『判決 二つの希望』こうしたエンターテイメントの結末を用意してもなおレバノンを描くことは容易ではなかったということ。レバノンでつくられる映画は年に7本ほどだ。

    レバノンの映画をみたのはたぶん初めてのことだ。スクリーンからベイルートの街並みとそこに暮らす人々の体温が伝わってくるようだ。不穏でどこかきな臭い空気の中に、些細な諍いが持ち上がる。

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判決、ふたつの希望』(2017年・レバノン・フランス・原題:L'INSULTE/THE INSULT(侮辱)・監督ジアド・ドゥエイリ


 ジアド・ドゥエイリは、レバノン出身。1975年に始まるレバノン内戦(第五次中東戦争)のさなかに映画を勉強するためにアメリカにわたっている。タランティーノの助監督のようなことをやっていた人。
 母国のありようを映画の題材として選ぶというところに生真面目さも漂うが、映画そのものは非常に分かりやすいエンターテイメントの構図でつくられていて、複雑な知識がなくても十分に楽しめる。

 

 私自身、レバノンといえば、中東の小国としてシリア、イスラエルパレスチナ、ヨルダンの間で政治的、民族的、宗教的に複雑な関係の中にある国というイメージ程度の知識しか持ちあわせず、映画の中でフランス語が聞こえて、ああそういえば第二次大戦終了までフランスの統治下にあったんだと思いあたったくらいだ。

 


 映画はおなかの大きい妻とトニーの会話から始まる。もっと静かなところで暮らしたいという妻、せっかくこのマンションを手に入れたのだからここで暮らすんだというトニー。よくある夫婦の言い合いだ。


 マンションの外では工事が行われていて、2階に住むトニーがベランダから流した水が排水管が壊れていて、作業員にかかってしまう。現場監督のヤーセルはトニーの家を訪れ、排水管を直したいと告げるが、トニーは水がかかったことを謝りもせず、これを拒否。するとヤーセルは独断で外側から壊れた排水管を撤去して新たに樋を設置する。それに気がついたトニー、ハンマーをもって家の中からこの樋をこわしてしまう。ヤーセルは憤懣やるかたなく、トニーに対して「くず野郎!」(字幕では確かこうあった。政治的なものではないようだ)と暴言を吐く。これが「きっかけ」である。


 トニーはレバノン人でキリスト教徒、反パレスチナ難民の右派政党を支持している。冒頭に集会に参加するトニーが描かれる。一方ヤーセルはパレスチナ難民で難民キャンプに住んでいる。といってもテントではなくしっかりした住居に住んでいるようであり、ベイルートに長く住んでいることがわかる。工事現場の監督として有能だが、違法就労のようで安い賃金で働かされている。妻と住んでいる。


 レバノンパレスチナ難民を受けれているが、レバノン人は自分たちの仕事が奪われてしまうこと、特にキリスト教徒はムスリムたちを毛嫌いする。ヤーセルは弱い立場でありながらもプライド高く生きている。これは現在のシリア難民のヨーロッパでのありように酷似している。

 

 暴言に対して執拗に謝罪を求めるトニー、違法就労の露見を恐れる上司はヤーセルを説得、ヤーセルは上司とともに、渋々トニーの仕事場を訪れる。トニーの仕事場は自動車修理工場で右派政党の党首の演説が流れている。とても謝れる雰囲気ではない。トニーはトニーで「シャロンに殺されればよかった」と挑発的な発言。ヤーセルは我慢ならずトニーの腹部を殴ってしまう。トニーはろっ骨を二本骨折、入院することに。

 

 シャロンイスラエルの元大統領、パレスチナ弾圧をもっとも過激に行った人物だ。パレスチナ人であるヤーセルからすればこの暴言は許せない。二人の関係は膠着状態となり、トニーは裁判に訴えることに。

 

 ここまでトニーは、ヘイト発言を平気でする国粋主義者といった形で描かれる。観客からすればトニーのやっていることは道理に合わず、殴ったことを別にすればヤーセルのかたをもつのが人情というもの。国際的にもパレスチナへの同情と共感は強いものがあるし、アメリカの支援を受ける軍事国家イスラエルへの反感もある。トニーはそれも面白くない。レバノン人のひとつの典型がトニーに表れている。

 

 裁判は、被告であるヤーセルが檻の中に入れられ出廷、裁判長は双方の主張を聞こうとする。まずトニーに対して「どんな暴言を吐いたのか」を問う。トニーは「ヤーセルに聞いてほしい」と答える。だがヤーセルは答えない。「殴ったのは自分だし、有罪で結構だ」。
 裁判長は、この暴行事件の裏に民族や宗教の問題があることを指摘、そもそもの配水管事件がトニーのパレスチナ人に対する差別意識によるものだと結論付け、ヤーセルに無罪を言い渡す。

 

 憤懣やるかたないトニーはあらたに右派系の老弁護士を立てて、控訴審を闘うことに。ここからがこの映画の佳境。これ以上はネタバレはしない・・・できるだけ。

 

 ふたりの間で起こった些細な出来事が、マスコミによっておおきく取り上げられていく。街ではイスラム教徒のパレスチナ人とキリスト教徒のレバノン人の対立があちこちで持ち上がる。暴動も起こる。まるでトニーとヤーセルは二つの陣地の代理戦争を戦っているようなものだ。

 レバノン大統領まで出てきて二人の間に入り、調停をしようとするも意固地になった二人は受け入れない。

このまま一気に終盤に向かうかにみえるが、構造的には単純ともいえるこの映画に、人間の豊かさ深さのようなものを感じさせてくれるのは、トニーの身重の妻、ヤーセルの妻、控訴審の女性の裁判長、そしてトニーを弁護する女性の弁護士という4人の女性の揺れ動く表情に由来する。いずれも男の建前優先の主張に対して、本音を前面に出して男をいさめる。味わいがある。

f:id:keisuke42001:20181016095026j:plain前列左から弁護士、トニー、妻


 さて、トニーのヤーセルへの激しい憎悪の根源が法廷で明らかになる。突然老弁護士が、或るフィルムを上映したいと申し出る。そこに写し出されたのはダム―ルの虐殺と呼ばれるレバノン内戦時代に起きたパレスチナ人による(といわれるが不明)蛮行の実態。トニーはこの虐殺の被害者だった。


 トニーは上映に激しく衝撃を受け、父親とともに法廷の外に出るが、なぜトニーがこのことを隠そうとするのかが、実はよくわからない。政治的な活動を避けて、このことには触れたくないというのならわかるが、反パレスチナ難民という立場を明確にし、政治活動もしていながら、その根拠となるところを秘匿する、よくわからない。

 

 後半の老弁護士と女性弁護士(実はこの二人は親子、ここにも物語のたねがあるのだが)、裁判長、言葉を発しないトニーとヤーセルの表情、惹きつけられるシーンである。老弁護士の主張もどんどんよれていくのもやや違和感。どっちを弁護しているのか、というトニーの表情。主張は女性弁護士と通じるようなところも。私にはこのへん、よくわからなかった。

そして判決。二人の間で争いは終わるが…。

 


 この映画、原題は「侮辱」なのに邦題では「二つの希望」が付け加えられた。

邦題を考えた人にはある「解釈」があるのだろう。


 それに呼応するシーンがあちこちにはめ込まれている。

 一審判決後、裁判所を出るときに二人の間に緊張がほどけるささやかな出来事が起きる。これが1つ。

 2つめはヤーセルがトニーの工場を訪れ、トニーに対して今までのヤーセルには考えられないようなトニーを誹謗する言葉を吐く。トニーは我慢がならずヤーセルの腹部を殴りつける。苦しそうに去っていくヤーセルは「悪かった」とひとこと。

 3つめが、再度無罪の判決が出て、裁判所を去る二人が遠くから視線を交わすシーン。

 

 どれほど歴史的、民族的、宗教的な根深い対立があろうとも、人間の深部には人を許し、わかり合える部分があるのだというメッセージだろうか。このメッセージを受け取って、スクリーンのこちら側の観客はほっと胸をなでおろす。静かな感動が胸に広がるということになる。


 これってやっぱり思考停止なんだろうなと思う。こんなふうに分かり合えることもないとは言わないけれど、街に広がった対立はそう簡単には消えないし、この後も世界のパレスチナいじめは続き、あちこちでパレスチナ難民は差別され続けるのだろう。歴史上繰り広げられてきた対立は、トニーのように何かきっかけがあればいつでも攻撃的なものを生み出す。それはヤーセルも同じこと。


 トニーとヤーセルの関係の変化は長い歴史がたどり着いた場所の幸福なメタファーではなく、万に一つの僥倖である。この対立は、今では欧州の問題であり、難民問題に安閑としてきた日本の問題でもある。おりしも日本は、外国人労働者の受け入れを広げざるを得ない時期に差し掛かっている。世界に広がる移民難民問題を、日本は近代化以降初めて経験することになる。すでに地域によっては始まっているこの問題、対岸の火事ではもうすまされないところまで来ている。


 この映画の公開にあたって、レバノン政府はかなり難色を示したという。「この映画は監督個人の考え方に沿ってつくられたもの」というクレジットを入れることで公開が決まったそうだ。それまで6か月かかったという。

 こうしたエンターテイメントの結末を用意してもなおレバノンを描くことは容易ではなかったということ。レバノンでつくられる映画は年に7本ほどだ。

 

 

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庭のナツハゼが紅葉しました(本文とは何の関係もありません)