甥の結婚式で仙台へ。

8月31日

兄の長男、甥の結婚式があって、仙台へ。

 

東京駅で津田沼に住む長女と子ども二人と合流。4人席に4歳5歳を含めて5人で坐る。

次女のところは、下の子が生まれて3か月、まだ動けない。

 

はやぶさ。仙台まで1時間半。全席指定の触れ込みだが、デッキに何人か立っている。

 

立ち席特急券があるとのこと。

 

込んでいて仙台以北に急ぐときは便利だけど、上野と大宮しか停まらないというのも不便と云えば不便。

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狭い座席できょうだいひともめふたもめ、何か食べていると静かなのだが。

 

仙台、快晴。横浜より少し涼しいか。

 

わたしのほうは甥、姪が二人ずついる。結婚式は久しぶり。

 

新郎の甥は今年41歳。新婦は34歳。

 

男の満41歳はかぞえの厄年。いいおっさんのイメージだが実物はとにかく若い。背も高く太ってもいない。派手めのタキシード姿を見て、孫5歳女子は「王子様みたい!」。

新婦も若く美しい。

 

緊張が伝わってくる兄のスピーチで会はおひらきに。

 

遠くから来た親戚、友人総勢30数名で秋保温泉泊。岩沼屋(1625年開館)という古い旅館。

秋保温泉古墳時代に存在していたと言われる。

歴史にはっきり表れるのは欽明天皇(在位531年~539年)のころだとか。天皇が重い皮膚病に罹患、秋保のお湯を都まで搬送させ沐浴したところ快癒したことから「秋保の湯」が世に知られるようになったという。

 

都まで東北から湯を搬送ってほんとうかな。800㌔も離れているけど。

そんな勢力が欽明天皇にあったのか?

 

子どもたちが走り回るうたげだが、大人の声は遠慮気味。初対面の人が多いせい。

新婦のご両親とお話しする。

山形在住。会津と近接しているせいか、どこか言葉が懐かしい。また新しい親戚ができたことになる。

 

 

岩沼屋は廊下などのいたるところに、刀や書、陶磁器など古いものがたくさん展示してある。

浴場への行きかえりに見学。

 

新しいものでは、佐藤忠良の小さなバンカラ学生像が無造作に飾ってある。触(さわ)れる。

 

十三代今右衛門の大ぶりの色鍋島も(たぶん)。その隣りに堂々としたこれも大ぶりの白磁のつぼ。当然、触れない。

 

骨董や焼き物はよくわからないが、風格のようなものは感じる。説明が書いてあるからかもしれないが。

 

ふたつの大浴場もかなり大きい。太い材木をふんだんに使った木組みの天井。重厚。

最近では珍しい”夜通し営業”。

朝4時に入ったが、出るまでずっと一人だった。

 

私たちがいないと食欲が減退してしまう”らい”を家に置いているので、ゆっくりはできない。午前中に親類縁者と別れて仙台へ。また5人ではやぶさ

 

最前部をかたどったはやぶさ弁当を食べて上機嫌の孫男子4歳は、東京駅で起こされて不機嫌。

荷物があるので総武線の電車まで送るが、機嫌は直らない。

ネックスの写真を撮ってようやく機嫌をなおしたとか。

 

 

総武線のフロアで異なものを発見。

証明書用の写真を撮るブースかと思ったら、「ステーションデスク」というものらしい。

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「働く人の”1秒”を大切に」というのがコンセプトだと、置いてあったリーフレットに書いてある。

15分250円で借りるレンタルスペース。1人用2人用とある。事前予約が原則。

 

わずかなスペースでも商売にしようというJRのあきんど根性。

 

忙しくない人も、忙しいような気になって使うのかもしれない。

市場の開拓?

 

山手線、田園都市線を乗り継いで32時間ぶりに南町田。

仙台に比べ気温は変わらないが湿度が高い。

バスは休日時間、インターバルが長い。タクシーはその分盛況。待ち人多し。

 

炎天下、立って待つか?歩いて家に近づくか?

 

 

 

 

 

 

 

読み飛ばし読書備忘録⑨ それぞれの「現場」で抑圧してくるものに対して知的に闘っていくための指南書

読み飛ばし読書備忘録⑨

『呪いの言葉の解き方』(上西充子・晶文社・2019年・1600円+税)

 

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「呪いの言葉」という表現はしてこなかったが、若いころからこれに類するものには幾度もぶち当たってきた。

 

「お前はこの仕事、自分で選んだのだろう。だったらぐたぐた文句を言うなよ。文句を言うならやめてしまえ」

 

 

こういう言葉を若いころ、何度も投げつけられた。反論にもならない反論を繰り返したが、「辞めたい」とは思っていたが「辞める」とは言わなかった。

 

相手の思考を停止させ、反論のできない状況に追い込むのが「呪いの言葉」だ。

 

何度も「呪いの言葉」をかけられてくると、「ああ、そうか。これは議論ではなくて、黙らせるための言葉なんだな」ということが分かってくる。

 

親と話をしていて、まあそれなりに子どもが生意気な口をきくと、親は

 

「自分で稼げるようになってから言え」

 

これは、教員が生徒に云うのも同じ。

 

「権利を主張するなら大人になってちゃんと義務を果たしてから主張しろ」

 

というもの。

 

すぐには大人になんかなれないのだから、隠されたメッセージは

 

「黙れ!」

 

上西さんは内田樹さんの次の言葉を引いている。

 

『人が「答えのない問い」を差し向けるのは、相手を「『ここ』から逃げ出せないようにするため」である。』

 

その通りだと思う。

 

 

上西さんは、幾つも「呪いを解く」ノウハウを紹介している。そしてその意味を

 

「もちろん気持ちの上で呪縛から距離を置くことができても、現実に自由の身になれるわけではない。けれども、まずは自分が相手の「呪いの言葉」の呪縛の中に押し込められ、出口のない息苦しさの中でもがいている、その状態を精神的に脱することが必要だ」

 

という。

 

本書では、第2章 労働をめぐる呪いの言葉

     第3章 ジェンダーをめぐる呪いの言葉

     第4章 政治をめぐる呪いの言葉

 

と書き進められる。

ドラマやコミックを引き合いに出して展開する持論はとっても軽快でおもしろい。

「逃げ恥」など、私は見ていなかったからTSUTAYAで借りてこようと思ったほどだ。

映画『サンドラの週末』(2014年・ベルギー・監督ダルデンヌ兄弟)は私も好きな映画だが、もう一度じっくり見た気分になった。

 

そして私がいちばん興味深く読んだのは、上西さんがこの間の働き方法案に関して、徐々に「活動家」風に変貌していくその過程だ。

 

実際の政治の場のおかしさを身をもって感じ取り、そこでへこみながらもしぶとく対抗して社会運動のノウハウを仲間とともに見つけていく姿がとってもかっこいいと思った。

 

処世術を身に着け終わった大人は別として、職場や家庭、はたまた彼氏彼女との間で忸怩たる思いで沈黙をしてしまう若者にぜひ読んでほしい本。二度三度と開きたくなること請け合いだ。

 

 

 

 

 

 

久しぶりの遠出。 名古屋で大内裕和さん、内田良さん、岡崎勝さんと話す。

8月27日

退院して1か月。外出はごくわずか。通院とコンサートが二つほど。逼塞?蟄居?状態。

 

今日は珍しく遠出。名古屋まで。

 

岡崎勝さんとつくる予定の「教員の働き方本」の座談会のため。

 

名古屋駅の新幹線下りホームで行列を見かける。きしめんの立ち食いのお店。

 

そそられるが、行列は苦手なので断念。在来線のホームの、行列していないお店でかき揚げのせのきしめんを食べる。

ふつう。

 

何十年も前に在来線〇番ホームのお店がうまいというので、わざわざ食べに行ったことがあった。薄い鰹節が、きしめんの湯気に揺られて踊っていたのを憶えている。

 

 

地下鉄名城線左回りで名古屋大学駅で下車。最初の会場は名古屋学生青年センター。

目のまえが名古屋大学

 

会議室に入ると、すでに岡崎さんと編集の遠藤さんが来ている。

 

時間前に大内裕和さんがみえる。中京大学の先生。「ブラックバイト」という言葉を世に広めた方。

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お会いするのは、17~8年ぶりだろうか。相変わらず若々しい。

 

テーマは「給特法」。14時前から世間話を始めて、すぐに本チャンに。

大内さんは速射砲のように次々と言葉を繰り出す。小気味がよい。

岡崎さんはゆっくりと自説を話す。

 

お二人ともとにかく視野が広い。

 

自分はというと、家族以外とほとんど口を聴いていないせいか、アタマも口もまわらない。視野の狭さは相変わらず。たどたどしくついていくばかり。お二人のお話につい聴き入ってしまう。

 

 

 

終わってトイレに行くと窓の外、ひどい雨。

 

休憩をはさんで、続いて目の前の名古屋大学教育学部で先生をしている内田良さんと第二試合。少し時間を早めていただく。土砂降りの中、歩いて名古屋大学の構内へ。

 

大内さんとの会がデーゲームならば、こちらはさしづめ薄暮試合か。雨中ではあるが。

 

 

内田良さん、初めてお目にかかる。テレビや本の帯などの写真は拝見したことがあるが。

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こちらのテーマは「部活動」。内田さんは部活動や教員の残業についての本を出している。

「出たばかりですが・・・」と新著の『「ハッピーな部活」のつくり方』(岩波ジュニア新書・2019年8月刊)をいただく。中澤篤史さんとの共著。中澤さんは部活動について研究している早稲田大学の先生。今度の本では執筆をお願いしている。

中学生向けに現在の部活動を批判的に書いた本は、前代未聞。夏休み前に刊行されれば読書感想文の対象になったかもしれない。内田さんの本、職員室の机の上に置くと知らないうちになくなることがあるというはなしがある。この本も焚書の対象にならなければいいが。

 

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大内さんも「傍聴したい」と同席。岡崎さんがリードして議論がすすむ。内田さん、ゆっくりと静かな語り口で自説を話す方。

 

最後に、部活動って今後どうすればいいかねという話になり、それぞれ思いを語る。

岡崎さん、部活動何とかすれば少子化に歯止めがかかるよね、と。

 

やっぱり視野が広い。

 

打ち合わせを兼ねて名古屋駅で食事。21時前ののぞみに乗る。遠藤さんと呑みながらよもやま話。新横浜まではおよそ80分。すぐに着いてしまう。

 

Mさんに十日市場駅まで迎えに来てもらう。

 

帰宅したら、岡崎さんの新しい本が届いていた。

 

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読み飛ばし読書備忘録⑧ 山崎洋子『女たちのアンダーグラウンド 戦後横浜の光と闇』『誰にでも、言えなかったことがある 脛に傷持つ生い立ちの記』どちらも不満が残った。


佐野SAの労働争議、まだ続いている。

経営のでたらめさに対して、まっとうに立ち向かい、解雇された管理職のもとに集まった労働者たち。「佐野ラーメンが食べられない!」レベルのメディアに引きずられないで、もし働く彼らと同じ立場だったら、と考えたいな。

 

厚労省が36協定のひながたに過労死ライン80時間の上限を記載、指摘され取り消した。

厚労省の役人の意識レベルがよくわかる。行政や政治が持ち出した「働き方改革」なんて、せいぜいがこの程度。「改革」とは名ばかりの資本優遇と労働者の切り捨て。

 

広島でトラブルの幸手市長が辞意表明とのこと。その後、この事件についての報道はない。警察の取り調べが続いているのだろうが、解せない事件。夜中に一人で呑みに出てトラブルとなったことの道義的責任を追及されての辞任。

 

弁護士と行った記者会見からは、ハメられたような。黙っていればただのおっさんなのに、深夜の飲み屋で関東地方の市長だと話したようだ。ビール、1本ぐらい呑んで1万円を置いて席を立ったという。「事件」はそのあとに起きたらしい。

男はカッコつけすぎると、思わぬ事件に遭うものだ。

 

どこで結末となるのか。

 

 

 

香港と韓国、目が離せない。

トランプはポチ同士の争いを面白がっている。

 

 

読み飛ばし読書備忘録⑧

『女たちのアンダーグラウンド 戦後横浜の光と闇』(山崎洋子・2019年・亜紀書房

 

これも7月のに読んだ本。記憶が薄れている。

でも印象は残っている。

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横浜の裏面史を描いていて、なにやらおもしろそうと思わせるプロローグ。

でもそれも途中までで、なんだか話が広がりすぎて、まとまりがない。

後半は、インタビューが挿入されているが、それぞれのエピソードはかなり興味深いのに、全体にどこに向かっているのかが判然としないから、それらも生きてこない。

 

なのに、あちこちの書評はほとんど好意的なもの。私の読み方がおかしいのかな。

 

8月19日付けの読書メーターのCOOちゃんという人の

せっかく初めの方は戦後の横浜でのことを丁寧に語っているのに話が多岐に渡ってまとまりがない。後半の「黄金町」やタイ女性たちの話などはざっくり荒く、挿話のインタビュー記事もそれだけで本になりそう。エピローグで無理矢理まとめた感じ。でも、著者はいったい何を言いたかったんだろう?と思ってしまった。

 

戦後のハーフ(混血児)の問題なのか、GHQに用意された慰安婦の問題なのか、それとも横浜の「外国人」のことなのか、はたまた寿町や沖縄なのか、黄金町の女性たちなのか、最後は無理やりまとめたかなという感じ。

 

私の感想はこのCOOさんのレビューとほとんど同じ印象。読み終わって強い不満が残った。

 

これは、同じ山崎洋子さんの

『誰にでも、言えなかったことがある 脛に傷持つ生い立ちの記』(清流出版・2014年)

も同様。

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「すごい人生だなあ」と驚かされるほどの半生だが、ディテールの先に何があるのかが判然としない。

自殺した祖母との濃密な関係、5回結婚した父親との関係、義母とのすさまじい軋轢、実母の認知症、どれをとっても作品として昇華させるべきエピソードなのに個人的体験の羅列と云えば失礼かもしれないが、そこにとどまっていると一読者は思う。

 

ドキュメンタリーとしても、辛さや大変さは伝わってくるが、作家の視点からの分析の深さが感じられない。読みたいのはそういう作家の「物語」と「思索」だ。

それにこのタイトルはないだろう、と思う。

 

 

勝手な言い草かな。

読み飛ばし読書備忘録⑦ 『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』(岩竹美加子・新潮新書・2019年)権利とウェルビーイングが基本のフィンランドの学校

昨日。

外出から戻ったときにはエアコンを入れたが、夕方に急に気温が下がったので切った。

そのまま、就寝時もエアコンをつけず扇風機だけで。

朝まで寝苦しくもなく、寝入った。処暑

 

読み飛ばし読書備忘録⑦

フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』(岩竹美加子・新潮新書・2019年)

 

7月に読んだので、記憶はだいぶ薄まっている。フィンランドの教育を語る本はいくつもあるが、親の立場から実情を伝える本としては、こけおどしにならずに、そして「どや顔」でもなく、静かに実情を語っているところが好印象。

 

フィンランドの国土の広さは日本の9割ほど。人口は550万人。兵庫県と同じくらい。

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フィンランドでは教育に限らず「権利」と併せてウェルビーイングという概念が重要視されるという。まずこれにびっくり。

 

このウェルビーイングという言葉が面白い。

表す意味はとにかく広い。

からだに不調がなく心地が良く晴れやか、快適、生き生きしている、気分がいい、自尊心が持てる、自己肯定感がある、から、性的充足、不安がない、いじめ、虐待がない、障がいがあっても、支援や保護が受けられる、経済的、精神的に安全で安心、貧困、紛争、戦争からの自由などとにかく幅広い概念を表すのだそうだ。

 

ウェルビーイングは、1946年の世界保健機関(WHO)憲章草案作りのときに「健康」を表すものとして使用された言葉。ウェルフェアよりも概念として踏み込んでいて、規定する範囲が広い。

 

もちろん「福祉」という意味でも使われる。

 

『日本で福祉は、ウェルフェアとして理解されており、ウェルビーイングの側面が見落とされている。福祉は日本で、国家や地方自治体が国民に対して行う公的なサービスを指し、社会的弱者に対する援助という意味合いが強い。一人ひとりが日常生活の中で体幹し、社会と国家の在り方に連続する心地よさではない。』

 

学校も含めた公的な社会システムが「心地よい」を基盤として形成されている社会、これひとつとってみるだけで日本の社会や学校との違いがわかる。

 

その象徴的なシステムが、一斉卒業、一斉就職という仕組みはフィンランドにはないこと。

 

「社会人」という概念自体がなく、学生と社会人の間を自由に行き来出来る「二分化もなく、重複したり、その間を緩やかに移動することができる」社会、まさにウェルビーイングが優先される社会。

 

本の学校システムとの表立った違いは、入学式などの儀式がないとか、運動会などの学校行事がない、部活動もない、授業時間が少ない、学力テストも塾も偏差値もない、服装や髪形などの規則もない、もちろん教員の長時間労働もないなど多岐にわたる。

 

あまりの違いに頭がくらくらする。

 

それらは歴史的文化的基盤から必然的に生み出されてきたもののようだ。

日本でいう「教育課程」のようなものが、根本的に違う。

 

それらについて本書ではかなり詳細に述べている。

 

それは同時に明快な日本との比較文化論になっている。

 

たとえばフィンランド式の「人生観」の授業と道徳、いじめの予防の方法論、性教育、親の学校とのかかわり方、と展開されるが、基本はやはりウェルビーイング、日本人としてフィンランド社会で暮らしていて、とにかく『楽だった』という筆者の感想に驚かされる。

特に道徳に関わる記述には刺激を受けた。

 

親として日本の学校フィンランドの学校を経験した筆者は、学校のかかわり方の違いを次のようにいう。

『このインタビューで、「子どものため」という言葉を何度か聞いた。それは、日本のPTAでもよく聞く言葉である。でも、同じ子どものためと言っても、2つの国の保護者組織の活動とその背景にある考えは、みごとにかけ離れている。逆方向を向いているとも言えるだろう。フィンランドでは、学校生活のウェルビーイングを高めようとして、子どものために活動し、行政に影響を及ぼそうとする。日本では子どものためと我慢して、したくない活動に参加させられる。親同士が「ずるい」などといがみ合い、入会しなければ子どもに不利益があると脅される。』

 

フィンランドの親の組織が行政に与える影響力の強さには驚かされる。日本のようにどこか情緒的で保守的になってしまうPTAのありかたとは根本的に違う。

 

もちろん、教員の在り方もかなり違う。教育という仕事に関わるときの日本的な『湿度』の高さが感じられず、当たり前のことかもしれないが、きわめて合理的である。生徒に必要なものを過不足なく与えるために教員は何をすればいいのか、その時にも「権利」と「ウェルビーイング」を前提に研究がなされているようだ。

たぶん、フィンランドの教育システムであれば、日本の教員の悩みの大半は消失し、全く別の悩みが出現するのだろう。そんなこと悩んだことないよといった悩みだ。

 

一読して思ったことは、本書はもちろんノウハウ本などではなく、比較文化の本だということだ。

 

読むほどに日本の教育には、歴史的、思想的、あるいは哲学的な深まりに欠けているということがよくわかる。

 

10年ごとの学習指導要領の改定などをみてもそうだが、官僚や政治家の思いつきが、全国に存在する多くの偏りや違い、そしてさまざまな格差のあるこの国全般を、だらーっといちように支配しているのが実態だ。

 

本来的には、東京の教育と沖縄の教育が同じであるはずがない。

 

北欧の小国フィンランドの、「追いつけ追い越せ」ではない、ある意味辺境において静かに形成されてきた文化的な営みのひとつとしての教育や学校の在り方、それを静かに学ぶこと、それがこの国の学校教育の現状のゆがみ具合いを認識する共通基盤をつくりだすことになるのではないかと思う。議論の基盤をつくるのに最適に教材ではないか。

 

もちろんフィンランド社会とてさまざまな構造的な問題を抱えている。自らが移民として諸外国に出ていった歴史もあるし、現在は移民受けいれ問題でも揺れている。ロシアと国境を接しながら、デンマークのようにNATOに加盟しているわけでもない。

 

アキ・カウルスマキの映画をみていると、そうしたフィンランドが抱えている問題の深さ、深刻さがほの見える。

 

しかし、兵庫県ほどの人口の国でありながら、経済的に独立を保ち、欧州諸国とのバランスの中で生きていかざるを得ない小国フィンランド、その気概には学ぶべきことがたくさんあるような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フィリアホール、ホワイエでの小さなコンサート。ヴァイオリンとクラリネットの若者二人、なんとも精妙で豊穣な音楽を聴かせてくれた。

 

23日

午前中から青葉台へ。近所の友人Nさん、クルマを拙宅の駐車スペースにおいて同乗。3人で出かける。Nさんはヴァイオリン弾き。音楽に造詣が深い。ヨーロッパにも頻繁に出かける。元は高校の英語の教員、堪能な英語でホテルからコンサートの予約まで一人でやってしまう。人に出会う?のが上手な人。

 

フィリアホール。”István Kohán  &  松本紘佳ジョイントコンサート”

 

子どもや障がい者を積極的に受け入れてともに楽しめるコンサートづくりを目ざすグループ「愉音」が主催。

時間設定はママたちや介助者の人たちが集まりやすい11時開始。チケットも1000円とリーズナブル。というのも、会場がフィリアホールの「ホール」ではなく「ホワイエ」だからだ。

 

席数109。車いすスペースもゆったり取ってある。子どもたちが寝転ぶスペースも。

ここでこんなコンサートが可能なのかと驚く。実際の音は響き過ぎず、そこそこ自然に聴こえる。

 

演奏は、ピアノに松本有理江さんを迎えての デュオとトリオ。ピアノは、PA付きのキーボード。

 

プログラム

 ヴィエニャフスキ : 華麗なるポロネーズ1番(V×Pのデュオ)

 バルトーク : ルーマニア民族舞曲(Cl×Pのデュオ)

 マスネ : タイスの瞑想曲(V×Pのデュオ)

 バルトーク : 3つのチーク地方の民謡(Cl×Pのデュオ)

 サラサーテ : カルメン幻想曲(V×Pのデュオ)

 モンティ : チャールダーシュ(V×Cl×Pのトリオ)

 

ドヴォルザーク : 家路 ~ 交響曲第9番新世界より」から ~

 

子どもたちの声が時折聞こえる。

驚くのは、演奏の質の高さ。松本紘佳は相変わらずの外連味のない明確な意図をもった演奏。キレがよく音程の精確さはいつも通り。弾くごとに音量も上がってくる。もう10年聴いているが、すでにして安定したプロの演奏家の風格。

 

さらにクラリネットのコハーン・イシュトヴァ―ンがすごい。クラリネットのソロを聴く機会は、クラシックではほとんどないが、正直、度肝を抜かれた。若さ溢れる超絶技巧はもちろんだが、「これでもか」という押し付けがましいところがない。これ以上ないというほどの音楽の「軽さ」が感じられて、ぞくぞくした。

2013年からハンガリーから日本に拠点を移して演奏活動を続けている。日本音楽コンクール1位などいくつものコンクール、賞を得ている。日本語も堪能だ。

 

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ハンガリー出身で、バルトークを得意としている。途中のトークでは、かつてバルトーク記念館の近くに住んでいて、そこで初めて「3つのチーク地方の民謡」を聴いた時、「自分はソロの演奏家になるんだ」と確信したというエピソードを披露。

 

いちばんの山場はモンティのチャールダーシュ。これはいままで聴いたことのない感興を味わえた。

松本紘佳との超高速の掛け合いはみごとの一言に尽きるし、緩徐部分での艶っぽさもよかった。こんなチャールダーシュは初めて。何じゃあ、これは!と思った。

 

昼間11時からの軽音楽会といった設定など吹っ飛んでしまうほど、時間は短かったけれど十分に音楽を堪能したコンサートだった。

 

 

 

 

 

 

読み飛ばし読書備忘録⑥ 『蜜蜂と遠雷』(恩田陸・幻冬舎文庫上・下 2019年3版 単行本2016年)私はちょっとおなかいっぱい、の小説だった。

8月22日(木)

早朝に起きだして、エアコンを切り、窓を開ける。

冷たい風が入ってくる。

曇天。

急にやってきた秋の気配。

 

境川河畔は虫の音だけ。蝉の声は聞こえない。

カモの親子、2羽の子ガモが流されるように親ガモのあとをついていく。

 

雨もよいだったので傘を持って出かけるが、ささずに帰ってくる。

 

そういえば、まだ日傘をさしていない。

 

9時すぎ、雨が降ってきた。

 

 

昨夜は、退職時の職場の同窓会?「お達者倶楽部」と呼びならわしている会があった。まだ本調子とは言えず「お達者」でないので、欠席。

年に一度、気の置けない元同僚たちが集まってひと晩を過ごす。ヒラも管理職もない。10年近く続いている。老人だけでなく若者、中年も。

 

読み飛ばし読書備忘録⑥

入院中の楽しみのひとつが、院内にあるコンビニ、ナチュラルローソンへいくこと。タリーズコーヒーの隣にある。平日は消灯時間の22時まで開いている。点滴を引っ張りながら暇つぶしに日に2回ほどヨーグルトやバナナ、飲み物などを買った。

 

雑誌や書籍もそこそこ揃っている。そこで

 

蜜蜂と遠雷』(恩田陸幻冬舎文庫上・下 2019年3版 単行本2016年)

 

を見つけた。

単行本が出た時に図書館に予約したが、待てるような順番ではなかった。2016年の下半期の直木賞、それに本屋大賞も。いつか読めるだろうと思っていた。その「いつか」が突然やってきた。

病院で読むにはたぶんちょうど良い?と上下を購入。早速ベッドで読み始めた。ベストセラーだけど、一応あらすじを。

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あらすじ

3年ごとの芳ヶ江国際ピアノコンクールは今年で6回目だが、優勝者が後に著名コンクールで優勝することが続き近年評価が高い。特に前回に、紙面だけでは分からないと初回から設けられた書類選考落選者オーディションで、参加した出場者がダークホース的に受賞し、翌年には世界最高峰のS国際ピアノコンクールで優勝したため、今回は大変な注目を集めていた。だが、オーディションの5カ国のうちパリ会場では、「不良」の悪名の審査員3人は凡庸な演奏を聴き続け、飽きて来ていた。だがそこへ、これまでにない今年逝去の伝説的な音楽家ホフマンの推薦状で、「劇薬で、音楽人を試すギフトか災厄だ」と、現れた少年、風間塵は、破壊的な演奏で衝撃と反発を与える。議論の末、オーディションに合格する。

そして日本の芳ヶ江市での2週間に亘るコンクールへ。塵は師匠の故ホフマン先生と「音を外へ連れ出す」と約束をしていて、自分では、その意味がわからず、栄伝亜夜に協力を頼む。亜夜は塵の演奏を聴いていると、普通は音楽は自然から音を取り入れるのに、彼は逆に奏でる音を自然に還していると思った。マサルは子供のころピアノに出会わせてくれたアーちゃん(亜夜)を出場演奏者に見つけ再会する。3人の天才と年長の高島明石のピアニストたちが、音楽の孤独と、競争、友愛に、さまざまに絡み、悩みつつ、コンクールの1次2次から3次予選そして本選へ、優勝へと挑戦し、成長して、新たな音楽と人生の地平を開く。

 

 

 

 

これは恩田陸という作家がつくりだしたまぼろしの「コンクール」。魅力的な登場人物たちが、劇画タッチで動き出す。面白い。こんな参加者たちを俯瞰できるのは読者冥利。

 

しかしコンクールがこれほどスリリングなものなのかどうか。もちろん寡聞にしてそのの実態など知らないが、コンクールの裏側を描いたショパンコンクール 最高峰の舞台を読み解く』(青柳いずみこ・中公新書2016)中村紘子などの文章から感じられたのは、コンクールってどこまで行っても、順位をつけること「選ぶ」ことの「基準」のあいまいさだ。

 

数年前、大阪国際音楽コンクールの一部門を聴いたことがあるが、この時もこの小説とはまったく別の位相の、コンクールの恣意性のようなもの。何を基準に審査しているのかい?という不満だけが残った。

 

物語が入り組んでスリリングであればあるほど、リアリティを欠くということもある。

正直、読みながら作者の音楽への造形の深さと、それを上回る思い入れの強さに少し引いてしまうところがあった。

 

主人公の風間仁や栄伝亜夜、マサル・カルロス・レヴィ・アナトールはとっても魅力的なのだが、その来歴や行動、そして演奏はあまりに現実離れしている。物語としては美しいけれど、音楽ってもっと物理的な?面もあるのではないかと思う。

 

タイトル『蜜蜂と遠雷』は16歳のピアニスト風間仁の来歴に由来するが、彼は

「16歳、音楽大学出身でなく、演奏歴やコンテストも経験がなく、自宅にピアノすらない少年。フランスで、父親が養蜂業で採蜜の移動の旅をしつつ暮らす。ピアノの大家のホフマンに見いだされ師事し、彼が亡くなる前の計らいで、現在、パリ国立高等音楽院特別聴講生となっている。野性的な演奏で、出場後「蜜蜂王子」と呼ばれるようになる。」

という少年。あまりにスーパーマン過ぎて、あくがなさ過ぎて物足りない。だから面白い、というのも分かるが。

 

                                                                                                            

文中、夥しい数の曲が出てくる。好きな曲も知らない曲もあるが、作者の、微に入り細に入りして言葉を尽くして表現される登場人物それぞれの演奏は、表現、言葉としてはわかるし、その筆力の凄さに驚かされるが、でもそこまで書かれるとなあという思いも一方にある。

たとえ文章で極致まで音楽を表現したとしても、読者からするとその文章に蹂躙されてしまうような気がしてしまう。もっと自由に聴かせてよ、という思いもある。

 

小説だし、本屋大賞だし、直木賞なんだし、超売れたということだから私の違和感などどうでもいいのだけれど、すっと乗り切れないものが残った小説だった。

 

実際にコンクールに参加する人たちはこれをどう読んだのか聞いてみたいものだ。

 

ということで、病院のベッドで読んだこの大長編音楽小説、私はちょっとおなかいっぱい、というものだった。