「それさぁ、早く言ってよー」。メガネと本の話。

    久しぶりにメガネ屋に行った。長年かけているメガネのレンズの片方に傷がついてずいぶん経つ。そろそろ替え時かな、と考え始めて2か月ほど。

 大型スーパーに隣接したチェーン店。
 きれいに磨かれた自動ドアの前に立つ。開かない。

 「あれ?」つれあいと顔を見合わせる。

 次の瞬間、中から若い男性の店員が、満面の笑みに3%ぐらいの戸惑いの表情を込めてドアを開けてくれる。

「まだ、開店時間じゃなかったの?」
「いえいえ、大丈夫でございます」
 

 すぐに店内に招き入れてくれる。現在時刻10時15分。開店時間は10時30分だったようだ。無理に入ってしまったような居心地の悪さを感じさせないような接客。ほかの店員もニコニコしている。
 

 ドアを開けてくれた店員が、「今日のご用命はどのような…」。
 「遠近両用を新調して、今までのフレームに新しい老眼用のレンズをつけてください」。
 名前を言うとすぐに私の記録というか情報が出てくる。

「そちらのメガネは2011年につくられていますね。それから昨年も、来られています。手元用のメガネをつくられていますね」。


 そう言えば、夏の暑い時期に老眼鏡をつくった。私は寝床で本を読む癖があって、寝返りを打ちながら読むため、遠近両用は使い勝手が悪いのだ。それに照度が高くないと遠近両用は機能を発揮しない。寝床のスタンドぐらいでは、文字がぼやけてしまう。メガネをはずして読んだ方がまだいいのだが、ここはやはり専用のものがあった方がということで新調したのだった。あんのじょう、老眼鏡にしたら、照明まで明るくなったように思えた。

「そういえば老眼鏡、つくったね」

 そう言うと若い男の店員は

「手元用のメガネは・・・」。

 こちらが老眼用とか老眼鏡と言っても、店員は「手元用」で返してくる。この店の中に老眼用や老眼鏡と呼ばれるものはないのだ。


 老眼鏡など一つあればいいようなものだが、家の中を持ち歩くのが面倒だ。すぐに置き忘れる。首にぶら下げるのは鬱陶しい。百均で買ったメガネストラップでは、メガネがすぐに落ちてしまう。そこで、自分の部屋用にもうひとつあると便利かなといつからか考え始めた。


 それにもうひとつ、前回買った老眼鏡は、一式まとめて5000円ほどだった。今回新調する遠近両用はレンズとフレーム併せてそれなりの値段になるのだろうけれど、もうひとつ5000円ぐらいの老眼鏡を買っても、年金生活者であっても罰は当たらないだろうという胸算用があった。


 メガネ屋の検査は時間がかかる。「このあとけっこう込み合いますので、先に検査の方だけでもされたほうが」。

 どこまでもていねいな言い方。フレーム選びを中断して検査機械の前に。

 

 あとでこのタイミングの妙に気づくことになる。

 

 遠近両用だし乱視もあるし、遠近両用の方の度数と専用の「手元用」の度数の違いもある。なかなかに厄介な検査。

 小一時間かかって終了。フレーム選びも、今までと違う視界が開けてみえるノンフレームを選ぶ。あとは値段だけ。

 両用のほうは、フレームと値段を合わせて価格表示がしているので、どうということはない。ただいろいろなオプションがあるので、これをクリアすればよい。色がどうたら防護がどうたらと言われるが、もうあまり外にも出ないし、中学生とふざけ合ったりするようなことはないから、すべてスルー。

 

「手元用のほうですが…」と店員、

「一式5000円ぐらいで…」と私。

「お客様、それがですね、前回のときには格安のフレームのメーカーが入っておりまして・・・現在その会社との契約は切れており…」。

 

 動揺を気取られないように「で、いくらぐらい?」「1万円を超えるぐらいですが…」
 誤算である。考えていた価格の倍ではないか。八百屋ならば、手にとった大根が高かったら台に戻せばいい。メガネ屋だって「やっぱ、やめた!」というのもアリなのだろうけど、今まで小一時間も検査をしてきたことを考えると、無下にやめたとは言えない。


 入店からずっと慇懃に対応してきた若い店員、私が値段を聞いてキャンセルすることなど万に一つも考えられないといったすっきりした表情で、「それでは、お支払いのほうですが…」。

 もう戻れない。ルビコン川を渡ってしまったのだ(大げさか)。

 結局、入店からずっと彼らの接客のペースにはまってきたのだということに気づく。

 

 お店の出がけに松重豊のSansanのコマーシャルの科白を、店員に聴こえないようにつぶやく。

 

「それさぁ、早く言ってよー」。

 

 

 10月も今日で終わり。このブログは備忘録という性格が強い。9月から10月にかけて読んだ本ぐらい、書いておこう。


① 『花筐』(檀一雄光文社文庫・2017年・720円+税)
 これを原作に大林宜彦が169分の映画をつくった。『野のなななのか』の二の舞か。少し迷ったが、みにいかなかった。どうも合わない。


② 『きみの鳥はうたえる』(佐藤泰志河出文庫・2018年・初版単行本は1982年・650円+税)

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80年代、若者はどうやってカッコつけていたか、よくわかる。多少同時代でもあるし。映画はまだ未見。楽しみにしている。


③ 『彗星夜襲隊』(渡辺洋二光人社NF文庫・2003年・686円+税)
 特攻隊がらみで何冊か読んだ本のひとつ。字が小さいのが辛かった。


④ 『掏摸』(中村文則・2013年初版単行本は2009年・470円+税)
 大江健三郎賞をもらった作品。もっと期待していたのだが…。


⑤ 『氷の轍』(桜木紫乃・2016年・小学館・1555円)
 目くるめく時間と人の邂逅と別離、北の空気を感じるほどにうなった。

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⑥ 『裸の華』(桜木紫乃・2016年・集英社1500+税)
 ダンスやストリップの世界、女性の内奥まで迫る。こんなふうに?。一気に読んだ。


⑦ 『シュンスケ!』(門井慶喜・2013年・角川書店
 明治の元勲の物語だが、この人の手にかかると動きが軽快になる。


⑧ 『新選組の料理人』(門井慶喜・2018年・光文社・1500円+税)
 薩長の政治性、坂本龍馬の小狡さ、明治150年、戊辰戦争のとらえ返しに一役買う。

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⑨ 『抱く女』(桐野夏生・2018年・初版単行本は2015年・590+税)
 72年東京、早大が舞台のよう。20歳の直子の物語。私は18歳、田舎の大学に入ったころ。同時代ではあるが…。。あえて今桐野がこれを書いたことの意味。抱かれる女から抱く女へ?時代が変わったようにも思えるが、案外人間はそんなに進歩していない。村田紗耶香(『コンビニ人間』)のあとがき、出色。


⑩ 『オカルト化する日本の教育-江戸しぐさと親学にひそむナショナリズム
(原田実・2018年・ちくま新書・780円+税)
 江戸しぐさも親学もろくなものじゃない。うさん臭さをしっかり突いている。


⑪ 『国体論』(白井聡・2018年・集英社新書・940円+税)
 前著の『永続敗戦論』の戦後レジューム批判をさらに進めている。この若い研究者のラディカリズムは凄いと思う。


⑫ 『ポスト戦後の「進路」を問う 対話集」(白井聡・2018年・かもがわ出版・2000  円+税)

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 12人の他ジャンルの対談者の選定がよい。信田さよ子との対話印象に残る。


⑬ 『世界でバカにされる日本人』(谷本真由美・2018年・ワニブックス・830円+税)
 筆者は75年生まれ。国連専門機関、外資系金融会社を経て現在ロンドン在住。

 タイトルはひどいけど、内容的にはかなり面白い。比較文化論。世界の中の日本がよく見える。意図的に流される「二ホン、スゴイデスネ」の裏側。日本人が考えているほど日本は世界から評価されていない。すっ飛んでいるようでバランスの取れた論評。はっとさせられるところが随所に。

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K先生の名誉回復の闘い、市教委の謝罪によって5年間の闘いに幕を下ろすことができた。

   先週半ば、小旅行に出かけた。旅行と言っても春秋恒例の兄弟の会なのだが、今回は次兄夫婦と私たちの4人で鬼怒川温泉に逗留。以前と違ってあちこち観光するようなことはほとんどない。宿も常宿。


 長兄は急な鼻の手術があり、入院していたため二人とも不参加。宇都宮在住のため帰り道に前橋在住の次兄夫婦と4人で顔を見に寄る。3つずつ違いの男ばかりの3兄弟、3夫婦。まだ誰一人欠けることなく和気あいあいと話ができるのは幸せなことかもしれない。


 戻ったら、信州高遠、伊那谷の五合庵から手紙。今回は何人で来るのかという問い合わせ。予定は11月末。指定されている。

 一日一組しか客をとらない宿、訪れるのはほぼ常連だけなので宿泊日は宿の方が決めるシステム。土日はダメだとか火曜日は外してと伝えておくと、それに合わせて毎年、年賀状で宿泊日が知らされる。ここ数年は年に2回。料理が同じにならないよう季節も重ならないようにしてくれる。

f:id:keisuke42001:20181030101135j:plain離れからの風景


 メールで「御地はもうかなり冷え込んでいるのでしょう。横浜はまだ霜もおりていません。楽しみにしております。今回は我々二人でまいります」と送ると「・・・山は日に日に冷え込んで朝は4度とかの気温です。暖かい服装でお越しください。楽しみにお待ちしております」との返信。

 標高が1300㍍ぐらい。部屋からは一本の電線も見えない。入笠山の静かなたたずまいだけ。

 老夫婦が二人で経営している。チェックアウトが11時。その日は客は取らないそうだ。

 このお二人と話をしながらの夕、朝食が楽しい。今まで一度も「そろそろお時間で…」というのを聞いたことがない。気がつけば夕食が3時間を超えていたり、朝食を2時間もかけて食べていたり。「実家に帰ってきたみたいだ」とつれあいは言う。実家のない身となってしまった私たち夫婦には、ここは確かに実家のようなところ。居心地と料理、そしてお風呂に静かな時間、ささやかな楽しみのひとつである。

 

 


 
 9月17日に、生徒への不適切行為で処分されたK先生の話を書いた。5年間の顛末について簡単にまとめた文章を載せた。


 この勝利裁決、市教委にとっては敗北裁決だが、裁決書という紙の上だけの決着に終わらせてはなるまいと、この半年近く市教委人事課と折衝を重ねてきた。その結果、ようやく場の設定が決定、先日10月22日に双方の代理人(弁護士を含む)が集まり、会談を行った。


 5年前のちょうどこの日、私はK先生から初めての電話を受けている。K先生は数日前から「出勤しなくて良い。いつでも連絡をとれるように」と管理職から言い含められていた。年休という名目だが、実質的には「閉門蟄居してお沙汰を待て」ということ。処分量定表をテーブルに置き、どれにあたるか胸に手をあてて考えて見よ、という刑事ドラマでもやらない決めつけの行きついた先がこの年休の強制。罪人扱いであった。


 私は「休んでいると、認めたことになる。明日は出勤すべし」とアドバイス。顔を見たこともないけれど、即組合加入。明後日には教育委員会と交渉に入った。


 あれから5年である。担当の教職員人事課長は冒頭、以下のように述べた。

 

 教職員人事課長の○○です。
 教育委員会の事務局を代表いたしまして、このたび人事委員会事務局より平成26年1月にK教諭に対して教育委員会が行いました 減給10分の1、3か月の懲戒処分につきましては、平成30年4月18日、これを戒告にする、修正するとの裁決が人事委員会よりありました。
 裁決では教育委員会が行った処分では、処分対象となる事実の認定および量定の採択において妥当性を欠くものであったとされ、これを戒告に修正されたことを大変重く受け止めております。
 まず、「事実の認定について妥当性を欠く」とされたことについてですが、人事委員会における裁決では、平成25年10月にした校長が本件について、はじめてK教諭に聞き取りを行った際、処分量定表を見せ、「不適切なことはないか、不適切なことはしていないか、心当たりはないか」とだけ聞いて、具体的なことを伝えず曖昧な聞き方をした。校長がK教諭に具体的なことを確認していない時点で、校務を外すことを伝えるとともに、保護者に対し生徒に負担をかけていることなどについてお詫びした。
 これらの点について、「学校として請求者が非違行為を行っていたことを前提として聴取を行っていることを裏付けている」と指摘されました。
 また、当時2年生であった生徒は、学校に話を聞いてほしいと訴えてきたにも関わらず、学校は話をきいておらず、聴取が必要であったと思われる生徒に聴取していないと指摘された他、1年生についてもより慎重に聴取対象者を選定すべきであったと平成24年9月16日の下着の肩ひもを引っ張る行為について、複数の証言があるとはいえ処分対象行為とするに当たっては事実確認をより慎重に行うべきであったとも指摘されました。
 教育委員会が行った事実の認定について、裁決書では「処分者としてより慎重かつ中立的、客観的立場に立って対応すべきであったのであり、適切であったとは言い難い」とされました。
 次に「量定の選択について妥当性を欠く」とされたことについてですが、裁決では「本件について懲戒事由該当性があることに変わりはない」としながらも、処分者の調査方法にも至らない点があり、また処分者が主張する事実の一部については認定することができない。類似事例との比較の結果、本件処分はその量定の選択においても裁量権を逸脱した過分なものと言わざる得ない。従って「本件処分は事実の認定および処分の量定選択において妥当性を欠く」とされました。
 本件における事実認定および、その調査手続き等について裁決により指摘されたことを鑑みるとより慎重に行うべきであったと考えます。結果として過分な量定での懲戒処分を行い、K教諭には多大な負担をおかけしてしまうことになりました。
 教育委員会として改めて、人事委員会からの指摘を重く受け止めると共にK教諭に対して大変申し訳ないです。以上でございます。

(録音を起こしたもの)

 

 人事委員会は教育委員会の事実認定を、事情聴取が恣意的であいまいとしてかなりの部分否定した。
 下着のひもを引っ張ったということについても、裁決は証言をいちいち取り上げながら検討、「ありえない」と断じている。K先生のクルマの中にエロ本があったという証言なども、実際にあった雑誌は「ビッグコミックスピリッツ」であったことからしても、多くの事実が歪曲されたものであった。


 膨大な一つひとつの証言を突き合わせて、その矛盾点を突いた裁決書は一つの作品と言えるほど論理的にしっかりしたものだった。欠点と言えば「本件について懲戒事由該当性があることに変わりはない」としたことだが、これは公平機関とは言え、行政組織の一部である人事委員会の限界であると思う。


 会談は、1時間半に及んだ。最後に再び人事課長からお詫びのことばがあった。
 前例のない「会談」ではあったが、市教委は自らの瑕疵をしっかり受け止め、謝罪を行った。これもまた前例のないものだった。
 

 だからと言って、これでK先生の名誉の全面的な回復がなされたとは言えない。時計の針を巻き戻すことはできないからだ。

 組合や弁護士、支援の人々たくさんの人たちのささえがあってこそのこの日である。

 ともに祝杯をあげたい。K先生、ご苦労様でした。よかったね。

 

 

f:id:keisuke42001:20181030105654j:plainらい

 

『止められるか、俺たちを』一方その若松孝二だが、粗野でケチでせこいが、映画をつくることにかけてはすさまじい才能と情熱を発する。そんな若松を、ともに仕事をしてきた井浦新が演じているのだが、正直、私は成功はしていないと思った。

 10月18日、月半ばの木曜日、夕方、月に一度の通院。藤沢まで行く予定。通院だけの一日にはしたくない。予定を立てる。


 午前中、田園都市線あざみ野駅から地下鉄グリーンラインで阪東橋。若葉町のジャック&べティで映画を見る。横浜に戻って相鉄で大和へ。下車して駅至近の大和市図書館シリウスで雑誌を渉猟。2時間ほどいて小田急で藤沢のクリニックへ、といういびつな一筆書きのような予定。


 途中どこかで昼食・・・と言って重いものはだめ。なるべ軽いものにしないと、グルコースが大きく反応してしまう。何のための通院かということになってしまう。

 はてお昼は何にするかと考えながらジャック&べティに11時前に到着。本日の映画は『止められるか、俺たちを』(2018年・日本・119分・監督白石和彌井浦新門脇麦)。上映はベティ。11時05分開始。

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 窓口で「止められるか、おねがいします、シニアです」。1100円を払う。整理券は16番。
 

 ジャックでは『ご主人様と呼ばせてください~私の奴隷になりなさい 第2章』の上映。チケットを買う時、これは少し恥ずかしい。まさかタイトル全部を声には出せない。知らない人が聞いていたらびっくりしてしまう。


 自分なら「ご主人様、一枚、シニアです」と低い声で。くれぐれも「ご主人さまぁ」と呼び掛けにならないようにだけ気をつける。“女王さまぁ”でないからまだいいのかもしれないが(笑)。

 『私の奴隷になりなさい』シリーズ、壇蜜を輩出した映画、人気が高いらしく「止められるか」より待っている人が多い。


 ドアの前に他の人たちとたむろする。10分ほどたって前の演目が終了。何の映画だったのか分からないが、見終わった客はぽつぽつと1人ずつ出てくる。そのたびにたむろしている人たちと目があう。なんだか不思議な空気。

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ジャック&ベティ


 ベティは座席の近くにトイレの扉がある。今どきの映画館としては珍しいつくり。小さかったころ、私の町には映画館が3つあったが、売店もトイレもみな座席後方にあった。

 いざという時のためにその扉のすぐ近くに座席を確保する。

 いつものようにバッグの中を手でさぐる。スマホの電源を切るためだ。が、なかなか見つからない。ポケットの多いバッグ。あちこちまさぐるのだが見つからない。そんなはずは…あんなもの落とせば音で気がつくはず。どこか別のところに入れたのか…いや、やっぱりない。「エー!落としちゃったのか?」。メンドー、トラブル、メンドー、トラブルという心の声。

 

 スクリーンには予告編が流れている。どこで落とした?最後に使ったのは?電車の中だ。近所の友人から送られてきた喜寿のお祝いのレストランの写真、「これってもしかしたら”うかい亭”ではありませんか?」と返信したら、そうだという。当たっていたので気をよくして再返信をしたのが最後。あの時…だ。


 ついこの間、電車の中でスマホをストンと落としたことを思い出す。このバッグ、いちばん外側がチャック付きのポケット。ここにスマホを入れる。もう一つ内側にポケットがあるのだが、その間に「底がないポケット」がある。つれあいに言わせると、キャリーバッグのアーム部分に通してバッグを乗せるものじゃないかなと。そのために「底がない」のだという。


 ということは、電車の中で落とした可能性が高い。立ち上がったときにするっと落ちて、周りの騒音で気がつかなかったのか。拾った人が駅の窓口に届けてくれているかもしれない、駅に電話を入れれば…。  

 

 考えているうちにも時間は過ぎていく。スクリーンでは予告編が終わり、映画泥棒の画面でカメラを頭にかぶった人がダンスをしている。

 今から駅に戻るか、それとも見てから戻るか。トラブルの場合、初動が大事が常識。遅れれば遅れるほど事態が込み入ってくる…なんて考えるが、始まろうとしている映画をやめてまで出ていく勇気?は私にはない。なんつったって若松孝二だぞ。2時間経って行けばいい。遅れていく勇気?何とかなるさと普段の自分には、らしくない判断をする。

 そうは言っても、アタマの片隅にスマホが何度も浮かぶ。蹴散らしながら映画に没頭する。この映画、10月13日の封切り、まだ1週間も経っていない。


 2012年に逝去した若松孝二監督が代表を務めていた若松プロダクションが、若松監督の死から6年ぶりに再始動して製作した一作。1969年を時代背景に、何者かになることを夢みて若松プロダクションの門を叩いた少女・吉積めぐみの目を通し、若松孝二ら映画人たちが駆け抜けた時代や彼らの生き様を描いた。門脇むぎが主人公となる助監督の吉積めぐみを演じ、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」など若松監督作に出演してきた井浦新が、若き日の若松孝二役を務めた。そのほか、山本浩司が演じる足立正生岡部尚が演じる沖島勲など、若松プロのメンバーである実在の映画人たちが多数登場する。(以下略)

                          “映画.com”から

 

 スマホを落として動転していたせいではなく、この映画、私はあまり集中できなかった。60年代後半から70年代にかけての世相や考証はわかるのだが、全体に突っ込み不足というか。若松孝二井浦新)を描くのか、若松を取り囲む群像のひとりとして助監督の吉積めぐみ(門脇麦)を描くのか、やや焦点がぼけていると思った。

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 とは言え、門脇麦が演じるめぐみはよかった。21歳で助監督を志望して若松プロに入り、ピンク映画の助監督から自分の監督作品も手掛け、23歳で謎の死を遂げた女性。映画の中では自死のように描かれているが、もっともっとこのめぐみという女性を中心に据えて、そのバックグランドや若松への傾倒、助監督としての成長や交友関係を丹念に描いてほしかった。

 白石監督はじめこの映画をつくっている人たちが、この“めぐみ”という人を間近で見ていたぶん、「物語」の中心にはならなかったのか。監督は“めぐみ”が主人公の青春劇とインタビューで語っているが、今一つそうはなっていなかったと思う。

 たとえそうであったにしても門脇麦はよかった。「映画は好きだけど、撮りたいもんなんてないんだよ」というめぐみのセリフ、若者の空虚さと歯止めの利かないところを門脇が好演している。

 右も左もエロも政治も撮ろうとする雑食の、腹をすかせた獰猛な動物のような若松も、どこかで“めぐみ”を気にかけている。しかし、空洞の?めぐみに対しては、容赦ない。近くにいた人間にしかわからないところであると思った。


 一方その若松孝二だが、粗野でケチでせこいが、映画をつくることにかけてはすさまじい才能と情熱を発する。そんな若松を、ともに仕事をしてきた井浦新が演じているのだが、正直、私は成功はしていないと思った。

 若松の口癖や声の発し方など物まねが浮いてしまっているのだ。井浦の良さも消えて、下手な物まね演技にしか見えなかった。ミスキャストではないだろうか。

 

 白石和彌監督は、今年役所広司松坂桃李で『虎狼の血』という傑作やくざ映画を生みだしている。これからたぶん日本の映画を牽引していく人なのだろう。そんな才能豊かな人でさえ、自分が生きてきた“内幕”を描くのは、思い入れが邪魔をして難しいのだろう。

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 当時の政治セクトや集会,デモ、赤軍パレスチナ重信房子氏などの描き方は、少し雑ではないかと思った。全共闘や当時の世辞の季節を懐旧する観客だけでなく、若い世代に若松孝二のすさまじさとある意味の普遍性を見ようとするなら、もっと丁寧に描いてほしいと思った。

 

 ジャック&ベティを出たのは13時過ぎ。まっすぐ阪東橋駅へ。小心者ゆえ足がせくのを止められない。止められるか、おれを?

 駅員におそるおそる「スマホの落し物は?」と尋ねる。いろいろと特徴を訊かれる。色は、会社は、待ち受けは?それをメモしてどこかに電話。間もなく「ああそうですか?」と少し高調子に。もしかしてあったのでは。そして「あなたラインやってますか?中川さんという方、お知り合いですか?」中川さんならよく知っている。今朝もメールがあった。「ああそうですか。たぶん間違いないですね。隣の隣の蒔田駅に届いているそうです。これから行ってみてください」。


 お礼を言って蒔田駅へ向かう。暗雲はすっきりと晴れ、動きに余裕が出来る。10分後、2時間半ほどの間、行方が知れなかったスマホは我が手に戻った。どなたか拾って届けてくださったのだ。ありがとうございましたと云って蒔田駅事務室を出る。届けてくれた方にお礼を言いたいと思うのだが、名前を言わずに立ち去ったとのこと。感謝、感謝である。
いびつな一筆書きはあきらめ、蒔田駅からそのまま地下鉄で終点湘南台駅へ。そういえばお昼を食べていなかった。軽いもの、蕎麦ぐらいしかない。小田急線名物の箱根蕎麦に入る。藤沢まではここから快速急行で10分もかからない。診察時間まで1時間半もある。ゆっくりゆっくりかみしめるようにそばを手繰った。

 

 

 

 

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らい

 

「中国人観光客がモニタリングポストのある所は放射能の危険のある所と思っているので、その意味でも撤去すべき」と規制庁の役人が言った。広がるモニタリングポスト撤去の動きとは?

    つれあいが「ほら、こんなだよ、Mさんのうち」」と云う。

 スマホに写っているのは高槻に住むMさんの家の屋根の修繕の様子を写した写真、フェイスブックにMさんが載せたようだ。この夏から秋にかけて関西は2度の豪雨と台風の襲来で痛めつけられた。

 

 10月の初めに、以前お世話になった方の病気見舞いに大阪へ日帰りで出掛けた。

 京都線東海道線)で茨城に向かう道すがら、車窓から屋根にブルーシートのかかる家を何軒も見た。屋根が壊れた家が多く修繕が間に合わない、業者はてんてこ舞いとのこと。見積もりを取ると業者によって倍も開きがあることがあるという。

 Mさんの友人の話によると高槻市だけで屋根の被害が2万軒だそうで、これらの修復に一年はかかると言われているそうだ。
もう豪雨も台風も報道はされないが、被害を受けた方たちはボディブローを食らったように立ち直れないでいる。

 

 福島・喜多方に住む五十嵐進さんから、同人誌『駱駝の瘤』16号と俳句同人誌『らん』83号を送っていただいた。前者は3・11を契機としての創刊だから7年、年に2~3回の発行。後者は季刊で20年以上も続く老舗の結社の機関誌である。

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 五十嵐さんは、この二つの雑誌で、ご自分の作品のほかに編集も手掛け、さらに「農を続けながら・・・フクシマにて」という同じ表題での連載を続けている。二つとも毎号、読みごたえがある。前者は16回目、後者は29回目となる。


 実はもうひとつ連載があった。私が所属する横浜学校労働者組合の機関紙「月刊横校労」(当時、現在は隔月刊)でも「喜多方から~農を続けながらフクシマを生きる」と題して連載をしていただいた。こちらは2011年からあしかけ4年にわたっての連載で25回を数えた(掲載された文章を中心に2014年に『雪を耕す』(影書房)が刊行されている。また、連載25回分を合本とした冊子も発行されている)。

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五十嵐さんが3つもの詩誌でフクシマをめぐる連載を続けたこと、続けていること、その端緒となる文章を『駱駝の瘤』から少し引いてみる。

 

・・・私は会津・喜多方に住み、昨年社会的な職も人並みに勤め上げて、今は土を耕している。父祖伝来の土である。この土が㋂11日の福島第一原子力発電所の水素爆発により吐き出された放射性物質によって汚染の土と化してしまった。100㌔離れた地点とはいえ、爆発前にはなかった放射線の数値が毎日検知されている。0.15マイクロシーベルト/h前後の数値である。高い数値の土地に比べれば低い数値かもしれないが、それは相対的な問題である。爆発前の数値0.03くらいからすると5倍、と思えば安心してはいられない。まず子どもや孫に送っていた土地の産物は送ることはできない。小さい子どもに遊びに来い、とは言えなくなってしまった。芋掘りをさせよう、とうもろこしを畑からとってきて、七輪で焼いて醤油を塗って食べさせよう、畑から西瓜をとってきて小さな手で包丁を持たせて切らせよう。その歓声を、笑顔を見られない。何年か後に死ぬ、死ぬまでの生涯のささやかな楽しみを奪われてしまった。近くでキャンプ生活も計画していた。それももうできない。一瞬にして奪われてしまった一人の男の無念さ。それで済んでいる、と言われればそうである。故郷を追放された人たちさえいるのだ。そう思いつつも、今ある自分から考えるしかない。土を起こし、畝をつくりながら考える。耕して放射性物質を鋤き込んでしまっていいのか迷いつつ。・・・

 

(「いや、うちの孫、将来お嫁さんをもらうときに福島の人はもらえないなあ」という発言に)いまだけの鎮静を求める政治屋には10年先、20年先に起こるだろうこういう福島人差別は全く見えないだろう。広島・長崎に起こったと同じ新たな被曝者差別がきっと出てくるだろう。悲惨なことだ。これはそんな先の話ではない。もうすでに福島県の男性と結婚しようとした女性の親が福島に住むことになるならこの結婚には反対だと言って事態が膠着しているという事実がある。小さくは、福島ナンバーへの理不尽な差別をはじめ、日本人はやるのだ、こういう闘うべき相手の錯誤の中でおろかに同士討ちする卑小さの露呈を。・・・

 

ここ喜多方においては、すでに肉牛のえさに使った稲藁の放射性セシウム汚染が明らかになっている。みな寡黙ながらこの放射能の影響が農作物に、特に米どころとして米にどれだけの影響が出るか、不安な思いで作物と向かい合う日々が続く。

 

 

 

 今回五十嵐さんは「らん」のほうで、モニタリングポスト(リアルタイム線量測定システム、空間線量を測る装置)撤去をめぐる福島の動きを報告している。


 原子力規制庁原発事故で避難指示が出た12市町村以外の約2400台のモニタリングポストを2020年度末までに撤去する方針を出していることをめぐって、福島は揺れている。

 県内59町村にモニタリングポストが設置されていて、4割超の23市町村が「反対」、3町村が「賛成」、23市町村が「どちらとも言えない」6町村が「住民の意見を聞いて判断する」と、それぞれ方針が分かれているという。

 

 五十嵐さんの住む喜多方市では、7月半ばに「リアルタイム線量測定システムの配置の見直しに関する住民説明会」が開かれ、100人の住民が集まったという。

 

この中で出された意見を五十嵐さんがまとめているので、少し紹介したい。

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飯舘村のモニタリングポスト。後ろは汚染土。2016年。山本晋さん撮影。

 

・「原子力規制委員会原子力規制庁とは何をする機関ですか」という質問。五十嵐さ   ん、議論のスタートとしていい質問だと。
・モニタリングポスト撤去前提の話し合いというのはおかしい。
・「線量が低い」「線量が安定的に推移している」(主催者側の説明)というが廃炉まで何があるかわからない。自分の目で確かめられるポストが必要。
・「原子力緊急事態宣言」がいまだ発令中である。
・線量を平均値で説明するのはおかしい。
・撤去後に個人用の線量計を貸し出すというが、個別で測った数値は正式なものとして扱われるか。
・学校での放射線教育にモニタリングポストは教材として必要だ。
・薬草を扱う業者の方は具体的な数値を挙げて発言。長野、新潟の県境付近の薬草、北  塩原村(喜多方市の隣村)の薬草はいまだ線量が高く薬草として使えない。ポストを減らすどころかもっと増やして監視を強化すべきだ。
区間線量だけで論じているが、土壌線量を細かいメッシュで調査し、合わせて公表すべき。
・山、森林は除染していない。これから自然災害が発生した時、モニタリングポストがなければ、市民は判断できない。

f:id:keisuke42001:20181022101146j:plainこの記事では「反対」は25市町村に。

 規制庁本庁の個別交渉に出掛けた人の報告として「中国人観光客がモニタリングポストのある所は放射能の危険のある所と思っているので、その意味でも撤去すべき」と規制庁の役人が言ったという話も出たそうだ。

 


 こんな話は昼のワイドショーでも朝のニュースでもやってはいない。豪雨や台風の話でさえすぐに消えてしまう。8年近くも過ぎた『福島第一原発の重大な事故』のことなど埋め草にさえならない。


 年を越せば、オリンピック熱はさらに上昇するのだろう。無意味な増税と止まらない少子高齢化の波という無策、そして政治と官僚の腐敗を、オリパラのアスリートたちの演技で歓喜とともに押し流そうというわけだ。

 

そんな中で、今、福島の避難指示地域以外のところでこんな議論がなされていること、そのことを小さなメディアで伝え続けている五十嵐さんの健筆が頼もしい。
最近の五十嵐さんの句から一つ。


          俺とは何でできているのか古稀の春

 

 

 

f:id:keisuke42001:20181022111112j:plain                     落っこちないで!

        庭で見つけたオンブバッタ。


 

 

『教誨師』・・・・『休暇』にも大杉漣は出演している。はて、何の役だったか、思い出せないのだが、「やはり野におけ」というように大杉漣は、脇役の方がいいかなと思った。

    裁判に勝っても、形式的なお金のやり取りや処分の軽重が変わるだけで、実際に被告が原告にきちんと謝ることはまれなことだ。


6月に見た『ニッポン国VS泉南石綿村』(2017年・日本・215分・監督原一男は、アスベスト訴訟の全貌を知らしめてくれた原監督渾身の快作だったが、後半部分で判決が出た後、厚労大臣に謝罪をさせるために原告団厚労省まで何度も足を運ぶシーンがある。

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  「下っ端」の職員から始まり、順々に対応する職員の階級が少しずつ上がっていく。何度も何度も日延べをさせられ、もう無理かとも思われる中、不退転の決意で大臣までたどり着くその様子を原監督は、撮るものと撮られるものの間でもがきながら活写している。215分の時間を全く感じさせない映画だった。最後に厚労大臣塩崎恭久が登場するのだが、その塩崎に原告の一人が怒りをぶつけるのではなく、来てくれてありがとうと感謝の言葉を告げるリアリティには凄いものがあった。  

 

 

    このブログでも紹介した、部活動中のセクハラを疑われ、2014年1月に減給3か月の処分を受けた横浜の教員の人事委員会への処分取り消し請求事件、処分から4年3か月、人事委員会は横浜市教委の「裁量権の逸脱」を認定、処分を取り消し、戒告に直した。


    しかし裁決書という判決にあたるものが人事委員会から当該に送られてきて、支援のわれわれ少数組合が「よかった、よかった」と情宣をしても、市教委は「へ?なにかあった?」ぐらいのもの。当時の北部事務所の所長は横浜市大に移り、その後病没。校長は退職。関係者で残っているのは当時の係長と副校長、現在教育次長となっている指導室長ぐらい。当時の責任を問うのは難しい。

 

   そこで、給与の返還交渉も含めて所管課である教職員人事課に対し、「当該に対してきちんと謝罪をしてほしい」と申し入れたのが6月。以来、何度か足を運んでそろそろ具体的な場の設定にまで話が及んでいる。

 

    2013年に当該が組合に駆け込んできたとき、執行委員長であったことから退職後も支援を続けてきたが、今年4月で執行部からすべて身を引いた。それでもこの件だけはと、長年通い続けた市教委が入っている関内第一ビルに足を運んでいる。

 

 

 12日に、その「場」への対応を協議する当該と代理人の打ち合わせが関内の法律事務所であった。二人の弁護士の方に4年半もの間、この事件に関わっていただいた。お1人はまだお若い女性、もうお一人は70歳前の大ベテラン弁護士、お二人のコンビがいつもどこかほほえましく、打ち合わせは和やかなことが多かった。


 これが最後の打ち合わせになるかと思いながら、映画をチェックしていたら午後に黄金町のジャックアンドベティに教誨師』(2018年・日本・114分・監督佐向大・主演とプロデュース大杉漣があった。時間もちょうどよい。10月6日の封切りだからちょうど1週間、込んでいるかと早目に出かけた。

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 はじめに『教誨師』というタイトルを見たとき、堀川恵子氏の『教誨師』(2014年)が原作、あるいは下地になっているのかと思った。堀川恵子氏には、『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』(2015年)や『永山則夫 封印された鑑定記録』(2017年)の著書があり、いずれも力の入ったもので『教誨師』も大変に充実したドキュメンタリーだった。


 映画『教誨師』のほうは、これとは全く関連がなく、脚本も監督の佐向大が手掛け、先般亡くなった大杉漣が主演、プロデュースをしている。名バイプレーヤーといわれた大杉漣の最後の主演作。


 ファンも多い大杉のことだし、結果的に遺作となってしまったこともあって、ネットのレビューなどを見ても評判が高い。否定的な評価はほとんど見かけない。

 

そんななかでこう書くのは気が重い面もあるが、ずいぶん薄っぺらい映画になったなと思った。

 

 6人の死刑囚と次々に何度か交代に向き合う場面が延々と続くが、単調、映画にする意味が分からないとも思えた。

 大杉演じる教誨師佐伯牧師の回想シーンはあるにはあるが、私にはどうもとってつけたように思えた。全体に作りものっぽく、大杉の演技もはじめから教誨師としての枠組みが緩んでいるように思われた。それが人間的な教誨師、といわれると私は違うと思う。宗教的に自分なりに確固としたものをもとうとしてなったはずの牧師をもっときっちり描いてほしかった。そうでなければ教誨師そのものが見えてこない。6人もの死刑囚と対話を続けているというキャリアとの釣り合いが取れない。


 佐伯自身の生い立ちの中、兄が起こした母親の二人目の夫への殺人事件が教誨師となる契機のように語られるが、そこから佐伯はどうして牧師になり教誨をするようになったのかよくわからない。だから佐伯の人物像に今一つ厚みがない。その兄は服役が終わる直前に自殺しているのだが、兄が幽霊となって教誨室にさらわれるシーンは、映画というより演劇的に感じられた。ここでも自分史への拘泥は見られても、教誨師としての死刑囚への向き合い方は出てこない。


 死刑囚6人はそれぞれどんな事件で死刑囚となったのか、わかる人もいればよくわからない人もいる。烏丸せつこ古舘寛治光石研ら達者な人たちはさすがだが、どういうわけか作りものっぽく感じられるのは芝居をしすぎるからか(烏丸せつこの歯がやけに白いのが気になった)。逆に小川登、字の読めないホームレスを演じた五頭岳夫にリアリティがあった。この五頭という役者、これが二つ目の映画出演。どういう人なのだろう。1948年生まれ。

 

 高宮玲央が演じる津久井やまゆり園事件の植松被告らしき人物との対話、社会制度としての死刑制度などへの根源的疑問などに佐伯は虚を突かれるのだが、その返し方に私は深みを感じなかった。


 正直2時間近く、みているのが辛かった。

 犯罪者に関わるボランティアとして保護司がある。教誨師は保護司とは違って更生を手伝うというより、宗教的な対話から反省を促し死刑囚を死刑台に送る役目である。

 死刑制度そのものに対する考え方も含めて、思想的、思索的な深まりがなければ、死刑囚に向き合うことは難しい。

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執行にも立ち会うわけで、迷いや弱さを前面に出してできる仕事ではない。

 それでもことばによる対話を中心に進める映画ならば、佐伯自身の人物造形も死刑囚のそれももっと緻密になすべきだったのではないか。

 佐向が脚本を担当した刑務官の死刑執行を扱った『休暇』(2008年・日本・115分・監督門井肇に比べて出来栄えとしてはかなり劣ると思った。やはり『休暇』が吉村昭の原作に負うところが大きいからかもしれない。

 

 『休暇』にも大杉漣は出演している。はて、何の役だったか、思い出せないのだが、「やはり野におけ」というように大杉漣は、脇役の方がいいかなと思った。

 

 

 

 

 

 

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本文とは何の関係もありません。

今年の初冠雪は、9月26日だった。これは10月18日、芦ノ湖をのぞむ丘から。 

 

熊本市議会、のど飴で8時間の休会、懲罰動議が出され、議員は出席停止に。これってどういう問題なのか。学生と考えてみた。

  授業のはじめに、今、世間で話題になっていることについて新聞記事などの資料を読み、コメントを書き、ひとしきり意見交換をするという時間をつくっている。2,30分ほどの時間だが、本チャンに入る前のウォーミングアップのようなもの。

 今年度の最初の話題は、熊本市議会緒方夕佳議員ののど飴をめぐる議会紛糾問題について考えてみた。緒方議員は、昨年11月に赤ちゃんを連れて議会に出席、大きな問題を提起をしたのだが、議会はその後赤ちゃん連れの出席を禁止、一人会派の緒方議員は悪戦苦闘の議員活動を続けている。その中で起きたこの問題。賛否両論ありますが、

学生はこの問題をどう考えるのか。

ブログ掲載については学生に了解を得た。(   )は授業でコメントを書く時のニックネーム。私のコメントも末尾に。

 

 

西日本新聞9月29日付

熊本市議会は28日、9月定例会の最終本会議を開き総額14億697万円を増額する本年度一般会計補正予算案などを可決した。緒方夕佳議員(43)が演壇でのどあめを口に含んで質疑したことを発端に懲罰動議が出され、緒方氏は28日のみ1日間の出席停止となった。審議は緒方氏が質疑していた午前11時半ごろから中断を繰り返し、午後8時前に閉会した。

 緒方氏は、自身が紹介議員となった議会基本条例の制定などを求める請願計7件が、今議会の議運委で不採択となったことに反発し質疑に立った。緒方氏があめをなめていることに他の議員が気付いて批判。本会議が中断した。

 熊本市議会会議規則には議場での飲食を禁じる条文はないが、議運委は「議員は、議会の品位を重んじなければならない」とする条文に抵触すると判断。緒方氏に議運委での陳謝を求めたが、緒方氏は拒否した。

 本会議では、緒方氏に「軽率な行為であり深く反省いたします」などとする陳謝文を朗読する懲罰が議決されたが、緒方氏は拒否。その後、本会議で出席停止とする懲罰が議決された。

 緒方氏は報道陣の取材に「風邪をひいており、せきが出ないよう、のどあめをなめた。出席停止で質疑や表決が果たせなくなり、非常に残念」と話した。

f:id:keisuke42001:20181017050724j:plain右から2人目が緒方議員

 

 

         熊本市議会、のど飴問題から考えたこと

緒方市議は強い人間というのが第一印象です。多数派対少数派どころではなく、多数派対一人という状況の中で自分の意見を曲げずに討論できることはすばらしいと思います。しかし緒方市議は幼児同伴の件でよい意味ではなく話題になっていたので、自分の行動が批判されないかもっと慎重になるべきだったと思います。昼頃には終わる予定だったはずなので我慢もできたと思いますし、そこまでひどかったら一言断ってから口にすることもできたと思います。(雨の日苦手)

 

私はこの問題の記事を読んだ時に小学生のクラスでこのようなことをやったなぁとなつかしく思い出しました。ということは、この議会のやっていることは小学生のたわむれなんだと思い、少し残念に思っています。年老いた人たちが今まで私より一回りも二回りも多く生きている人たちが、こんなに相手の気持ちを考えられないのかとも思っています。この小さい集団の中で人の気持ちを考えられない人たちが市民の気持ちになって話し合いができるとも思いません。この熊本市議会の問題を国民や東京や他の地方議員たちが他人ごとのように考えているのも問題だと思います。この問題と同じような言い合いは日常生活などにもどこにでもあふれていると思います。人間、現実を受け入れるのに時間がかかる生き物だと思います。(トムソーヤ)

 

私自身もここ数日間風邪をひいており、のど飴がないとせきが出てしまう状態なので緒方さんの気持ちがとても良くわかります。のど飴がなかった場合にはより大きな迷惑をかけてしまう場合もありうるため、緒方さんの判断は正しかったと思います。議会の品位を下げることにのど飴をなめることが含まれるのであれば、大多数の人には解釈できないと思うので、きちんと明記していただく必要があると思います。ただこのあと8時間も延長したとなると緒方さんがこのことに対して具体的にどのような対応をとったのかは疑問が残ります。(バジリスク

 

まず記事を読んでも思ったことは、議会はくだらないことをしているということです。ニュースなどで議会でヤジを飛ばしている映像を見たことがありますが、何かを決めるために選ばれた人たちが集まっているのにこの件を含め違う党派の粗探しをしている印象を受けます。のど飴問題については問題になるような行為ではないと考えます。完全に緒方議員に対しての粗探しだと思います。話の中で男女の問題や平等の問題に派生するとありましたが、今は解消されなくても自分たち世代がの大多数はこういった問題に寛容なのでこのようなことは減ると思います。(せいうちん)

 

その年に赤ちゃんを連れてくるという行動で他の議員達から悪い印象をもたれていたであろう状況で今回のような問題が起きたことを考えると、古いい風習がガチガチになっている議会のルールがいかにおかしいものなのかということが良くわかる。緒方議員もいきなり飴をなめていたのではなく前に「咳をするな」とヤジを飛ばされていたため、その予防のためにのど飴をなめていたとすれば今回の「品位」を落とすという批判は矛盾した的外れな考え方だと思える。古い縦社会で成り立っている場所では、風通しが悪くなり今回のような柔軟な考え方は受け入れられないのだと感じた。(猫大好き)

 

正直意味が分からないです。問題であるという認識をこの事態によって持つことができない。「品位」という非常に具体性のない言葉の便利さで緒方議員への制裁を加えようとしたとしか思えない。何か口に含む状態は集中力をあげるという利点もあるためこの事態により否定的な意見をもつ。ただ、大学以外の学校の授業中に何か口に含んだ状態でいることを許す学校は少ないと感じている。いずれ学校にも報道陣のメスが入るのだろうか。(ラスク)

 

まず緒方市議の乳児問題とのど飴問題は全く別のものであると考える。乳児の方は最近の女性進出を掲げる政府に対して制度が追いついていないということを主張するためのものだったととらえる。緒方市議は派閥にも属せず、発言力が乏しいという背景を考えると、市議会のルールを破ってまで子供を連れてきたことは、ただ女性にまつわる制度不足だけでなく、女性議員の権力不足を表すものだったと思われる。結果としてはルールを破り、批判もされたわけだが、いわばどうしようもない現状を示す問題だと言える。
それに対して今回ののど前の問題は緒方市議が事前に風邪で咳に文句を言われたことからの判断だということはある。だがこの問題は男女はあまり関係ない。飴がOKかどうかというのは明文化されていなく、他の議員の発言から議員全体に明確なルールの周知はなかったと思われる。緒方市議がこのルールをしっかり把握していたかは分からないが、少なくとも飴をなめること自体は問題はないと考える。私が問題と考えたのは、OKかどうかわからないのに事前に許可をなぜ求めなかったのかというところである。私の社会常識で考えるならば不明なことは事前に問うものである。のど飴をなめるという判断はともかくとして、記事の中の真意を読む限りでは緒方市議には事前に問うという考えはなく、これは非常識にあたり、問題になったところであると考える。一方で陳謝についてはあまりルールを知らないので何とも言えないが、ただ文を読むのではなく、自分のことばでというところは賛成であり、強制すべきものではなかったと思う。(マル)

 

むやみやたらにお菓子を食べていたわけではなく、理由があったうえで飴を食べているという点を考えると、議会を中断し8時間もそれについて言及される必要がはたしてあったのか、また、ほかにもっと話し合うことがあったのではないかと考えました。たしかに口に何かを入れた状態というのは日本社会からすると非常識ととらえられるというのも分かります。しかし、8時間それについて時間を割くというのもまた非常識的だと思えるのです。緒方議員から、事前にのど飴の申告をするといったこともできたかもしれませんが、この状況を見ると仮に申告したところで、許可は出なさそうですし、やはりどのみち、緒方議員を追い詰める何かしらの理由がほしかったのかなと感じました。(むぎ)

 

のど飴をなめていたことに対しては議員として、ルールを守れないというのは良くないことであると思った。しかし子供を連れてきたりして注目されていたことを考えると、批判した周りの議員の嫌がらせ的な感情も入っていると思った。この一連の流れで問題をみていくと、いじめ問題、男女平等、ルールやマナーの問題、子育て問題など多く考えなければならないきっかけになったと思う。
男女が働く社会になるということは、男女が平等に子育てを行い、過去にあった男性の方が上で女性が下だと考えていた概念を考え直さなければならないと思う。さまざまな社会の仕組みを変えていく必要があると思うので議会でこのような問題について議論すべきだと思いました。(シュシュ)

 

今回ののど飴問題以前にも、緒方市議が子どもを連れて議会に参加していたということもあり、目立ってしまっていたために、このような議会が8時間も続くという事態になってしまったのだと思う。日本では男女平等や女性への議員を増やそうということをさかんに言っているのに、女性が働きやすい環境が整っていなかったり、昔の古い考え方が残ってしまっているのだと思う。なので、一刻も早く環境を整えることが必要だと思う。緒方市議のように自分の意見や考え方が少数派だったとしても、正しいと思ったことを行動するということも大切であると思った。(プー)

 

ただおなかがすいたからや、眠くなってしまうからという理由で飴をなめていたなら反対されてもしょうがないと思いますが、体調が悪くても議会を欠席することはできず、以前咳がうるさいと言われた結果の対策で、議会のためにしていたことなので、反対されるのはおかしいと思いました。品位というものが何なのか人によって考えているものが違うと思うため、ルールをもう一度見直すべきだと思いました。また子供連れの出席についても、外国では当たり前のようにされているものにもかかわらず、日本でここまで問題になってしまうことに疑問を感じました。これがもし男性議員だったらどうなっているのかと思いました。(あられ)

 

品位が損なわれる行為としてのど飴をなめながらの質疑が挙げられたのですが、そもそも品位とは何かについて市議会として明確にしてない以上は、これ以上論じることは難しいと思います。しかしながら品位とは、ということを棚に上げたままのど飴をなめていた女性議員をバッシングしている現状があります。そこには「品位」を超えた女性差別、育児問題などの背景があるように感じます。一人の女性を囲むようなバッシングは品位を欠くと思いました。また事前に理由を伝え、のど飴をなめなかった女性も品位を欠くと思います。

ものすごくもったいない時間でしかないと私は強く思いました。地震に対する対応が今回の話し合いであったならばなおさらそうであると思います。一日も早く動き出すべき時にそれを決める場所でこのようなことがあったことは少し悲しくなりました。今やるべきことを考えたときに時間を割いてのど飴について話し合うのか、災害復旧について話し合うのか、その結果前者になってしまったことはおかしいともいました。                            (シンジ)

 

飴をなめるのは良いと思うが、自分が話す立場になったらいったん口から出すべきだったと思う。自分が風邪である旨をまず伝えて理解が得られたのちまた飴をなめたらよかったのではないかと思う。周りの議員さんたちは次々と前例のないことをする緒方議員をねたんでいると考える。飴に関して言えば「え、なめていいの!?オレもなめたい~」と感じたおじさんが紛糾したのだろうなと思う。ちなみに私は芯のない人間なので怒られたら即謝罪します。緒方さん、すごい!女に生まれたことを後悔してしまう。
                             (オノヨーコ)

 

緒方議員はもともと赤ちゃんを議場につれてくるなどしていたので、ほかの議員に反感を持たれて、のど飴を問題にされてしまったが、これが別の議員であれば、問題にされなかったような気がする。また元々国連で働いていたこともあって他の議員からすればよそ者、自分たちとは違うものとしてみていたのではないかと思った。議会のことではあるが、学校のいじめの構造と似ているのが興味深いと感じた。学校でも、帰国子女の子は日本の学校になじめずに、いじめられたり、苦しんだりしていることを聞くので、それに似ているのかと思った。(ノース)

 

行き過ぎた処分ではあると思う。たしかに飴をなめながら人前で話すことは気持ちがよくないと思う人はいるだろうが、何時間も大勢で責めるような内容ではない。議員、議会がいかに生産性のないものかがわかってしまう出来事であると思う。イギリスからも批判が届いているように議員にはその議会のうちでの「品位」という意味より、それぞれの行いを客観的に見て、自分たちがしていることはどういうことなのかを考えてほしい。(でー)

 

 私はのどアメをなめながら人の話をきいたり、自らが発表することは反対です。自分は議会で発言したりしたことはもちろんありませんが、まじめな話のときや目上の人と話すときは何かをしながらきいたり、まして食べ物を食べながらということは失礼だと思います。またもしのどが痛くてアメをなめる必要があるのならば、周りに一言あってもよかったのではないかと思います。しかし、のどアメをなめていただけで、議会が数時間も休会をしてしまうというのは、なんだか頭が悪いというか、もっとやらなくてはならないことがあるのではないかと考えてしまいます。まとめると、「いけないことだと思うが騒ぎすぎ」だと感じました。(メガネ)

 

 

以下、学生に示した私の見解です。


◆ 事前に「のど飴、いいですか?」と許可を得るべき?
皆さんのコメントで私が一番引っかかったのは「事前に許可を得ればよかったのではないか」というもの。どうなんでしょうか、現実的な問題としてよく考えてみてください。
大人の世界で、「のどが痛いので、のど飴をなめたいのですがよろしいでしょうか」って訊くのは普通のことでしょうか。社会的な常識には確かに幅があります。ある人には常識でも別の人には非常識というものもあります。
ではどちらかはっきりしない場合は、許可を得るべきだと考えるはある意味当然とも思えないこともないのですが、私には少し硬直した考え方ではないかとも思えます。それはとても窮屈なことではないでしょうか。
問題は、のど飴を口にしていることが周りの雰囲気を壊したり、他の人に不快な思いを与えたりする可能性があるかどうか、つまり一般的な社会通念上のマナーの許容範囲を超えているのかどうかということになります。それと自分が抱えている事情との兼ね合いを考え併せることが必要になります。
公的な場で議論をする場合、ガムを噛みながらとか何かを食べながらといったことは、一般的に許容されにくいですね。そこにはおのずと私たちが共有している一定の「線」があるように思えます。
もう少し考えてみましょう。議論をする場で、たとえば質問をする際、演説をする際、のどが渇いたりつまったりしたときにペットボトルでのどを潤すという行為はどうでしょうか。今では、これは十分に許容されますね。数十年前の学校では授業中に飲み物を摂ることは認められませんでしたが、現在は水分摂取は積極的に勧められています。ですからわざわざ担当の先生に「のどが渇くので、水を飲んでもいいですか」と許可を得る必要があるとは、皆さんも考えませんね。これはお互いに「線」を共有しているということですね。
そこで緒方さんののど飴ですが、これが「ガムを噛みながら」と「水を飲む」のどちらに近いか考えてみてください。
のど飴がガムのように礼儀を欠くものであったかどうかといえば、私はそこまでは全くいっていないと思いますし、大の大人が周りに「のど飴、いいですか」と許可を得るのもおかしなことだと思います。
緒方さんは以前に周りの議員に「咳」を注意されたことがあってと、のど飴を口にした理由を語っていますが、「咳」を抑えるという点でのど飴の服用には合理性があります。
私はそのことより、体調を崩している緒方さんに対し「咳をするな」といったという議員の不寛容さが気なります。
私たちの社会の中で、咳をしている人に「咳をするな」と直言することはよくあることではありません。たとえばこの授業で咳の止まらない人がいたとします。私が担当の教員として言うのは、たとえばマスクをしていない場合は「マスをしてください」とは言いますが、「咳をしないで」とは言いません。それは場を共有している以上、引き受けなければならないことだと考えるからです。立場はいつでも逆転します。私たちはいつ同じ立場になるかわかりません。その意味でこの議員の発言が気になりますし、たぶんそれは単なる「咳」に対する不寛容さだけではなかったのではないでしょうか。

 

◆ のど飴禁止!とルールに明記しておけばいい?
次に「議会のルールとしてちゃんと決めておくべき」という意見もありました。これも考えてみてください。議会の規則に「のど飴禁止」とあったらどうでしょうか。昨年、一昨年と全国の地方都市の議員が覚せい剤所持、使用で逮捕されるという事件がありました。でもどこの議会も「覚せい剤の使用禁止」といいう規則は決めていません。あたりまえですね。そんなことをしたら、あれもダメこれもダメとたくさん羅列することになってしまいます。禁止事項を全て明記せずに「品位」ぐらいにしておくのが一般的なのではないでしょうか(覚せい剤は品位以前の問題ですが)。


◆ 手続き論と本質論
「許可を得る」と「ルール明示」、ふたつの意見が正しそうに見えることがあります。しかしこれらは本質論ではありません。いわば手続き論なんですね。ではこの問題、手続きが間違っていたという問題なのでしょうか。
手続き論は一見、客観的に問題を捉えているかのように見えますが、そこにはその人自身のこの問題への判断、自分であったならどうするかという当事者としての視点は抜け落ちています。私は物事の是非を判断するときに忘れてならないのは“当事者性”だと考えています。自分をその立場に置き換えて物事を考えてみることです。
この場合、多数派の議員の立場に身を置くか、緒方さんの立場に身を置くか、そこから「どうしてこんなことになったのか」を考えてみることが重要です。
◆品位を保つべき「神聖な場」とはどこだ?
では次に当事者性という点からすると「議会の品位」という点に言及してみましょう。緒方さん以外の議員の人たちは、たとえば共産党(多数派の自民党ではなく)の女性の市議の方が「のど飴を口にしての発言は神聖な議会の品位を汚す」といった意味のことをテレビで言っているのを聞きました。
まず議会を神聖な場だと主張する点ですが、言葉の使い方として私には違和感があります。「神聖」というのは、「尊くておかしがたいこと。清浄でけがれがないこと。特に、宗教・信仰の対象などとして、日常の事柄や事物とは区別して扱われるべき特別の尊い価値をもっていること」という意味でつかわれる言葉です。
一方、議会というのは、互いの政治的な考え方のぶつかり合う場であると同時に、民主主義のルールに則って運営される公的な議論と決定の場であると私は考えます。住民にとって大事なことを決定する「公けの場」ということを思い切り強調すると「神聖な場」ということになってしまうのかもしれませんが、もっと普通に市民が関われる場と考えていいのではないかと思います。
余談ですが、土俵や道場、教室、グランド、仕事場などにも「神聖」という言葉を付して語る人たちもいます。なんでも「神聖」と言えばいいというものではありませんね。これらの使い方は、それぞれの場が「公的な場」「自分を磨く場」「闘いの場」であって「私的な場」ではないということを強調するだけでなく、そこで行われることの精神性を強調しているように思われます(「神」を出すところが日本的と言えば日本的ですね。道場などに神棚が飾ってあったりしますが、日本では至る所に神様がいます。台所にだってお札が貼ってありますが、台所は神聖な場所だからと一般家庭では言いません)。

◆のど飴は品位を汚す行為か?
次に「品位」についてですが、これが一番難しい。この点を鋭く指摘している人が何人もいました。
品位とは「人や物に備わっている上品さ、気高さ」のこと。わかるような気もしますが、非常に抽象的な言葉です。この言葉、「品位を保つ」というケースより「品位がない、品位を汚す」という否定的なフレーズとして使われることが多いように思われます。
では、一般的に「品位を汚す」行為というものが議会に存在するとしたら、それはどういうものでしょうか。
たとえば聞かれたことにきちんと答えずにごまかしの答弁を延々と続けるとか、特定の生徒や個人に対して根拠のない誹謗中傷を続けるとか、そういうことですね。この一年、国会でのモリカケ問題や自衛隊日報問題、大臣のセクハラや収賄事件などでかなり「品位」を欠くものが多かったのでわかりやすいと思います。
今回、熊本市議会の緒方さんを除く前議員は、緒方さんののど飴を口にした行為を「品位を欠く」としたわけですが、私など一般市民からすれば、議員の行為として居眠りや下品なヤジ、恣意的な欠席と比べてみたらどうなの?と思ってしまいます。
のど飴を口にするという行為に対して『いかがなものか』と感じる人たちがいることは理解できます。でも多くの議員たちは緒方さんがのど飴を口にしていることに気がつかなかった、誰かの指摘を受けて議長が確認、緒方さんが認めたため、出席者に伝わったということですね。それも「咳を止める」という理由で口にしたもの。それは「品位に欠ける」とまではとても言えない行為であると私は考えます。
それよりも品位という点では、緒方さんがのど飴を口にしていることが分かった時点で、鬼の首でもとったかのように「暫時休会だ!」といった怒号が浴びせられる異常さ、それにさして深く考えることなく乗ってしまう見識のなさ、陳謝の文章を強制しようとするやりかたのおかしさ、それに対してだれ一人異議を唱えず8時間も議会を止めてしまうでたらめさ(のど飴で止められた8時間は、当然事務局の人たちの超過勤務手当に始まって議員の報酬、多額の諸経費が掛かっています。それらすべてが税金で賄われる)こそ、私にはこれ以上ないほどの低劣な「品位」に思えます。
しかし、品位を汚したかどうかは議会では多数決で決まります。どんなひどい行為も、多数が「問題なし」とすれば問題ではなくなります。これも国会を見ているとよくわかります。社会は矛盾と不条理に満ちているものです。

 

◆当事者の視点を忘れずに
緒方さんは、子どもを育てる女性が議会で普通に活動ができることを求めていました。何度か議会に申し入れをしても容れられず、昨年11月に「強行突破」して問題提起をしました。女性が活躍する社会を標榜する現在の政権からすれば、非常に重要な提起であったのですが、それを主張する自民党市議団を中心にすべての党派がこの提起を敵視し、子連れでの議会出席が出来ないような決定を行いました。昨今の政界の潮流からしても、これがどれほど流れに逆行するものかは、2講での資料でもわかりましたね。
以下、私の推測に過ぎませんが、一種のムラ社会である熊本市議会は、会派のない個人で原則的な問題提起をする緒方さんが煙たくて仕方がなかったのでしょう。彼女を通じてさまざまな請願が出されることも面白くなかった。なんとかして彼女をぎゃふんと言わせたい、とっちめてやりたいものだという空気が、議会の中に充満していたのではないでしょうか。だから「暫時休会だ!」に一も二もなく乗ってしまったのでしょう。 
 しかし、緒方さんは陳謝の強制にも応じない。議会は振り上げたこぶしの落としどころがない。なにがなんでもつぶすしかない。それならば出席停止だということに。残念で仕方がありません。これは言論の府である議会が、自ら言論を封殺する行為に走ったということですから。
 議会だけでなく、職場でも地域でもこうしたことは珍しくありません。少数派がいつも正しいということはありませんが、少数派の主張に真実が隠されていることが少なくありません。だからこそ民主主義の原則として、少数意見の尊重ということがあるわけです。
繰り返しますが、私には熊本市議会が全会一致で緒方さんの出席停止を決定したという点が気になります。誰一人、「おかしいじゃないか」という人がいなかったのか。
皆さんが職場、とりわけ学校で働くことになったとき、学校はまだわずかですが議論するという文化が残っていますから、こういう場面に出くわさないとも限りません。その時、手続き論に終始せず、当事者として考え、発言する視点、スタイルを忘れないでほしいと思います。
以上、長くなりましたが、のど飴問題の私的見解でした。

 

 

 

 

『判決 二つの希望』こうしたエンターテイメントの結末を用意してもなおレバノンを描くことは容易ではなかったということ。レバノンでつくられる映画は年に7本ほどだ。

    レバノンの映画をみたのはたぶん初めてのことだ。スクリーンからベイルートの街並みとそこに暮らす人々の体温が伝わってくるようだ。不穏でどこかきな臭い空気の中に、些細な諍いが持ち上がる。

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判決、ふたつの希望』(2017年・レバノン・フランス・原題:L'INSULTE/THE INSULT(侮辱)・監督ジアド・ドゥエイリ


 ジアド・ドゥエイリは、レバノン出身。1975年に始まるレバノン内戦(第五次中東戦争)のさなかに映画を勉強するためにアメリカにわたっている。タランティーノの助監督のようなことをやっていた人。
 母国のありようを映画の題材として選ぶというところに生真面目さも漂うが、映画そのものは非常に分かりやすいエンターテイメントの構図でつくられていて、複雑な知識がなくても十分に楽しめる。

 

 私自身、レバノンといえば、中東の小国としてシリア、イスラエルパレスチナ、ヨルダンの間で政治的、民族的、宗教的に複雑な関係の中にある国というイメージ程度の知識しか持ちあわせず、映画の中でフランス語が聞こえて、ああそういえば第二次大戦終了までフランスの統治下にあったんだと思いあたったくらいだ。

 


 映画はおなかの大きい妻とトニーの会話から始まる。もっと静かなところで暮らしたいという妻、せっかくこのマンションを手に入れたのだからここで暮らすんだというトニー。よくある夫婦の言い合いだ。


 マンションの外では工事が行われていて、2階に住むトニーがベランダから流した水が排水管が壊れていて、作業員にかかってしまう。現場監督のヤーセルはトニーの家を訪れ、排水管を直したいと告げるが、トニーは水がかかったことを謝りもせず、これを拒否。するとヤーセルは独断で外側から壊れた排水管を撤去して新たに樋を設置する。それに気がついたトニー、ハンマーをもって家の中からこの樋をこわしてしまう。ヤーセルは憤懣やるかたなく、トニーに対して「くず野郎!」(字幕では確かこうあった。政治的なものではないようだ)と暴言を吐く。これが「きっかけ」である。


 トニーはレバノン人でキリスト教徒、反パレスチナ難民の右派政党を支持している。冒頭に集会に参加するトニーが描かれる。一方ヤーセルはパレスチナ難民で難民キャンプに住んでいる。といってもテントではなくしっかりした住居に住んでいるようであり、ベイルートに長く住んでいることがわかる。工事現場の監督として有能だが、違法就労のようで安い賃金で働かされている。妻と住んでいる。


 レバノンパレスチナ難民を受けれているが、レバノン人は自分たちの仕事が奪われてしまうこと、特にキリスト教徒はムスリムたちを毛嫌いする。ヤーセルは弱い立場でありながらもプライド高く生きている。これは現在のシリア難民のヨーロッパでのありように酷似している。

 

 暴言に対して執拗に謝罪を求めるトニー、違法就労の露見を恐れる上司はヤーセルを説得、ヤーセルは上司とともに、渋々トニーの仕事場を訪れる。トニーの仕事場は自動車修理工場で右派政党の党首の演説が流れている。とても謝れる雰囲気ではない。トニーはトニーで「シャロンに殺されればよかった」と挑発的な発言。ヤーセルは我慢ならずトニーの腹部を殴ってしまう。トニーはろっ骨を二本骨折、入院することに。

 

 シャロンイスラエルの元大統領、パレスチナ弾圧をもっとも過激に行った人物だ。パレスチナ人であるヤーセルからすればこの暴言は許せない。二人の関係は膠着状態となり、トニーは裁判に訴えることに。

 

 ここまでトニーは、ヘイト発言を平気でする国粋主義者といった形で描かれる。観客からすればトニーのやっていることは道理に合わず、殴ったことを別にすればヤーセルのかたをもつのが人情というもの。国際的にもパレスチナへの同情と共感は強いものがあるし、アメリカの支援を受ける軍事国家イスラエルへの反感もある。トニーはそれも面白くない。レバノン人のひとつの典型がトニーに表れている。

 

 裁判は、被告であるヤーセルが檻の中に入れられ出廷、裁判長は双方の主張を聞こうとする。まずトニーに対して「どんな暴言を吐いたのか」を問う。トニーは「ヤーセルに聞いてほしい」と答える。だがヤーセルは答えない。「殴ったのは自分だし、有罪で結構だ」。
 裁判長は、この暴行事件の裏に民族や宗教の問題があることを指摘、そもそもの配水管事件がトニーのパレスチナ人に対する差別意識によるものだと結論付け、ヤーセルに無罪を言い渡す。

 

 憤懣やるかたないトニーはあらたに右派系の老弁護士を立てて、控訴審を闘うことに。ここからがこの映画の佳境。これ以上はネタバレはしない・・・できるだけ。

 

 ふたりの間で起こった些細な出来事が、マスコミによっておおきく取り上げられていく。街ではイスラム教徒のパレスチナ人とキリスト教徒のレバノン人の対立があちこちで持ち上がる。暴動も起こる。まるでトニーとヤーセルは二つの陣地の代理戦争を戦っているようなものだ。

 レバノン大統領まで出てきて二人の間に入り、調停をしようとするも意固地になった二人は受け入れない。

このまま一気に終盤に向かうかにみえるが、構造的には単純ともいえるこの映画に、人間の豊かさ深さのようなものを感じさせてくれるのは、トニーの身重の妻、ヤーセルの妻、控訴審の女性の裁判長、そしてトニーを弁護する女性の弁護士という4人の女性の揺れ動く表情に由来する。いずれも男の建前優先の主張に対して、本音を前面に出して男をいさめる。味わいがある。

f:id:keisuke42001:20181016095026j:plain前列左から弁護士、トニー、妻


 さて、トニーのヤーセルへの激しい憎悪の根源が法廷で明らかになる。突然老弁護士が、或るフィルムを上映したいと申し出る。そこに写し出されたのはダム―ルの虐殺と呼ばれるレバノン内戦時代に起きたパレスチナ人による(といわれるが不明)蛮行の実態。トニーはこの虐殺の被害者だった。


 トニーは上映に激しく衝撃を受け、父親とともに法廷の外に出るが、なぜトニーがこのことを隠そうとするのかが、実はよくわからない。政治的な活動を避けて、このことには触れたくないというのならわかるが、反パレスチナ難民という立場を明確にし、政治活動もしていながら、その根拠となるところを秘匿する、よくわからない。

 

 後半の老弁護士と女性弁護士(実はこの二人は親子、ここにも物語のたねがあるのだが)、裁判長、言葉を発しないトニーとヤーセルの表情、惹きつけられるシーンである。老弁護士の主張もどんどんよれていくのもやや違和感。どっちを弁護しているのか、というトニーの表情。主張は女性弁護士と通じるようなところも。私にはこのへん、よくわからなかった。

そして判決。二人の間で争いは終わるが…。

 


 この映画、原題は「侮辱」なのに邦題では「二つの希望」が付け加えられた。

邦題を考えた人にはある「解釈」があるのだろう。


 それに呼応するシーンがあちこちにはめ込まれている。

 一審判決後、裁判所を出るときに二人の間に緊張がほどけるささやかな出来事が起きる。これが1つ。

 2つめはヤーセルがトニーの工場を訪れ、トニーに対して今までのヤーセルには考えられないようなトニーを誹謗する言葉を吐く。トニーは我慢がならずヤーセルの腹部を殴りつける。苦しそうに去っていくヤーセルは「悪かった」とひとこと。

 3つめが、再度無罪の判決が出て、裁判所を去る二人が遠くから視線を交わすシーン。

 

 どれほど歴史的、民族的、宗教的な根深い対立があろうとも、人間の深部には人を許し、わかり合える部分があるのだというメッセージだろうか。このメッセージを受け取って、スクリーンのこちら側の観客はほっと胸をなでおろす。静かな感動が胸に広がるということになる。


 これってやっぱり思考停止なんだろうなと思う。こんなふうに分かり合えることもないとは言わないけれど、街に広がった対立はそう簡単には消えないし、この後も世界のパレスチナいじめは続き、あちこちでパレスチナ難民は差別され続けるのだろう。歴史上繰り広げられてきた対立は、トニーのように何かきっかけがあればいつでも攻撃的なものを生み出す。それはヤーセルも同じこと。


 トニーとヤーセルの関係の変化は長い歴史がたどり着いた場所の幸福なメタファーではなく、万に一つの僥倖である。この対立は、今では欧州の問題であり、難民問題に安閑としてきた日本の問題でもある。おりしも日本は、外国人労働者の受け入れを広げざるを得ない時期に差し掛かっている。世界に広がる移民難民問題を、日本は近代化以降初めて経験することになる。すでに地域によっては始まっているこの問題、対岸の火事ではもうすまされないところまで来ている。


 この映画の公開にあたって、レバノン政府はかなり難色を示したという。「この映画は監督個人の考え方に沿ってつくられたもの」というクレジットを入れることで公開が決まったそうだ。それまで6か月かかったという。

 こうしたエンターテイメントの結末を用意してもなおレバノンを描くことは容易ではなかったということ。レバノンでつくられる映画は年に7本ほどだ。

 

 

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庭のナツハゼが紅葉しました(本文とは何の関係もありません)