『ジョーカー』(2019年/アメリカ・122分・監督トッド・フィリップス) どこまでも暴力的であり、すさまじく汚辱に満ちていて、限りなく残虐、全く絶望的で異様に煽情的であり、そして深い悲しみに満ちていて、かつ極上の美しい映画。そして希望も救いもない映画。

このブログ、覚え書きと言いながら、幾つも書き忘れていることがある。読んだ本、見た映画、会った人。暮れにはそれらを「総ざらい」するつもり。

 

ロバート・デニーロの『アイリッシュマン』については書いた。

次の日、またデニーロに会ってしまった。

 

『ジョーカー』(2019年/122分/R15+/アメリカ/原題:Joker/脚本トッド・フィリップス・スコット・シルバー/監督トッド・フィリップス/出演ホアキン・フェニックスロバート・デニーロ

 

先月、卒業生のI君に会ったとき、映画の話になった。

「ジョーカー、見ました?」

「いや」

「え?ほんとに?」

呑んではいたが、酔ってはいなかった。彼の目は

「『ジョーカー』を見ないで、今年の映画を語らないで」

と言っていた。

 

そうか、そんなにいいのかと思った。でも『バットマン』だろ?とも思っていた。

みないでは何も言えない。

リニューアルなった南町田グランベリーパークシネマズ109での、これが初めての映画となった。

座席数72の10番スクリーン、一日2回上映。最盛期は過ぎたようだ。観客は10名ほど。シネコンではもうマイナーな扱い。客が入っていないようだ。事実、明日には上映回数は1回に。

 

まず、最初に結論を云っておこう。

今年は去年、一昨年に比べてみた映画は少なかったが、これは間違いなく今年のベストである。ケン・ローチの「家族を想うとき」はまだ見ていないので別として。

 

バットマンの悪のヒーロー「ジョーカーの誕生秘話」という触れ込みだが、原作には全く出てこないオリジナルの脚本。

 

さてばいいのだろう。

 

あらすじを追って一つひとつについて書いていきたいという衝動がある。

どのシーンも精妙につくられていて、トーンダウンするところがない。

 

しかしネタバレはしない。いい映画だからこそ、多くを語らない方がいいかもしれない。

 

息つく暇のない緊張の2時間だった。

どこまでも暴力的であり、すさまじく汚辱に満ちていて、限りなく残虐、全く絶望的で異様に煽情的であり、そして深い悲しみに満ちていて、かつ極上の美しい映画。そして希望も救いもない映画。

 

悪のヒーロー誕生物語では全くなく、現在の世界を覆う格差と貧困と、人々の絶望のエネルギーのすさまじさを随所に感じさせる。

これを見た多くの人々が、その救いのなさに否定的な感想をもつのかもしれないが、この脚本は一級の文学作品だと思うし、映画そのものもきわめて高い芸術性に支えられていると思った。悲しみと憎悪、絶望と悪のコラボ。

 

主人公アーサー・フレックは、母親の虐待による脳の障害をもっている。いわゆる知的に遅れているように見える。妄想の中に入ることも多い。コメディアンとしての仕事はうまくいかず、周囲との人間関係もうまく結べない。

病気の症状として、おかしくなくてもいつも笑いがこみ上げてくる。冒頭はカウンセリングのシーン。アーサーは、カウンセラーが自分を見つめてはいるが、話をまったく聞いていないことを知っている。

 

これが物語の始まりだが、自らの存在を誰にも肯定されない(かろうじて小人症のコメディアンゲイリー(リー・ギル)をのぞいて)人間がどのように暴発してくのか、その過程が描かれる。

 

ネタに入りたいが、入らない。

 

まいったなあ、である。唯一救いと言えば、それは音楽かもしれない。

 

ホアキン・フェニックス、どんな接写にも耐える演技力。ダンスは何といえない美しさ。地下鉄で女性に絡む酔漢たちにコケにされ、殴られ蹴られているときに、アーサーはもっていた銃で彼等を撃ってしまう。

ここで笑いは症状から快感の表現に転化していくようだ。

 

最後の方のシーンで、著名なテレビ番組の司会者であるマレー・フランクリン(ロバート・デニーロ)が、アーサーに手を差し伸べるかに見える。しかしアーサーはそれが結局のところ自分を踏みつぶす行為であることを見抜く。デニーロは、そんな人間のいやらしさを存分に表現している。デニーロは私達であり、私たちがデニーロを生きている、そんなことを考えさせられる。

 

突然だが、コラムニストの小田嶋隆は次のように云う。

 

ともあれ、私は、しばらく前から、平成令和の日本について考える時、一部の恵まれた人たちが、大多数の恵まれていない人たちを黙らせるための細々とした取り決めを、隅々まで張り巡らしている社会であるというふうに感じはじめている。

 もう少し単純な言い方をすれば、彼らが、「怒り」を敵視し、「怒りを抱いている人間」を危険視し、市井の一般市民にアンガーマネジメントを求めることによって実現しようとしているのは、飼いならされた市民だけが生き残る牧場みたいな社会だということだ。

 

ジョーカーは、「牧場みたいな世界」に対して、容赦なく攻撃を開始するということか。

 

街は、ピエロの格好をした人間が「暴発」したことに共鳴し始め、アーサーと同じ不全感にとらわれている多くの若者たちが、ピエロの扮装をして警察と対峙し、街を破壊し始める。 若者はいつしかアーサーを神のように崇めるようになっていく。

 

ラストシーン、いくつかによくよく見れば「バットマン」のジョーカーになっていくアーサーの片鱗がわずかに見える。

 

アーサーは精神病院から逃げた。彼はどこに向かったのか。

 

冷静に論評できない映画だ。