うか。唾棄すべき発言とはこういうのを云うのだろう。

 

 

 

教科担任制の導入をするならば、まず現在の「現場」をしっかりリサーチすることだ。 現場が何を求めているのか、真摯に耳を傾けることだ。

文科省は2021年から実施される大学入学共通テストで、英語の民間試験導入に続き、国語の数学の記述式問題の導入を見送った。

 

萩生田文科大臣は、自分の身の丈発言がオウンゴールとなり、見送りに拍車をかけた結果となった。

 

今世紀に入ったころから続く教育改革。最近は教員の働き方改革も含めてだが、多くの改革案が、現場を無視した政治主導でやられてきたのも事実だ。

今回の民間試験の導入や民間への採点の委託など、「民間活力」を利用するという方向が、一種の流行でもあった。それは自治体レベルでも同様である。

 

しかし、民間と言った瞬間、金が絡む。きな臭さが漂う。

 

今回の問題は、下村大臣の時の決定だが、有識者会議の反対などを押し切る形で、つまり政治主導で導入を決めたという。

そこに何らかの利権が絡んでいないか、気になるところだ。

 

それにしても、いったん決めた方針をこうしてギリギリのところで撤回するというのは、かっこ悪い。他省庁からみれば、文科は何をやっているんだ、だから三流省庁と言われるんだ、ぐらいの陰口は多いだろう。

 

しかし、政治は狡猾。

直後に萩生田文科大臣は、見送りを発表したその同じ日に、麻生外務大臣と会い、小学校の英語教員1000人の増員と高学年の教科担任制導入のための2201人の教員の増員を取りつけた。

これで得失点差はゼロになるわけではないが、多少ともマイナスを取り戻したというところだろう。

先日、「アンタが反社」と言われた麻生財務大臣も、文科省に対していつもは厳しい財務省が、大変だなあ学校もと言っておこぼれを授け、イメージダウンを少しだけ取り戻したというところか。

 

茶番である。

まず、こうしたかたちで予算問題をフレームアップするのはルール違反。

決めるのは国会であって麻生は提案をする方だ。

国会を通ってもいない予算を、まるで自分の裁量で付けてやったふうに見せるのは、狡猾な小芝居と言われても仕方ないだろう。

 

もうひとつ、英語教員の増員1000人。大きな数に見えるが、全国に公立小学校はいくつあるのか。

 

2019年8月段階で、19,378校である(文科省学校基本調査)。教員数は、421,936人。

 

英語教員を1000人増員したところで、その恩恵を受けない学校が、18000校以上あるということだ。もちろん、あとは単独措置で各自治体でどうぞということなのだ。エラそうに発表することでないだろう。

 

教科担任制についてはどうだろう。

 

現在、全国の5.6年生の総数は、2,169,638人

いろいろな措置が国や自治体にあるから一概には言えないが、一クラス35人と考えると、5・6年生のクラスは全国で62000クラス。

つまり全国には5・6年の学級担任が62000人程度いるということ。

教科担任制導入というからには、最低でも現在の定数からの増員が必要だが、2201人の増員が焼け石に水程度のものでしかないことはわかりきったこと。

記者会見など開くようなレベルでないことはもちろんだ。

 

ゼロよりいいでしょう?

というのはおかしい。

中教審は変形労働時間制もそうだったが、議論の精度がどんどん低くなっている。

教科担任制、見場はいいけれど、どれだけ実施の実効性があるのか。

たとえば、全国にかなりの小規模の小学校がある。中には児童数10名以下というところも。

逆に都市部ではマンション建設によって急激に児童数が増加するところもある。

 

そうしたアンバランスの状態に対し、現在の定数法を維持しながらわずかな増員をしたところで、政策の実効性はほとんどない。

教科担任制の導入をするならば、まず現在の「現場」をしっかりリサーチすることだ。

現場が何を求めているのか、真摯に耳を傾けることだ。

全国の小学校の隅々にまで届くような仕組みを考えるべき。

 

それをやらずに「反社」と「バーベキュー」が会見したところで、現場は何も変わらないのである。

 

旧陸軍被服支廠保存問題、動いている。広島市長が県に対し全面保存を要請。「私は被ばく証言を消費してはいないだろうか」保存署名を担う福岡奈織さんの文章。

本格的な寒さはどこへ?

今朝の気温9℃。散歩。ネックウォーマーはせずに、手袋も途中で外した。

今日は昨日以上の数、7~80羽のカワウが雁行陣そのままに上空を飛んできた。昨日同様そのあとをコサギの群れが追いかける。こちらも3,40羽。

 

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yahoo!検索から

 

カワウはよくぽつんと電信柱の一番上に留まって周囲をきょろきょろ見回している。どこか挙動不審な感じ。

水面にいるときは、身体の三分の二ほどが水中に入っているので、露天風呂に使っているふう。どこかユーモラスな鳥だが、集団での雁行陣飛行?は迫力がある。

 

広島市長が県に対し、旧陸軍被服支廠の保存問題について「全棟保存」を要請したとの

こと。ほとんどの被爆建物は市内にある。多くは民間が保有するものだが、広島市としては出来る限りの保存を方針として持っている。その立場からも全棟保存はまっとうな要請。

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政令指定都市と県は、どこでも二重行政の問題を抱えている。昨年から県費負担職員の市費移管が実施されたが、まだまだ問題はある。

こうした保存問題について、一般的には市が県に対しおもてだって異を唱えるのはあまりないことだが、被爆都市広島としては黙っていられないところ。

なにかと長崎に比べられ、消極的となじられることの多い広島市長としては、このへんで点を稼いでおこうという算段もあるのかもしれない。

BBCも国際ニュースにこの問題を流したというから、この問題はこれから。

 

ネット署名集めを中心でになっている若者に福岡奈織さんという方がいる。1992年生まれの若者である。私は一面識もないが、今回、紹介されて彼女の3年前のブログの文章を読んだ。感銘を受けた。

 

ヒロシマナガサキに限らず、震災や津波、豪雨による大きな被害を受けた方たちの思いを受け止めるうえでの大切な視点であると思った。被爆体験を消費して終わりにしてしまうのではなく、私たちは何を社会に対し返していけるのかという重い問いがここにある。

 

長くなるが、紹介したいと思う(公表されているものなので、ご本人の承諾は得ていない)。

 

 

 

2016年06月17日 

福岡奈織
広島市在住、NPOスタッフ。

『被ばく証言を消費してはいないか』

 

もっと聴こう。もっと会いに行こう。何かわかるかもしれない。そんな風に気持ちが高

まっている時に、ふと思いました。「私は被ばく証言を消費してはいないだろうか」と。

 

はじめまして。福岡奈織です。
広島でNPOスタッフをしています。大学生の頃に、広島というまちが、原爆が落とされたまちであることに興味を持ちました。
そして、主に大学生など若い世代に向けた被ばく証言会の開催や、国際交流NGOの主催する『ヒバクシャ地球一周証言の航海』へのユース非核特使としての参加、広島の被ばく者との個人的な交流を通じて、「広島の心とは何か」「広島を継承するとはどういうことか」ということを考えてきました。

また、大学の卒業研究では、フランス領ポリネシアでフランスの行った核実験によって被ばくした現地住民について書きました。調査のためにタヒチ島へ滞在し、現地の被ばく者や、活動家にインタビューを行い、直接の声を聴くことができました。
そんな中で感じたこと、考えたことを書き留めていきたいと思います。
被ばく者と交流する中で、考えることがあります。
それは「被ばく証言を消費してはいないだろうか」ということです。
広島市で育った私にとって、ちいさな頃から「原爆」や「被ばく」という言葉は実に身近なものでした。小学校では毎年原爆に関するビデオを見ました。地域に住むお年寄りを訪ね、戦争体験・被ばく体験を聴かせてもらうという授業もありました。毎年8月6日の8時15分には、目を閉じて爆心地の方角を向いて黙とうを捧げることが習慣です。
特にそれが特別なことだとは思っていませんでした。多くの被ばく者がいることも、原爆にあった記憶を語る人がいることも、当たり前のことだとも思わないくらい自然なことでした。被ばく者が原爆にあったことを話す「被ばく証言」は、あって当然のものだという認識でした。それが広島独特のものなのだと気づいたのは、大学生になって県外出身の人など、多様な人たちと触れ合うようになったからです。
今まで、そして今も、私は広島に落とされた原爆のこと、そこで何があったのかをもっと知りたいと思った時、「原爆の話をきかせて下さい」と言って、お願いしてきいてきます。
被ばく証言、聴けばいろいろと感じるものがあります。本当に様々なことを学びます。聴く度に、もっと勉強したいと思い、もっと、もっとといろんな方にお願いしていた時期もありました。
もっと、もっと聴こう。もっともっと会いに行こう。何かわかるかもしれない。
そんな風に気持ちが高まっている時に、ふと思いました。
「私は被ばく証言を消費してはいないだろうか」と。
「私は、被ばく者の話に「何か」を勝手に求めてはいまいか」と。
自分の「何か」を満たすために、記憶をおこさせ、話させる。満たされた私は、次へと向かってゆく。たとえその「何か」が、勉強や平和のためであったとしても、それでよいのだろうか。
もし、自分が被ばく者だったら。もし、自分が原爆に合い、家族や友達を亡くしたり、人間の姿とは思えないほどの重傷を負った人びとと遺体の数々を見たり、助けたかった人を助けずに逃げねばならなかったりした記憶を持っていたら。それをわざわざ何度も思い返しながら人に話したいと思うだろうか。私にはできそうにありません。
親しい被ばく者は「話す度にね、においとか感触とかが蘇って吐きそうになるんよ」と言っていたことがあります。何度も何度も思い返し、言葉として口に出すことはそんなに簡単なことではないのだと思わされました。
しかし、私が被ばく者から話を聴く行為は、被ばく者の「被ばくした」という記憶を何度も何度も繰り返し思い出させ、何度も何度も追体験させてしまっているようなものです。そしてそれは、被ばく者を原爆や核実験の犠牲にしたことと同じような構図を繰り返してしまっているのではないかと疑問に思い始めたのです。
広島・長崎のまちや、被ばく者は、原爆投下以前から今に至るまで調査され、データをとられ、その結果のすべてが公表されているわけではありません。
漫画『はだしのゲン』の中には、被ばくしたことによって病気の症状が出た人に、ABCCが「検体」として番号をつけていたという描写もありますが、それは被ばく者が感じてきたことを表していると思います。
私が話を聴いたポリネシアの被ばく者も、フランスの核実験場で働き、今に至るまで何度も健康診断を受けてきたが、診断結果や病名を教えてもらったことはないと言います。
被ばく者を研究することで得られたデータは数多くあります。そのデータが後の人びとの役に立っているということもあるかもしれません。しかし、私の行った研究も含めてその成果がどのくらい被ばく者自身のためになっているのでしょうか。被ばくしてなお使われる。使われて、なくなってゆく。そういうことが繰り返されてはいないだろうか。私は、繰り返してしまってはいないだろうか。
フランス領ポリネシアの核実験被ばく者へも同様です。
タヒチ島に調査に行き、被ばくするに至った経緯をたくさん聴かせてもらいました。
中には話したくはないけれど...と重い口を開く人もいました。「その話を聴かせてください」と言って、ヨソモノの私は話をきく。そして、自分の卒業論文を書く。わたしの目的は達成される。
核開発は、先住民や、中心ではなく周縁に位置する人たちを犠牲にしながら大国によって進められてきました。
おそらく、被ばくに関する研究も、大国によって行われ、先住民や、周縁に位置する人たちから話を聴きながら、進展していきます。
人が被ばくするということが、大国のため、または力の強い側にずっと使われていてよいのだろうか......。
そんなことを思いました。
平和活動や平和学習の一環として被ばく証言を聴く人たちは大勢います。被ばく証言を聴き、学び考えることは大切なことです。そして、被ばく者の直接の声を聴くことができるのは、あと数年が最後の機会になるかもしれません。
しかし、被ばく証言の依頼の中には、「政治的なことは話さないでください」「過激な描写は避けてください」「戦後のことはいいですから、当日のことだけ話してください」などの要望がある場合があると聴きます。今一度、被ばく者の立場に立って、その要望が被ばく者をどんな気持ちにさせるか考えてほしいと私は思います。
被ばく証言を行う被ばく者は、人によっては毎日数回の証言会を依頼され、こなしています。70歳80歳を超え、健康にも不安がある中で伝えねばならないという使命感を持ち、記憶を何度も何度も掘り起こしながら話をする人たちを見てきました。話をするために会場に移動するだけでも、結構な労力が必要です。それでも続ける熱意と強さに圧倒されることもよくあります。
被ばく者が全員当時のことを話すわけではありません。表に出ている方々は、覚悟と想いを持って、腹をくくって話すと決めて話しているごくごく一部の人たちです。証言すると決めているとしても、話したいこと、話したくないことがあります。被ばくの話をするというのは、多かれ少なかれその人の複雑に絡んだいろんな心が反映された行為です。
私は、被ばく者やその体験や記憶を利用して奪ってばかりではいけないと思いました。使ってばかりではなく、きちんとお返しをし、それ以上のことをしていきたい。そう考えた時に、被ばく者の「若い人につないでいってほしいんよ」という想いにこたえることが、今私にできることではないかと思いました。
「もういつ死ぬかわからんけぇ。」と言いながら、話せなくなるまでに一人でも多くの人に原爆がどれだけ悲惨な被害を生むのかを伝えようとする人たちを近くで見てきました。
原爆が落とされて今年で71年目となります。被ばく者の高齢化は顕著で、当時のことを話すことができる人もどんどん減っています。被ばく者の苛酷すぎる体験と、「核兵器は使ってはならない。自分たちと同じような経験を他の人にさせてはならない。」という声は、私たちのようなうんと若い世代が引き継ごうとしなくてはならないのだと思います。
「伝えてくださってありがとうございました。これからはその体験を次へとつないでいきますから。」と被ばく者に言えるような世界をつくることが、たくさんの被ばく体験を聴いてきた私にできることだろうと思います。

「被ばく証言を、消費してはいないだろうか」
ずっと問い続けていたいと思います。

 

 

 

「敵」は見えているのに、武器も兵站もないのが非正規の労働者だ。 Twitterの投稿から。

夜半から雨。小雨でも風が吹いていなければ散歩に出かける。らいは置いていく。

 

境川河畔。コサギの群れとカワウの群れが一緒に群がっている。コサギは15~56羽、カワウは30羽を超えている。近くにコサギの3倍ほどの大きさのアオサギが1羽でぽつんと立っている。アオサギはいつもどこか思索的。珍しい光景だ。

一斉にコサギアオサギが飛び立つと、アオサギマガモ数羽が残される。

いつもはこんなことがないのに、どういう兼ね合いでこうした光景がうまれるのか。

 

11月後半から少しだけ?始めたTwitter、若い教員と思われる人たちの投稿を見ていると、時々胸苦しくなる。偽悪的に自分の思いをストレートにぶつける人も多い。こうしたことを職場の中でぶちまけることはないのだろうか。

 

臨時講師、非常勤講師、臨時的任用教員、さまざまな非正規の教員の投稿も多い。非正規の位置からみえるもの、みえないもの。

「ボロボロ講師」というひとが、昨日、おとといと次のような投稿をしている。

ユーモアの中に、現在の教員の仕事に対する視点がはっきりと打ち出されている。

 

 

 


学校の無駄な仕事で打線組んだ。

1番 中 学校行事
2番 二 給食指導
3番 一 研究授業
4番 三 部活
5番 捕 通信表の作成
6番 左 ネットトラブルの対応
7番 右 家庭訪問
8番 遊 三者面談
9番 指 わけわからんアンケート集計

先発 指導要録の作成
中継ぎ 保護者対応
抑え 無意味な研修

 

打線から見れば、中軸の3番4番が部活と研究授業。これが最も無駄な仕事と投稿者は考えている。さらに先頭打者に学校行事。

一般的な若い教員、と言ったら怒られそうだが、とりあえずフツーのという意味で若い教員は、部活と学校行事が大好きだ。投稿者は真逆の位置にいることになる。

2番給食指導 5番通信表の作成 7番家庭訪問 8番三者面談 などルーティンでやらざるを得ない仕事も投稿者は無駄な仕事にあげる。

6番 ネットトラブルの対応 が中軸のあとの大事な場所に置かれている。この仕事は、やらざるを得ないが、やってもだれにも感謝されることもなく、というのも匿名性が高く解決には程遠いところで終わらざるを得ず、まったく達成感のないもの。実感としてよく分かる。

 

2軍?ということになれば、私なら次をのものを上げる。

 道徳、清掃指導、職場体験学習、地域行事への支援、祭礼の見回り、校門の立ち番、朝のあいさつ運動・・・

挙げればきりがない。

 

さて、投稿者が無駄だと考えてはいない仕事はなんだろうか。

授業である。

投稿者は、授業をちゃんとやりたい、無駄な仕事はしたくないということを言っているのではないか。

 

今の学校で、とにかく授業をちゃんとやりたいというセンスは、まっとうなのかもしれない。

「授業で勝負」などといわれると鼻白むものだが、普通に落ち着いて授業に専念したいというセンスはまっとうな感じがする。

それは、今の、何の解決にもならない働き方改革に対する批判になっているのではないか。

 

投稿者は、続いてこんな投稿をしている。

 

害悪教員で打線組んだ。


1番 二 仕事しないベテラン教員
2番 指 体育教員
3番 遊 部活に命をかけてる教員
4番 一 講師に担任やらせる校長
5番 中 嫌味しか言わないBBA教員
6番 左 正規のくせに副担の教員
7番 三 授業ができない教員
8番 捕 飲み会で説教する教員
9番 右 パリピ教員
先発 指導主事

 

これもまた職場の人々に対する辛らつな批判となっている。やややさぐれている感はあるが、現代教師論ともいえる。

 

1番 仕事を若い教員に振るのがうまい教員はどこにでもいる。

2番 今でも学校の中心、生徒指導の中心と思っている教員が多い。

3番 今一番多い。部活は本務ではないということが最後まで理解しようとしない。

4番 時間講師に担任を命じるのは明らかに違法行為。労基署人事委員会に提訴。

5番 差別そのものの言い方。日常で使えない言葉は出すべきではない。

6番 子育て中の臨時的任用教員の女性が学級担任をもつこともある。次年度の雇用 続を餌にする管理職もいる。

7番 こういう人たちが出世するケースが結構ある。

8番 自分がやらなかったとは断言できない。

9番 教員は基本的にパリピである。

 

先発 慇懃無礼・空洞化

 

 

正規の教員であっても、現状をまともに批判して丸腰でも闘うという人は少ない。

非常勤の立場は職場で圧倒的な少数派だ。彼らが職場で「ものを言う」ことは、とってもしんどいことだ。

投稿がシニカルなものになるのはよく分かる。

「敵」は見えているのに、武器も兵站もないのが非正規の労働者だ。

 

 

『ジョーカー』(2019年/アメリカ・122分・監督トッド・フィリップス) どこまでも暴力的であり、すさまじく汚辱に満ちていて、限りなく残虐、全く絶望的で異様に煽情的であり、そして深い悲しみに満ちていて、かつ極上の美しい映画。そして希望も救いもない映画。

このブログ、覚え書きと言いながら、幾つも書き忘れていることがある。読んだ本、見た映画、会った人。暮れにはそれらを「総ざらい」するつもり。

 

ロバート・デニーロの『アイリッシュマン』については書いた。

次の日、またデニーロに会ってしまった。

 

『ジョーカー』(2019年/122分/R15+/アメリカ/原題:Joker/脚本トッド・フィリップス・スコット・シルバー/監督トッド・フィリップス/出演ホアキン・フェニックスロバート・デニーロ

 

先月、卒業生のI君に会ったとき、映画の話になった。

「ジョーカー、見ました?」

「いや」

「え?ほんとに?」

呑んではいたが、酔ってはいなかった。彼の目は

「『ジョーカー』を見ないで、今年の映画を語らないで」

と言っていた。

 

そうか、そんなにいいのかと思った。でも『バットマン』だろ?とも思っていた。

みないでは何も言えない。

リニューアルなった南町田グランベリーパークシネマズ109での、これが初めての映画となった。

座席数72の10番スクリーン、一日2回上映。最盛期は過ぎたようだ。観客は10名ほど。シネコンではもうマイナーな扱い。客が入っていないようだ。事実、明日には上映回数は1回に。

 

まず、最初に結論を云っておこう。

今年は去年、一昨年に比べてみた映画は少なかったが、これは間違いなく今年のベストである。ケン・ローチの「家族を想うとき」はまだ見ていないので別として。

 

バットマンの悪のヒーロー「ジョーカーの誕生秘話」という触れ込みだが、原作には全く出てこないオリジナルの脚本。

 

さてばいいのだろう。

 

あらすじを追って一つひとつについて書いていきたいという衝動がある。

どのシーンも精妙につくられていて、トーンダウンするところがない。

 

しかしネタバレはしない。いい映画だからこそ、多くを語らない方がいいかもしれない。

 

息つく暇のない緊張の2時間だった。

どこまでも暴力的であり、すさまじく汚辱に満ちていて、限りなく残虐、全く絶望的で異様に煽情的であり、そして深い悲しみに満ちていて、かつ極上の美しい映画。そして希望も救いもない映画。

 

悪のヒーロー誕生物語では全くなく、現在の世界を覆う格差と貧困と、人々の絶望のエネルギーのすさまじさを随所に感じさせる。

これを見た多くの人々が、その救いのなさに否定的な感想をもつのかもしれないが、この脚本は一級の文学作品だと思うし、映画そのものもきわめて高い芸術性に支えられていると思った。悲しみと憎悪、絶望と悪のコラボ。

 

主人公アーサー・フレックは、母親の虐待による脳の障害をもっている。いわゆる知的に遅れているように見える。妄想の中に入ることも多い。コメディアンとしての仕事はうまくいかず、周囲との人間関係もうまく結べない。

病気の症状として、おかしくなくてもいつも笑いがこみ上げてくる。冒頭はカウンセリングのシーン。アーサーは、カウンセラーが自分を見つめてはいるが、話をまったく聞いていないことを知っている。

 

これが物語の始まりだが、自らの存在を誰にも肯定されない(かろうじて小人症のコメディアンゲイリー(リー・ギル)をのぞいて)人間がどのように暴発してくのか、その過程が描かれる。

 

ネタに入りたいが、入らない。

 

まいったなあ、である。唯一救いと言えば、それは音楽かもしれない。

 

ホアキン・フェニックス、どんな接写にも耐える演技力。ダンスは何といえない美しさ。地下鉄で女性に絡む酔漢たちにコケにされ、殴られ蹴られているときに、アーサーはもっていた銃で彼等を撃ってしまう。

ここで笑いは症状から快感の表現に転化していくようだ。

 

最後の方のシーンで、著名なテレビ番組の司会者であるマレー・フランクリン(ロバート・デニーロ)が、アーサーに手を差し伸べるかに見える。しかしアーサーはそれが結局のところ自分を踏みつぶす行為であることを見抜く。デニーロは、そんな人間のいやらしさを存分に表現している。デニーロは私達であり、私たちがデニーロを生きている、そんなことを考えさせられる。

 

突然だが、コラムニストの小田嶋隆は次のように云う。

 

ともあれ、私は、しばらく前から、平成令和の日本について考える時、一部の恵まれた人たちが、大多数の恵まれていない人たちを黙らせるための細々とした取り決めを、隅々まで張り巡らしている社会であるというふうに感じはじめている。

 もう少し単純な言い方をすれば、彼らが、「怒り」を敵視し、「怒りを抱いている人間」を危険視し、市井の一般市民にアンガーマネジメントを求めることによって実現しようとしているのは、飼いならされた市民だけが生き残る牧場みたいな社会だということだ。

 

ジョーカーは、「牧場みたいな世界」に対して、容赦なく攻撃を開始するということか。

 

街は、ピエロの格好をした人間が「暴発」したことに共鳴し始め、アーサーと同じ不全感にとらわれている多くの若者たちが、ピエロの扮装をして警察と対峙し、街を破壊し始める。 若者はいつしかアーサーを神のように崇めるようになっていく。

 

ラストシーン、いくつかによくよく見れば「バットマン」のジョーカーになっていくアーサーの片鱗がわずかに見える。

 

アーサーは精神病院から逃げた。彼はどこに向かったのか。

 

冷静に論評できない映画だ。

 

 

 

 

松岡勲さんの戦後の靖国遺児参拝をテーマにした著書『靖国を問う』が朝日、毎日で取り上げられる。

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以前に紹介した大阪の友人、松岡勲さんの戦後の靖国遺児参拝をテーマにした『靖国を問う』が、2紙で紹介されている。

小さな出版社で発行部数も少ないにもかかわらず、2紙が大きく取り上げるのには、やはりこの問題には重要な歴史的意義があると判断されているのだろう。

中身ももちろん装丁も素敵な本です。ぜひ。

『アイリッシュマン』(2019年/アメリカ/209分・監督マーティン・スコセッシ)最後の20分。デニーロはフランクの人生のこもごもを言葉少なに見事に演じきっている。

12月11日

久しぶりに映画をみる。

アイリッシュマン』(2019年/アメリカ/209分・監督マーティン・スコセッシ

3時間を超える長尺。60年代から90年代に到るアメリカのマフィアと全米トラック労組のからみをアル・パチーノとロバートデニーロ他が演じている。2回居眠りしてしまった。が、居眠りしなくても登場人物の相関関係は理解できないだろう。一人の人生は3時間かかっても描き切れない。

ただただ役者の凄みに引きずられた3時間余。デニーロ30代から80代まで。CGも使っているというが、若者の視線のきつさはCGをもってしても表現できないなと思った。

マフィアにはシチリア人しかないれない。デニーロ演じるフランクはアイルランド人。マフィアに気に入られてヒットマンとなって、全米トラック労組の支部長にまで上り詰める。

最後の20分。デニーロはフランクの人生のこもごもを言葉少なに見事に演じきっている。

 

12月12日

散歩に出かけようと玄関のドアを開ける。微かな湿気。地面が濡れているのが見える。夜中に雨が降ったようだ。

境川河畔にでると、水面に川霧が立ち込めている。珍しい。長いこと散歩しているが、ほとんど記憶にないくらい。

 

調べてみたら、川霧は水温と気温の差が8度以上あるとあらわれる現象なのだとか。

はてどっちが高くて低いのか。気温は今朝は8℃。水温がかなり高いということか。

 

上って来た太陽の光が水面にはじけ、川霧がその風景をにじませる。

 

Mさんに写真を撮ってもらったのだが、この淡い川霧はなかなか捉えることができない。

 

代わりと云っては何だが、最近話題になっている奥会津の霧幻侠の写真を拝借する。

ぼんやり見えるのは渡し船。霧幻侠は金山町と三島町にまたがる只見川沿いの渓谷のこと。太古の昔からこの光景はあり続けてきたのだろうが、 人口に膾炙する ようになったのはごく最近のようだ。

誰となくこのあたりのことを霧幻侠と呼ぶようになったという。だから地図上にその名はない。

私の生まれた町から2,30㌔奥に入ったあたり。まだ、実際にこの風景を目にしたことはない。

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写真はLINEトラベルhttps://www.travel.co.jp/guide/article/33974/から拝借しました。