読み飛ばし読書備忘録⑦ 『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』(岩竹美加子・新潮新書・2019年)権利とウェルビーイングが基本のフィンランドの学校

昨日。

外出から戻ったときにはエアコンを入れたが、夕方に急に気温が下がったので切った。

そのまま、就寝時もエアコンをつけず扇風機だけで。

朝まで寝苦しくもなく、寝入った。処暑

 

読み飛ばし読書備忘録⑦

フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』(岩竹美加子・新潮新書・2019年)

 

7月に読んだので、記憶はだいぶ薄まっている。フィンランドの教育を語る本はいくつもあるが、親の立場から実情を伝える本としては、こけおどしにならずに、そして「どや顔」でもなく、静かに実情を語っているところが好印象。

 

フィンランドの国土の広さは日本の9割ほど。人口は550万人。兵庫県と同じくらい。

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フィンランドでは教育に限らず「権利」と併せてウェルビーイングという概念が重要視されるという。まずこれにびっくり。

 

このウェルビーイングという言葉が面白い。

表す意味はとにかく広い。

からだに不調がなく心地が良く晴れやか、快適、生き生きしている、気分がいい、自尊心が持てる、自己肯定感がある、から、性的充足、不安がない、いじめ、虐待がない、障がいがあっても、支援や保護が受けられる、経済的、精神的に安全で安心、貧困、紛争、戦争からの自由などとにかく幅広い概念を表すのだそうだ。

 

ウェルビーイングは、1946年の世界保健機関(WHO)憲章草案作りのときに「健康」を表すものとして使用された言葉。ウェルフェアよりも概念として踏み込んでいて、規定する範囲が広い。

 

もちろん「福祉」という意味でも使われる。

 

『日本で福祉は、ウェルフェアとして理解されており、ウェルビーイングの側面が見落とされている。福祉は日本で、国家や地方自治体が国民に対して行う公的なサービスを指し、社会的弱者に対する援助という意味合いが強い。一人ひとりが日常生活の中で体幹し、社会と国家の在り方に連続する心地よさではない。』

 

学校も含めた公的な社会システムが「心地よい」を基盤として形成されている社会、これひとつとってみるだけで日本の社会や学校との違いがわかる。

 

その象徴的なシステムが、一斉卒業、一斉就職という仕組みはフィンランドにはないこと。

 

「社会人」という概念自体がなく、学生と社会人の間を自由に行き来出来る「二分化もなく、重複したり、その間を緩やかに移動することができる」社会、まさにウェルビーイングが優先される社会。

 

本の学校システムとの表立った違いは、入学式などの儀式がないとか、運動会などの学校行事がない、部活動もない、授業時間が少ない、学力テストも塾も偏差値もない、服装や髪形などの規則もない、もちろん教員の長時間労働もないなど多岐にわたる。

 

あまりの違いに頭がくらくらする。

 

それらは歴史的文化的基盤から必然的に生み出されてきたもののようだ。

日本でいう「教育課程」のようなものが、根本的に違う。

 

それらについて本書ではかなり詳細に述べている。

 

それは同時に明快な日本との比較文化論になっている。

 

たとえばフィンランド式の「人生観」の授業と道徳、いじめの予防の方法論、性教育、親の学校とのかかわり方、と展開されるが、基本はやはりウェルビーイング、日本人としてフィンランド社会で暮らしていて、とにかく『楽だった』という筆者の感想に驚かされる。

特に道徳に関わる記述には刺激を受けた。

 

親として日本の学校フィンランドの学校を経験した筆者は、学校のかかわり方の違いを次のようにいう。

『このインタビューで、「子どものため」という言葉を何度か聞いた。それは、日本のPTAでもよく聞く言葉である。でも、同じ子どものためと言っても、2つの国の保護者組織の活動とその背景にある考えは、みごとにかけ離れている。逆方向を向いているとも言えるだろう。フィンランドでは、学校生活のウェルビーイングを高めようとして、子どものために活動し、行政に影響を及ぼそうとする。日本では子どものためと我慢して、したくない活動に参加させられる。親同士が「ずるい」などといがみ合い、入会しなければ子どもに不利益があると脅される。』

 

フィンランドの親の組織が行政に与える影響力の強さには驚かされる。日本のようにどこか情緒的で保守的になってしまうPTAのありかたとは根本的に違う。

 

もちろん、教員の在り方もかなり違う。教育という仕事に関わるときの日本的な『湿度』の高さが感じられず、当たり前のことかもしれないが、きわめて合理的である。生徒に必要なものを過不足なく与えるために教員は何をすればいいのか、その時にも「権利」と「ウェルビーイング」を前提に研究がなされているようだ。

たぶん、フィンランドの教育システムであれば、日本の教員の悩みの大半は消失し、全く別の悩みが出現するのだろう。そんなこと悩んだことないよといった悩みだ。

 

一読して思ったことは、本書はもちろんノウハウ本などではなく、比較文化の本だということだ。

 

読むほどに日本の教育には、歴史的、思想的、あるいは哲学的な深まりに欠けているということがよくわかる。

 

10年ごとの学習指導要領の改定などをみてもそうだが、官僚や政治家の思いつきが、全国に存在する多くの偏りや違い、そしてさまざまな格差のあるこの国全般を、だらーっといちように支配しているのが実態だ。

 

本来的には、東京の教育と沖縄の教育が同じであるはずがない。

 

北欧の小国フィンランドの、「追いつけ追い越せ」ではない、ある意味辺境において静かに形成されてきた文化的な営みのひとつとしての教育や学校の在り方、それを静かに学ぶこと、それがこの国の学校教育の現状のゆがみ具合いを認識する共通基盤をつくりだすことになるのではないかと思う。議論の基盤をつくるのに最適に教材ではないか。

 

もちろんフィンランド社会とてさまざまな構造的な問題を抱えている。自らが移民として諸外国に出ていった歴史もあるし、現在は移民受けいれ問題でも揺れている。ロシアと国境を接しながら、デンマークのようにNATOに加盟しているわけでもない。

 

アキ・カウルスマキの映画をみていると、そうしたフィンランドが抱えている問題の深さ、深刻さがほの見える。

 

しかし、兵庫県ほどの人口の国でありながら、経済的に独立を保ち、欧州諸国とのバランスの中で生きていかざるを得ない小国フィンランド、その気概には学ぶべきことがたくさんあるような気がする。