通院日。大和市の巨大図書館シリウスに寄る。珍しくやや空き気味。
目的は文学界12月号の砂川文次『戦場のレビヤタン』。バックナンバーの格納庫?にはなく諦める。先月もなかった。今月末には単行本化されるとのことだが。
当月号があったので、村田紗耶香『信仰』を読む。読み切り100枚ほど。さすがに手慣れていておもしろいが、インパクトは今一つ。ついでに森元斎のエッセイ『革命に至る極貧生活』。連載第4回ということだが、12月号がないと第2回が読めないので、とりあえず4回目を読む。1回分80枚ぐらい。
1983年生まれの研究者、36歳。哲学・思想史。文章、とってもおもしろい。貧乏話もくせがあっていいし、猟官運動のすったもんだのディテール。正規教員を目指しながら、アカデミズムに幻想はなく、さほどの価値を置いていないスタンスもいい。書きぶりが軽いのと生き方の軽さは直結しない。ゼミや授業など、教育に関わる話も力が抜けている。本質を突いている指摘が多い。
優れた人は次々に出てくるもの。知らなかったのは私だけ。来月からまず「文学界」の森元斎を読もう。この名前「もり・げんさい」と読む。
受診では数値がよくなっており、医師がピンクのサインペンで数字の上にはなまるをつけてくれた。こういう医者はなかなかいない。
お祝い?にいつもの焼鳥Tに寄ると、冷酒の注ぎかたの「ルールが変わりました」とバイトの高校生店員。一升瓶から注ぐのは一緒だが、3点セットのコップ、桝(ます)ときて、最後に桝からあふれさせ大きめの皿ぎりぎりまで注ぐのが現行方式、ルール変更の新方式では、ますからほとんどこぼれない。
訊いても変わらないだろうけれど「どうして?」と。「いやあ、店長がそう決めちゃってえ。うちらは思いっきりいきたいんすけどお」とかなり派手で長いつけ爪をしたバイトの高校生。その気持ちがうれしい。
我慢する・・・つもりだったが、なんだか物足りない。つい3杯目。これでは店長の思うつぼだなと思ってもあとの祭り。
次の日、ポケットの中のレシートを捨てようと何気なくみたら、冷酒2杯となっている。高校生バイトの意気な計らいか、単なる付け忘れか。敬老精神、酒に意地汚い老人への憐憫の情・・・。
ジャック&ベティで『生きてるだけで、愛』(2018年・日本・109分・監督関根光才・菅田将暉・趣里)を見た。
生きづらいといわれる人を描いた映画。恋愛映画ではないとどこかに書いてあったが、はたして?
面白くなかったわけではないが、主人公の寧子=趣里について言えば、こんな可愛いらしさとやさしさをもった人ならば、いろいろあっても何とかなるでしょと思ってしまった。もっと面倒な人はいくらでもいる。もっと面倒で、自分も周りも面倒くささに押しつぶされてしまっている、そんな人はたくさんいる。そういう人の映画をみてみたいのだけれど、見たことがない。
『彼女がその名を知らない鳥たち』(沼田まほかる原作・2017年)の十和子=蒼井優も、働かないで男に依存しながら、当の男に根拠のない怒りをぶつけるという点で、寧子に似ていて、思い切り嫌な女だが、スクリーンを見ている方からすると嫌さはそれほどでもない。時間が経てばかわいいところも見えてくる。趣里演じる寧子も同じ。心底嫌な女を描いた映画にはなっていない。原作は本谷有希子の同名小説。
同棲している津奈木(菅田将暉)との関係では、寧子は我がままし放題であっても、どこか津奈木に包まれていたり、ときに放置もされている。津奈木は寧子を放り出してはいない。ぶつかり方も、いらっとする津奈木が冷たい視線を送るのは一瞬のこと、寧子の意味不明の不満はいつも津奈木に吸収されてしまって、ふたりは本気でぶつかり合わない。幼な子の「わたしを見て、見て」のレベル。津奈木がいちいちぶつかればもっと嫌なところが出てくるのだろうけれど。
「かつ丼と焼きそば買ってきたけどどっち食べる?」「どっちでもいい」「じゃあ、おれかつ丼」と津奈木がかつ丼を食べ始めると寧子は「かつ丼がいい」。津奈木は柳に風と受け流す。自分は働いていても寧子に働けとは言わない。転がり込んだ寧子は家賃すら払っていない。
津奈木はゴシップ週刊誌に勤めているライター。不本意な原稿をいつも書かされている。ある時、編集長の松重豊に我慢が出来ず、キレてしまう。パソコンを窓の外にほおりだす。派手に割れて散らかるガラスの破片、スローカットで地面にたたきつけられるパソコン。ありきたりで現実感も脈絡も感じない。こういうシーンって予告編のため?
こうした津奈木の葛藤と寧子との関係はつながっていかない。かつらっぽい菅田将暉の髪型同様、大いに違和感。
おもしろいのは、津奈木の元彼女という安堂=仲里依紗とのからみ。
寧子の行動を監視し、津奈木と復縁したいがために寧子に出て行けとカフェで迫る。
かなり理不尽で、こっちのほうがかなり面倒くさい嫌な女。この安堂に対して恐縮しきりの寧子が「わたしより、症状重くないっすか?」とびくびくしながら応える。寧子はとてもふつうでかわいい。
安堂は、「お金がなくて出ていけない」という寧子に「ここで働け」とカフェのスタッフの仕事を紹介する。
そのカフェの人々、これもよくわからない。引きこもりの店員は寧子と上手に距離をとりながら、とっても親切。経営者夫婦は「一緒にご飯食べていればそんなの治っちゃうよ」と賄いを食べながらカンラカンラだし、夫の方はまるで公的機関の相談員のように我慢強くふところが広い。
これでは寧子は嫌な女であり続けられない。あんのじょう、寧子はトイレに閉じこもり、トイレを破壊する。そして津奈木に電話をして、カフェを飛び出す。一枚一枚服を脱ぎ捨てて全裸になって街を駆け抜け、マンションの屋上へ。趣里の父親の水谷豊が激怒したというシーン。
ここでのふたりの会話はまさに映画ならではの盛り上がりなのだが、ここでも寧子はかわいい。身勝手な行動に出るのはあなたに語りかけているからだ。でもあなたは応えてくれない。私と正面から向かわず逃げてばかりいる。「私だって私が嫌だ。津奈木は私と別れられるけど、私は私と別れられない」だったかな。そっと寧子を抱きしめる津奈木。
「私たちがわかりあえたのなんて、ほんの一瞬。でもその一瞬だけで生きていける」。
そうだけど、いや、そうじゃないんだけどなあ。
町の中を駆け抜けるシーンって、「彼女がその名を知らない鳥たち」でもなかったっけ?
二人はさえない男女だけれど、やっぱりこれって立派な恋愛映画。面倒くさくて嫌な女と、それに向き合わないずるい男の話ではない。
映画だからこうなってしまうのだろう。映画に足を引っ張られた映画かな。