映画『家へ帰ろう』奇跡的にアブラムは友人のもとへとたどり着く。そのさまは、まるでアブラムがヨーロッパ各地に埋められている「躓きの石」を飛び石のようにしてわたっていくようにさえ見える。

   昨年12月下旬に封切られた映画『家へ帰ろう』(2017年・スペイン/ アルゼンチン・原題:El ultimo traje(最後のスーツ)・93分・監督パブロ・ソラルス・主演ミゲル・アンヘル・ソラ)をジャック&ベティでみた。レディスデイだったこともあり、25分前にチケット売り場前に立ったが、整理番号は63番。通路に丸椅子も出て満席。


 ヨーロッパで、映画によるナチスドイツの所業への飽くなき捉え返しが留まらずに続くのは、いまだ抑圧の傷跡を抱えている人に敏感に寄り添おうとする大衆の贖罪意識が健在であるということだろう。

 もうひとつは、映画という表現手段が歴史や政治を扱うのに十分な器量をもっていることへの信頼が、ヨーロッパには存在するということでもあるだろう。

 


 難民問題に揺さぶられるヨーロッパには、アメリカの盟友として軍事大国化するイスラエルへの複雑な感情があることを承知しながら、それでもこうした映画がつくられる土壌を考えると、それは日本とはかなり違う精神風土があるのだなと思う。

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アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の入り口


 昨冬、アウシュヴィッツを訪れた時、ヨーロッパ各地から訪れる中高生の集団に出会ったが、驚いたのはその規模だ。全欧州からアウシュヴィッツを訪れる。訪れるのは義務に近いものがあるようだ。

 

 日本では、戦跡としての広島や長崎、沖縄を訪れる中高生の数は、けっして多くはない。たとえコースに入っていても、換骨奪胎して「訪れた」というアリバイだけ。バスガイドのわずかな案内で「タッチ」だけして他の訪問地へ急ぐ学校もある。よほど丁寧に事前学習を進めないと、「暗い話ばかり」「どうしてそんなに昔のことを」「残酷な話はやめてほしい」と生徒にも保護者にも忌避されることもある。
 

 アウシュヴィッツを訪れた時、体感温度は-20℃。

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 いっしょに降り立った中高生は、多少の軽口を叩きながらワイワイと元気だった。

 その後、厳寒の地、今では原野のようになっている収容所跡を数時間かけて見学するのだが、この季節でさえアウシュヴィッツを訪れることが特別のことではないようだった。

 

 気候に対する感覚が違うとは思うが、日本ではどうだろうか。スキーに行くのならまだしも、体調を壊したらどうするの?と言われてしまうだろう。

 


 アムステルダムクラクフで、石だたみの舗道を歩いていると、10㌢四方の金属の板(が付いた石)が埋め込まれているのに気がつく。

 ナチスの被害者となった人を偲ぶものだが、特定の場所に記念碑が立っているのとは違って、街歩きをしているときに踏んでしまってから気がついたり、光っていて気がつくこともある。

 

 銘板には亡くなった人の名前、生年、亡くなった年、場所が記されている。

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 「つまづきの石」と呼ばれるこの石は、1992年にケルン在住のアーティスト、グンター・デムニッヒ(Gunter Demnig)さんによって始められた運動。今では14000個以上の石がヨーロッパ各地に埋められているという。
 

 第二次世界大戦が終わって50年近く経ってから始まったこの運動が、今でも広がりをもっていることと、各地からアウシュヴィッツを訪れる夥しい数の中高生とは、どこかでつながっている。歴史に対する向き合い方の風土が、日本とは違うようなのだ。

 

 


 前置きが長くなった。本文の方はそれほどスペースを割かなくてもいい。本作は文句なしの傑作である。
 

 アルゼンチン、ブエノスアイレスに住むアブラム、高齢となり家族と離れ老人ホームに入ることに。アブラムはもちろん不満だ。しかし彼にはあるたくらみが。

 

 

 前日、アブラムは孫たちとの写真を撮りたいと家族に告げた。ところがみなそろっても、孫娘のひとりが「写真は嫌いだ」と家の中に入ってこない。アブラムは「この写真をもって老人ホームに入り、みんなに自慢したいのだ」という。その真偽は別としてアブラムには「最後の一枚」の思いがあるのだ。

 

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 孫娘は「1000ドルのスマホが欲しい」と云う。オークションのように孫と駆け引きをしながら800ドルで手を打つというアブラム。納得して写真に入ろうとする孫娘に「本当は1000ドル出そうと思っていたんだ。200ドル儲け損ねたな」と云うと、孫娘はすかさず「本当は600ドルなんだよ」。


 こうして文字にしてしまうと元も子もないのだが、このシーンに、アブラムという男の人生、人との関わりの内実がよく表れている。記念写真には愛くるしい孫娘をしっかり抱いているアブラムと、大好きなおじいちゃんに抱かれて満足そうな表情の孫娘が写っている。愛憎いずれも深い、一筋縄ではとらえきれないアブラム、長い人生の中で形作られてきたアブラムの人生観、この老人の「面倒くささ」をミゲル・アンへル・ソラがしている。

 

 

 家族を返して一人になった深夜、アブラムは家を出る。70年前に、新しく仕立てたスーツをもって、必ず戻ってくると約束した故郷ポーランドの友達に会いに行くためだ。

 

 しかしアブラムは、ポーランドもドイツも、その言葉を発音しようとしない。母語たる言語はもちろん国名さえ口にしたくないのだ。

 

 ここからがロードムービーの始まり。幾人もの人々に出会いながら。

 

 いかがわしい店の奥でヤミのチケットを扱う女性、飛行機の座席が隣り合うミュージシャン、スペイン・マドリッドの入国管理事務所の係官、ホテルの受付の女性、スペインに住む仲たがいをしている娘、列車の中で一緒になるドイツ人の文化人類学者の女性、ワルシャワの病院の看護師、まるで一つのリレーのように彼らはアブラムを支える。

 

 頑迷なアブラムに、はじめ人々は一様に困惑するが、アブラムの一念を知るにつれ軟化していく。それぞれのささやかなエピソード。


「ドイツには入らずにポーランドに行きたい」。

 

 駅員に失笑を買い憮然とするアブラムに手を差し伸べる女性。ドイツに着いてホームに降りるアブラムに彼女は、自分の衣類をスーツケースから出し、・・・これ以上書いてしまうと映画の興をそいでしまう。

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真ん中がアンヘラ・モリー

 

 アブラムのドイツやナチスへの憎しみも、支えてくれる人々の誠意によって、少しずつ溶け出していくのが、アブラムの表情の変化に現れる。

 

 こうした愛おしいほどのささやかで優しいエピソードの一つひとつが積みあがって、アブラムはポーランドに運ばれる。
 

 とは言え、これはことさら親切な人ばかりが集まってアブラムを助けた「美談」映画ではない。彼らに共通するのはアブラムへの共感から「自分ができることをしてあげる」ということ。ナチス被害者に対する欧州の贖罪意識が、民衆の記憶として今も確実にあることを思い知らされる。


 奇跡的にアブラムは友人のもとへとたどり着く。そのさまは、まるでアブラムがヨーロッパ各地に埋められている「躓きの石」を飛び石のようにしてわたっていくようにさえ見える。

 

 「会うのが怖い。彼がいてもいなくても」。

 

 ラストシーンは涙が我慢できなかった。

 なにゆえアブラムが70年以上を経て友達に会いに行ったのか、映画をみてほしい。

 映画の中に自分を置いてみると、民衆の記憶のようなものの違いが実感できる。

 どこが違っているのか、似ているところはないのか、70年以上経ったからこそ考えてみることが必要なのではないかと、思う。
 

 

 印象的なシーン、マドリッドの安ホテルの不親切極まりない受付の女性、どこか人生に投げやりな女性のようなのだが、アブラムがバス時刻に遅れたことから、いっしょにお酒を呑みに行くことになる。

 

バルのようなところでピアノ伴奏で彼女がうたうシーン。進行の意外さと、とっても下品だけれど気の利いた会話とお酒、彼女が人生の終わりを見つめながら歌う歌がいい。

どうでもいいことだが、ピアノ伴奏はほとんどメロディラインを追わない。リズムもずらしている。それなのに歌はしっかりピアノに乗っている。格好いいとしか言いようがない。歌い手もピアニストもすばらしい。

 

 この女優はマドリッド出身のアンヘラ・モリーナ。日本で公開されている映画が何本もあるがどれも見たことがない。1955年生まれ。

 

 アブラム役のミゲル・アンヘル・ソラは調べてみたが、それほど映画で活躍しているというわけではないらしい。しかし、演じている様子は『手紙は憶えている』のクリストファ・プラマー(1929年生まれ)と年齢的に遜色がない。こちらは1952年生まれ。アンヘラ・モリーナと二人、年齢を感じさせない?素晴らしい老け役を演じたことになる。

 

今年度の授業終了。卒業おめでとう。老教員のできることは、健闘を祈ることぐらい。人を大切にしない「働き方改革」に負けるな。

    今年度の授業が終わって一週間。節目のことだから少しだけ触れておきたい。

 

    最後の授業は、例年通り17人の受講生全員がスピーチをした。

 

    教職課程の「教職実践演習」という教科を受け持って3年目になる。週一コマ半期の授業。4限目14:40 ~16:10。ほぼ毎回、駅前の日高屋で野菜たっぷり湯麵を食べた。キャンパスまでは歩く。13:00着。野菜たっぷり湯麵は某生活習慣病にはもってこいの昼食である。必ず麺とスープは残すが。

   

 9学科17人で構成されるこの授業、座席は同じ学科の学生が固まらないように、毎回ランダムに指定した。それにともないグループ討議のメンバーが変転することになる。

    そうしても学科の垣根は高く、学生は簡単には打ち解けない。

 一人しかいない学科の学生など手持無沙汰感たっぷりだったが、2か月が過ぎたころから教室の空気がやわらかくなってきた。

 

    気がつけば北風が吹いて最終授業。ほとんどの学生はわずかな単位を残して4年生になっているから、この授業が大学最後の授業になるという。

 

    スピーチはテーマなし。3分間、教壇に立って好きなことをしゃべる。私が半年間好き勝手なことをしゃべってきたのだから、君たちも遠慮なくしゃべりないさい、と。

 

   バイトの苦労話に貧乏海外旅行、もう一度行きたい都市ランキング、遠距離恋愛の彼氏の話、ゲイバーにはまった話や酒を呑んでの失敗談、ぼったくりバーの話にパチンコ、仮想通貨に投資信託など財テクの話も。今時の学生、なかなか見くびれない。
レポートが、授業の批評も含めて生真面目に書かれているのとは対照的。

 

    私の残った仕事はレポートを読んで成績をだすだけ。出席率は93%超。ロールプレイングに模擬授業、模擬面談などけっこう気合が入ったから、欠席以外優劣はつかない。

 

 

    社会に出る直前の半年間、いろいろな問題について触れようと初めの30分ほどをウオーミングアップと称して「読んで書く」ことを課した。

 

    のど飴問題の熊本市議会緒方議員のこと、厚生労働省障害者雇用水増し問題、いじめ事件の第三者委員会の問題性(福井県池田中)、いじめ自殺問題、夫と妻の家事負担問題(水無田気流)、学校でのスマホの使用の是非、新文科大臣の教育勅語容認発言問題、学校の荒れをどうとらえるか、教員の変形労働時間制・・・。

 

    社会経験のない彼らが、自分のもっている知見だけで物事を捉える。大事なのは自分の意見以上に同じものを読んで書かれた友人の文章だ。同世代の意見であってもかなり違っていて、自分の意見が対象化される。

 

    言い続けたのは経験主義に陥るな、だ。経験主義が想像力をへこませ、広がりを奪ってしまう。教員と生徒はいつも相対的関係にあるものだし、内在化しない経験や教条が生徒を類型で見てしまう元だ。経験や教条を伝えている側が言っているのだからと念を押す。後悔だらけの教員人生のささやかな戒めだ。

 

 

    卒業後、教職に就く人、不動産屋に勤める人、大学院に行く人、公務員になる人、彼らの進路はいろいろだ。今の日本を見るにつけ、前途多難だろうなと思う。

 

   卒業おめでとう。

 

 老教員のできることは、健闘を祈ることぐらい。人を大切にしない「働き方改革」に負けるな、を付け加えておく。

 

 ロッカーにたまった本と資料をトートバッグに入れて持ち帰る。駅まで10分、これもつらいが、田園都市線急行の30分、バッグとともに下げたまま。重い。手がしびれる。本も読めない。追い打ちをかけるように田園都市線は遅れ気味。

 

 長津田で途中下車して和食居酒屋Sにて一人打ち上げ。

 

 カウンター。84歳、亥年の女性と隣り合わせ。刺身に寿司、茶わん蒸し、次々と注文。私が何か頼むと「わたしもそれ」。その健啖ぶりに仰天する。聞けば、ほぼ毎日椅子付きの買い物用のキャリアを引いて来店、1時間ほど過ごすという。

 一方の端には70代後半と思しきハンチングの男性。肌がつやつやしている。精力がみなぎっている感じだ。カワハギ釣りが趣味だという。こちらはイモ焼酎のボトル。

 ふたりともすごい。私はずっと年下なのになんだかしょぼくれている。

 

 二人に続いてお勘定。外は北風。

 うちではつれあいが待っている・・・たぶん。

 さあ、うちへ帰ろう。

 

 次回は映画『家へ帰ろう』(アルゼンチン・スペイン合作)について。

 

 

境川河畔を歩きながら、自然の事物のバランスを破ってに突然現れる軍用機を見るにつけ、この疑問は高校生の頃から変わっていないことに気がついて暗澹たる気持ちになる。

    2週間ほど前に紅梅が咲いているのを見つけた。

 

 近所を二人で散歩していて、あれ?何か目に触れたなと思って振り返ったら、小さな花びらが揺れていた。大寒に入る前のことだ。春近し?いやいやまだまだ。


 相変わらず雨が降らない。空気が乾いている。朝方には50%近い湿度が14時には24%に。

 

 境川の水流も一段と減っている。いつもは水中にある岩があちこちで顔を出している。水底もよく見える。カモの足ひれがよく見える。

f:id:keisuke42001:20190127160104j:plainダイサギ 

 

 今朝、気温2度。風がないせいで体感温度はそれほどでもない。小さなよどみに、この冬初めての結氷を見つけた。結氷といってもほんの薄氷だが。
 

 

 水鳥たちの賑わいが続いている。サギにアオサギオナガカモ、コガモマガモ、カワウ、カワセミハクセキレイキセキレイなどがまとまって餌を探していることがある。不思議な光景だ。カラスも近くに来る。鳥たちをもっと近くで見たくて、水面近くまで下りられる土手の階段を降りてみる。近づきすぎたのか、鳥たちはいっせいに飛び立つ。いつもは上から眺めるこの光景、水面近くで見るのは新鮮だ。

 

 まれに単体のカモメが群れに混じることも。相模湾から来るのだろうか。カモメは他の鳥と一緒にえさをついばんだりはしない。 
当地は、境川が東に向かって片瀬川となり、相模湾(江の島)に注ぐ河口から遡って15,6キロほどのところ。時々カモメが飛ぶ姿を見る。

f:id:keisuke42001:20190127160214j:plainカモメ

 

 飛んでいる姿といえば、西側の厚木基地のある大和市の上空に自衛隊や米軍の軍用飛行機をよく見る。以前はオスプレイを数度見かけたが、最近は見ない。バスで10分ほどの小田急鶴間駅大和市)まで行くと、離着陸する軍用機の腹部がよく見えるのに驚く。爆音がすごい。この低空飛行は基地がすぐそばにあることを否が応でも意識させられる。


 厚木基地って厚木にあるんでしょう?そこからけっこう離れているよね、というのは認識違い。厚木基地大和市綾瀬市にある。基地の8割近くが綾瀬市にある。厚木市にはない。

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厚木基地の全容

 大和市厚木市の間には海老名市がある。海老名市と厚木市の間には相模川が流れている。どこまでいっても厚木市厚木基地とは無関係。それなのにどうして厚木基地なのか。綾瀬基地、大和基地ではないのか。チコちゃんじゃないけどこれには諸説あるようだ。
 

 私が納得している説は、基地が昭和13年に開設された当時、綾瀬市はかなりの田舎、綾瀬村であったし、大和市大和町という小さな自治体。それに比べ厚木市はその頃から交易の中心として栄えていたというから、最も通りやすい名称として厚木が選ばれたのではないかというもの。新東京国際空港(旧)や東京ディズニーランドの例と似ているのではないか。

 

 いずれにしても、厚木基地に関わる爆音被害等の問題は、沖縄同様大きな問題としてある。どれほどのものかは近隣を歩いてみるとすぐにわかる。基地問題は遠い沖縄だけの問題ではない。

 

 その沖縄、県民投票を拒否していた5自治体が選択肢に「どちらでもない」を入れれば「実施」するという意向を示しているとか。
今朝、NHKで記者が辺野古に4か月住んで取材したドキュメンタリーが放映された。辺野古現地の住民の人たちがどんなふうに考えているかがよく伝わってきた。誰もが静かな生活を守りたいし、新基地建設には反対だ。なのにさまざまな事情が入り乱れて、人々の気持ちに埋められないほどの溝を生み出してきた。今ではおもてだっては誰も基地問題に触れたくない状況がある。

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 古くは水力発電所の建設や原発の新規立地などと同じ問題である。結局、もっとも不便で中心から遠く人口の少ないところが条件闘争の場とされ、安全安心な生活を奪われ、犠牲になる。

 

 厚木基地にしても沖縄にしてもまた各地の米軍基地にしても、なにゆえ他国の基地のために政権党は自国の人々を抑圧するために奔走するのか。なにゆえ自国民同士が争わなければならないのか。この国の対米従属という桎梏、100年経っても日本はアメリカに守ってもらう代わりに、まともにものを言えない状況を引き受けざるを得ないのか。

 

 

 境川河畔を歩きながら、自然の事物のバランスを破ってに突然現れる軍用機を見るにつけ、この疑問は高校生の頃から変わっていないことに気がついて暗澹たる気持ちになる。

 

f:id:keisuke42001:20190127155948j:plainオナガカモ

全豪オープン、大坂直美選手優勝。3つの国がつながって、そこに大坂なおみがいるということが素敵なことのように思えるのだが。大坂には狭隘な「日本すごいですね」に組み込まれてほしくないなと思う。

  全豪オープン2019は大阪なおみ選手の優勝で幕を閉じた。


  クビトバ選手との決勝はタフなものだったが、安定感という点では大坂が一歩先んじていたという印象。

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 手前勝手な想像に過ぎないが、大坂が一番きつかったのは3回戦、シエシュエイ(台湾)とのゲームだったのではないだろうか。

 

 4回戦はテレビ観戦できなかったが、どちらも先に相手選手にセットを取られた。

 4回戦のセバストワとのゲームでは、2セット目を有利に展開、3セットも危なげなく終えた。

 シエシュエイとのゲームでは2セットも先にブレイクされ、5ゲームまでで4-1。万事休すと思われたが、シエシュエイのスタミナ切れ(にともなう集中力の低下と思われた)と大坂の捨て鉢にならない気持ちの強さでその後4ゲーム続けてK・B・K・B・Kと5ゲームを連取、3セット目と合わせて7ゲーム連取で試合を決めた。

 山り谷ありの見応えのあるゲームだった。シエシュエイは世界ランク28位だが、素人目には大坂をもっとも苦しめた選手だったように思えた。

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 またまた大坂ブームである。相変わらず街角では旧知の友だちのようになおみ、なおみと呼ぶ人が増えている。

 オリンピックを見据え、アメリカではなぜ米国登録ができなかったのかという議論があるらしい。ネットでは15歳の原石だった大坂を見つけた?コーチがいて練習場所を提供してきたといったことが日本登録のばねになったとのこと。日本のおじいさんは紹介されるが、ハイチの祖父母は紹介されない。

 

 3つの国がつながって、そこに大坂なおみがいるということが素敵なことのように思えるのだが。大坂には狭隘な「日本すごいですね」に組み込まれてほしくないなと思う。

 

 繰り返しになるが、日本勢初のグランドスラム獲得、とか日本人初の世界ランク1位とか、やっぱり鬱陶しく感じられてならない。

 昨日の閉会式では、各選手の出身国の国旗が並んでいたが、国旗掲揚はなかったし、国歌斉唱もなかった。いちばん大切にされているのは最後まで戦い抜いた二人の選手への称賛と、彼らのスピーチだった。  

 セレモニーの最後に試合を支えたボールボーイ、ガールとの記念写真。

 国と国との闘いという構図を抑制し、勝者が謙虚に敗者や運営を称えるという風習は素晴らしいと思う。インタビュアーが「日本語でどうぞ」的な「いじり」がなかったのもよかった(準決勝ではあったが)。

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 特に重々しくもなく、ほど良い長さ。笑顔の多いセレモニー。東京オリンピックに興味はないが、こういうさらっとした国家色を出さないやり方を真似るべきだ。

 政治の代理戦争のようなスポーツイベントはいらない。日本オリンピックではなく東京オリンピックなのだから。

 

 そう書きながら、所詮、大枚のお金と「放射能はアンダーコントロールできている」という虚言で引っ張ってきた政治そのもののオリンピックだからなぁと思ってしまうのだが。

2019豪オープン女子準決勝大坂なおみ選手勝利、日本や日本のテニス界をあげて大坂選手を育ててきたような言い方

 午後、大坂なおみ選手が出場する全豪オープン準決勝を見ていた。
 

   昼間からテレビでテニス観戦ができるのは、昼酒同様、退職者、それも仕事をしていないおっさんの特権だ。2時間近く楽しんだ。

 

 

 対戦相手はチェコのカロリナ・プリスコバ。昨年世界ランク1位だった人。接戦だったが、大坂選手が6-2、4-6、6-4で勝利した。

 

 サーブ一本、レシーブ一本間違えばどっちにもころぶ、面白いゲームだった。堪能。テニスは40代に10年ほど熱中した。もちろんへぼだったが。

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 メルボルンは今日気温40度だとか。会場となったナショナルテニスセンターのセンターコートロッドレーバーアリーナ。屋根は開閉式。15000人収容の施設。今日は暑さのため屋根は閉められていた。

 


 その観客席に「必勝」と毛筆体で染め抜いた日の丸の鉢巻をしている人、頬に日の丸を貼り付けた人、大きな日の丸を振っている人が時々映し出される。いつものことだが、ああいうことだけは一生したくないなと思う。

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 テレビでは「グランドスラムで日本人初の決勝進出」「世界ランク3位は日本人で初めて」。アナウンサーは何度も絶叫する。解説の女性は感極まって涙ですぐに言葉が出ず、絞り出すように「日本のテニスがこんなところまで来るなんて」話した。

 

 なんだか日本のテニス界をあげて大坂選手を育ててきたような言い方だ。

 

 

 Wikipedeiaによると、大坂選手はテニス経験のない父親がウイリアムズ姉妹を観て一念発起、姉とともになおみさんが3歳の時に練習を開始、4歳の時に一家でアメリカに移住。親子でテニスのキャリアを積んできたということだ。

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 大坂選手は二重国籍だ。日本国籍とともにアメリカ国籍ももっている。父親はハイチ系アメリカ人で母親が根室出身の日本人。姉妹にテニスを続けさせるために苦労されたようだ。

 

 今では熱狂的なファンが大勢いるようだが、2年前まで私は大坂選手のことを知らなかった。誰か知ってた?昔からの仲間のように言わない方がいい。彼らは家族で信じられないような努力を積み重ねてここまで来たのだと思う。

 

 日本テニス界が彼女を育てたなんて事実はない。

 

 

 彼女のインタビューはどこか力が抜けていて、かわいらしい。日本語はへたくそだけれど、不思議なユーモアがある。

 

 今日のゲームを決めた第3セット10ゲームの最後のポイント、ラインズマンのおじさんはセンターラインのサーブをアウトと宣告。これがアウトだとプリスコバがブレイクして試合の行方は分からなくなる。大坂選手はここでチャレンジを選択。大画面に映し出されるのをラケットを両手で挟んで仏教式に拝んでいた。子どもっぽさが出ていてかわらしかった。

 

 

 話を戻そう。

 

 すごいことを成し遂げたからと言って、「日本」という枠組みに囲いたがるのは感じが悪い。まるで旧知の知り合いのように無理やり仲間内に入れたがっているようだ。

 すごい選手が出てきた、ユーモアがあって可愛いぞ、でいいし、二重国籍なんだって。何?二重国籍って?そういうの、ありなんだ。私たちと同じじゃあないんだね。

 そう、そういう人って世界にはたくさんいるよね・・・・。

 


 だいたい「純粋に日本人」なんていない。みな○○系日本人のはず。島国って言ったって、大昔は国境もなく自由に行き来していたわけで、「純粋」はありない。天皇家の人たちだってそうだ。現天皇だって自ら朝鮮系であると述べている。

 


 えー、そんなこと言ったって日本人の顔はやっぱり日本的でしょという人がいる。そんなことはない。髪型の特徴や独特の挙措で区別されることはあるけれど、写真だけ見たらモンゴロイドはみなよく似ている。

 


 四半世紀も前になるけれど、夜間中学を担当していたころ、アジア系の生徒たちが夕食を一緒に食べながらよく「あの先生はなに人に似ている」と話をしていたことがあった。彼らによれば、日本の人たちもみな「アジアの○○系」と顔で区別できるというのだ。

 

 「じゃあ、おれは?」と私が訊いてみた。ベトナム人のグエン何とか君という生徒が
「先生はラオス系ですね」と云うではないか。

ラオス人の知り合いは、隣に坐っているアヌシット君だけ。彼も私を見ながら「そういえば」といった表情。各教科の先生、それぞれアジア各地に出自をもっていた。

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 1985年、在日の人たちの指紋押捺拒否運動に関わった。

 

 3世4世の人たちが「犬の鑑札」外国人登録証への指紋押捺を拒否した運動だ。彼らの多くは日本で生まれ、日本語を母語として育ってきた人たちだった。その意味で朝鮮系日本人なのだが、そのころそういう言い方はかなり珍しかったし、日本国籍を取得する条件もかなり厳しかった。差別のために本名を名のることすらできず、外国人登録証の常時携帯義務を負わされる存在、自分はいったい何者なのかを問い直す大きなきっかけとなったのが、彼らの指紋押捺拒否だった。

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 優れた人をみな日本人にしたがるわけではない。朝鮮系の、たとえば優れた歌手などの芸能人に対しては隠然とした「区別」や「差別」がある。その根拠が近代日本のアジアの植民地政策、アジア蔑視の歴史的な経緯から来ているにも拘らず、いまだに根拠もなく「日本人でないこと」が大変なマイナスであるかのような言説がまかり通っている。

一方で大坂選手の騒ぎである。

 

東京オリンピックがまた一日近づく。気が重い話ではある。

 

町田総合高校の先生に:「生徒は明らかにあなたの人間性、教員として積み重ねてきたキャリア、まっとうな市民としての立場を平気で踏みにじるような発言をした。あなたの反撃に理由はたしかにある。多くの批判を甘んじて受けながら後悔と罪悪感に苛まれても、侮辱に対して抗った自分だけは保っておいていほしい」。

 都立町田総合高校での教員による生徒への暴力の報道が波紋を呼んでいる。

 

 当初、生徒への殴打と「ふざけんじゃねえよ、誰に言ってるんだ」という教員の言葉がフレームアップされて報道されたが、その後、被害生徒のグループのひとりが「ツイッターで炎上させよう」という目的で隠れて撮影、当該生徒がそのことを知っていて教員を激しく挑発していたことが判明、マスコミの受け止め方に変化が出てきた。

 

 SNSでは当該生徒による「何様のつもりだ?」「病気じゃねえか」「小さい脳みそでよく考えろよ」といった教員に対する発言がカットされていたことが判明。

 

 タレントや識者の反応は「何があっても暴力はいけない。しかし、生徒の態度にも問題があった。処罰するなら両方ともすべき」といったものが主流になりつつある。
 私は、事件そのものよりこうした反応に違和感を覚える。

 

 

 傍からなら何とでも言える、と思う。

 

 

 私が現場にいたころ、こうした暴力のトラブルは、荒れていると言われている中学校であれば、むしろ日常茶飯事であった。つい最近でも同様の話を聞くことがある。

 

 SNSがなかったころ、生徒は録画などしなかった。だから生徒側の暴言がどれだけひどいものでもいつしか「言った言わない」に終始し、焦点は手を出したかどうかに集まり、ちょっと教員の手が当たっただけでも鬼の首を取ったように「教員が手を出した」として親も子も学校側を批判した。

 

 

 70年代までは、教員は平気で生徒を殴っていたし、親も子どもを殴っていた。いや殴らずとも「言うことをきかないときはガツンとやってください」などと言っていた。教員は処分されることもなかったから、生徒を叩くことにそれほど罪悪感を感じていなかった。私は、むやみに生徒を叩く教員には強く反発したが、では私が生徒を叩かなかったかといえば、そんなことはなかった。

 

 

 80年代初めの<荒れる中学校>を経て、教員は生徒を叩かなくなっていく。いや叩けなくなっていくと言った方が正確かもしれない。

 学校は特別な場所ではなくなり、教員の権威は堕ちていく。教員はただの時代遅れのおっさんおばさんになっていった。

 世の中はバブル以前の高度消費社会の入り口に立ったころだ。地道な努力がいつか実を結ぶといった学校の「物語」がリアリティーを失っていく時期だ。
 

 それでも学校は閉店休業するわけにはいかない。
 

 そのころの学校では「暴力はいけない」というテーゼは、近代的な人権意識に基づいた人道主義的なものではく、一つのノウハウとしてあった。

 「興奮状態の生徒に教員が手を出せば、問題をこじらせるばかりだ。あとあと親も含めてきちんと指導するためにはこちらからは決して手を出さないことだ」という暗黙の了解が先んじていた。
 

 罵詈雑言という言葉があるが、生徒の「暴言」をそんなふうにまとめられては立つ瀬がない、というのが教員の側の実感だった。体力的に勝っている教員や生徒にうまくとりいる教員ならいざ知らず、ごく普通の非力な教員、女性教員に対するヘイト発言には、それほどすさまじいものがあった。


 暴言嫌暴力にどれほど傷ついたとしても、こちらから手を出せば先が見えなくなる。手を出さないどころか殴られても反撃をせず、言葉で生徒に対峙しようとする教員が多かった。

 長い間、私は学年職員のリーダーを務めたが、最も意を砕いたのは、学年チームが互いに支え合う気持ちのつながりが切れてしまわないようにすることだった。

 その一つの手立てのとして、暴力に対しては原則警察対応、暴言に対してはその内容を細大漏らさず記録してもらい、それを親に正確に伝える役割を担った。
 

 それは防御ではなく「攻め」であると、当時私は考えていた。

 

 90年代に入ると、「荒れ」は徐々に沈静化し、それと同時に処分行政が徹底し始め、校長は官僚化し、身内の教員をかばうことをしなくなっていく。

 

 管理職の関心は常に保護者の動向に向けられ、保護者のクレームに対して恐々として、事情を省みず坊主懺悔の謝罪をするようになる。

 

 訴訟保険が管理職だけでなく、一般教員にも加入が勧められていく00年代には、事案の前後の脈絡が忖度されることはなくなり、体罰はどの程度であれ処分の対象であり、「あってはならないもの」になっていく。
 

 10年代前後から、生徒に対し「怒鳴らない」「大声を上げない」ことが推奨されるようになっている。教員が威圧的に生徒に対するのは指導力がないからだといわれるようになった。
 

 変われば変わるものである。坊主の説教ではあるまいに、成長過程の子ども集団を静かに教えさとすことでいうことをきかせられる教員がどれだけいるだろうか。長年教員をやってきたが、私にそんな力はない。


 管理職は言う。だから口だけ動かしていてはだめ、からだをうごかせ、と。

 

 つまりは手厚いサービスである。

 痒いところに手が届くサービスを学校は手掛け始める。

 

 学校のコンビニ化と言ったことがあるが、それは多岐にわたるサービスを24時間提供するという意味でもある。常に強盗やクレームに対処するノウハウ準備しているという点で、敬意をこめて言っている。


 生徒が登校して来なければ電話を掛けるのは当たり前。時には寝ているのを起こしに生徒の家まで行く。忘れ物があれば届け、欠席生徒には事細かく次の日の連絡を入れる。何か困っていることはないかとアンテナを常に高く掲げ、受容と共感のカウンセリングマインドが最上のものとして崇められる。

 

 通信簿に欠点や問題点を記すことは指導の不十分さを露呈することであり、何より生徒の心を傷つけること。いいところを見つけてほめてあげる事が人を育てる要諦と教えられる。

 「学校は何もしてくれない」が保護者のクレームの最後の切り札。何を云ってもこれが出れば、ゲームセット。ひたすらに報われないサービスにサービスを重ねることがトラブルを防ぐ最大の方策、究極の事なかれ主義と友達親子ならぬ友達子弟が学校の中を闊歩するようになった。
 

 こうした空気が流れる日常に、わずかに亀裂が走ったのが今回の事件である。今回もこの教員には処分が出されるはずだ。「減刑」嘆願はあるだろうが、行政の一罰百戒の姿勢は動かないだろう。

 

 問題は、当該生徒に対する対応だ。もちろん「ツイッターで炎上させよう」と発言した生徒、録画した生徒、同調して拡散に励んだ生徒、これらに対してどのような指導が可能か、さらに高校生であるのだからどのような処分が可能か。

 またまた第三者委員会の設置だろうか。毎日顔を合わせる教員、生徒たち。どのような解決策が出されるのだろうか。

 

 呑み屋の教育談義やワイドショーでのおしゃべりならば、始めは「教員は何をやっているんだ!」という論調から、前後の脈絡が明らかになってくると、

「だいたいが生徒が図に乗っているんだよ。うちの息子もそうだけど、大人を大人と  思っていないんだ」

「高い金払ってもたせているスマホをどんだけ悪用しているのか」

「あの言い方は何だ?教員に対する最低限の礼儀というものがなっていない」

「でも先生もあそこでキレちゃだめだな」

「50代だろう?もう少し分別もたなきゃ」。

そして

「どっちもどっちじゃないの?とにかく今の夜中、暴力はダメ!手を出しちゃいけないの!すみません!お銚子二本ください!」

 「暴力は絶対にいけない」。間違ってはいないのだろう。

 しかし生々しい暴力の近くにいる駅員やコンビニのスタッフや教員にとっては、「暴力は絶対にいけない」という言葉は神社のお札ほどにも役に立たない。「ほんとうにそう思っているのなら身をもって止めに入ってくれ。そうしないのであれば、せめて当事者への謙虚な想像力をもってほしい。


 暴言にしろ暴力にしろそのすさまじいエネルギーに対抗するには、それなりのノウハウと思考が必要なのだ。そういうことに思いの至らない急ごしらえの人権主義者の言葉など現場では何の役にも立たないということだ。
 

 あなたは、この暴力をふるってしまった教員にどのような言葉をかけるだろうか。

「生徒は明らかにあなたの人間性、教員として積み重ねてきたキャリア、まっとうな市民としての立場を平気で踏みにじるような発言をした。あなたの反撃に理由はたしかにある。多くの批判を甘んじて受けながら後悔と罪悪感に苛まれても、侮辱に対して抗った自分だけは保っておいていほしい」。

 

「生きてるだけで、愛」やっぱりこれって立派な恋愛映画。面倒くさくて嫌な女と、それに向き合わないずるい男の話ではない。

    通院日。大和市の巨大図書館シリウスに寄る。珍しくやや空き気味。

 目的は文学界12月号の砂川文次『戦場のレビヤタン』。バックナンバーの格納庫?にはなく諦める。先月もなかった。今月末には単行本化されるとのことだが。

 当月号があったので、村田紗耶香『信仰』を読む。読み切り100枚ほど。さすがに手慣れていておもしろいが、インパクトは今一つ。ついでに森元斎のエッセイ『革命に至る極貧生活』。連載第4回ということだが、12月号がないと第2回が読めないので、とりあえず4回目を読む。1回分80枚ぐらい。


 1983年生まれの研究者、36歳。哲学・思想史。文章、とってもおもしろい。貧乏話もくせがあっていいし、猟官運動のすったもんだのディテール。正規教員を目指しながら、アカデミズムに幻想はなく、さほどの価値を置いていないスタンスもいい。書きぶりが軽いのと生き方の軽さは直結しない。ゼミや授業など、教育に関わる話も力が抜けている。本質を突いている指摘が多い。

 優れた人は次々に出てくるもの。知らなかったのは私だけ。来月からまず「文学界」の森元斎を読もう。この名前「もり・げんさい」と読む。
 
 

 受診では数値がよくなっており、医師がピンクのサインペンで数字の上にはなまるをつけてくれた。こういう医者はなかなかいない。

 

 お祝い?にいつもの焼鳥Tに寄ると、冷酒の注ぎかたの「ルールが変わりました」とバイトの高校生店員。一升瓶から注ぐのは一緒だが、3点セットのコップ、桝(ます)ときて、最後に桝からあふれさせ大きめの皿ぎりぎりまで注ぐのが現行方式、ルール変更の新方式では、ますからほとんどこぼれない。

 

 訊いても変わらないだろうけれど「どうして?」と。「いやあ、店長がそう決めちゃってえ。うちらは思いっきりいきたいんすけどお」とかなり派手で長いつけ爪をしたバイトの高校生。その気持ちがうれしい。

 我慢する・・・つもりだったが、なんだか物足りない。つい3杯目。これでは店長の思うつぼだなと思ってもあとの祭り。
 

 次の日、ポケットの中のレシートを捨てようと何気なくみたら、冷酒2杯となっている。高校生バイトの意気な計らいか、単なる付け忘れか。敬老精神、酒に意地汚い老人への憐憫の情・・・。

 

 

 ジャック&ベティで『生きてるだけで、愛』(2018年・日本・109分・監督関根光才菅田将暉趣里)を見た。
 生きづらいといわれる人を描いた映画。恋愛映画ではないとどこかに書いてあったが、はたして?

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 面白くなかったわけではないが、主人公の寧子=趣里について言えば、こんな可愛いらしさとやさしさをもった人ならば、いろいろあっても何とかなるでしょと思ってしまった。もっと面倒な人はいくらでもいる。もっと面倒で、自分も周りも面倒くささに押しつぶされてしまっている、そんな人はたくさんいる。そういう人の映画をみてみたいのだけれど、見たことがない。

 

 『彼女がその名を知らない鳥たち』(沼田まほかる原作・2017年)の十和子=蒼井優も、働かないで男に依存しながら、当の男に根拠のない怒りをぶつけるという点で、寧子に似ていて、思い切り嫌な女だが、スクリーンを見ている方からすると嫌さはそれほどでもない。時間が経てばかわいいところも見えてくる。趣里演じる寧子も同じ。心底嫌な女を描いた映画にはなっていない。原作は本谷有希子の同名小説。

 

 同棲している津奈木(菅田将暉)との関係では、寧子は我がままし放題であっても、どこか津奈木に包まれていたり、ときに放置もされている。津奈木は寧子を放り出してはいない。ぶつかり方も、いらっとする津奈木が冷たい視線を送るのは一瞬のこと、寧子の意味不明の不満はいつも津奈木に吸収されてしまって、ふたりは本気でぶつかり合わない。幼な子の「わたしを見て、見て」のレベル。津奈木がいちいちぶつかればもっと嫌なところが出てくるのだろうけれど。

 「かつ丼と焼きそば買ってきたけどどっち食べる?」「どっちでもいい」「じゃあ、おれかつ丼」と津奈木がかつ丼を食べ始めると寧子は「かつ丼がいい」。津奈木は柳に風と受け流す。自分は働いていても寧子に働けとは言わない。転がり込んだ寧子は家賃すら払っていない。

 

 

 津奈木はゴシップ週刊誌に勤めているライター。不本意な原稿をいつも書かされている。ある時、編集長の松重豊に我慢が出来ず、キレてしまう。パソコンを窓の外にほおりだす。派手に割れて散らかるガラスの破片、スローカットで地面にたたきつけられるパソコン。ありきたりで現実感も脈絡も感じない。こういうシーンって予告編のため?

 

  こうした津奈木の葛藤と寧子との関係はつながっていかない。かつらっぽい菅田将暉の髪型同様、大いに違和感。

 

 おもしろいのは、津奈木の元彼女という安堂=仲里依紗とのからみ。

 寧子の行動を監視し、津奈木と復縁したいがために寧子に出て行けとカフェで迫る。

 かなり理不尽で、こっちのほうがかなり面倒くさい嫌な女。この安堂に対して恐縮しきりの寧子が「わたしより、症状重くないっすか?」とびくびくしながら応える。寧子はとてもふつうでかわいい。


 安堂は、「お金がなくて出ていけない」という寧子に「ここで働け」とカフェのスタッフの仕事を紹介する。
 

 そのカフェの人々、これもよくわからない。引きこもりの店員は寧子と上手に距離をとりながら、とっても親切。経営者夫婦は「一緒にご飯食べていればそんなの治っちゃうよ」と賄いを食べながらカンラカンラだし、夫の方はまるで公的機関の相談員のように我慢強くふところが広い。

 

 これでは寧子は嫌な女であり続けられない。あんのじょう、寧子はトイレに閉じこもり、トイレを破壊する。そして津奈木に電話をして、カフェを飛び出す。一枚一枚服を脱ぎ捨てて全裸になって街を駆け抜け、マンションの屋上へ。趣里の父親の水谷豊が激怒したというシーン。

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 ここでのふたりの会話はまさに映画ならではの盛り上がりなのだが、ここでも寧子はかわいい。身勝手な行動に出るのはあなたに語りかけているからだ。でもあなたは応えてくれない。私と正面から向かわず逃げてばかりいる。「私だって私が嫌だ。津奈木は私と別れられるけど、私は私と別れられない」だったかな。そっと寧子を抱きしめる津奈木。

「私たちがわかりあえたのなんて、ほんの一瞬。でもその一瞬だけで生きていける」。

そうだけど、いや、そうじゃないんだけどなあ。
 
 町の中を駆け抜けるシーンって、「彼女がその名を知らない鳥たち」でもなかったっけ?
 
 二人はさえない男女だけれど、やっぱりこれって立派な恋愛映画。面倒くさくて嫌な女と、それに向き合わないずるい男の話ではない。
 
 映画だからこうなってしまうのだろう。映画に足を引っ張られた映画かな。