横浜市教委のわいせつ教員の公判傍聴への職員動員問題、笑ってしまうほど稚拙で非常識なものだが、昨日の教育委員会議の議題に事務局からまたまた恥の上塗り、責任逃れのような文章が出た。
「公判への職員の傍聴呼びかけと今後の対応について」。
新聞ではすでに教職員人事部長と教育長が相談して動員を決めたとあったが、このタイトルでは「呼びかけ」はしたけれど、傍聴するかどうかは職員が決めたこととなってしまう。
出張命令が出ていたことも、旅費も出ていたことも報道されているのに。
それにしてもだ、何が酷いって
教育長の取り巻きの幹部たちは誰一人「まずいんじゃないですか」とは言わなかった。のべ500人という職員、多くは教員上がりの指導主事と想像するが、彼らもまた傍聴席に坐ってなんの疑問も持たなかった。
いやおかしいと思った人はいたはずだ。しかし思ってもそれを口に出す「文化」が、この組織には基本的に欠落しているということだ。
私は教員歴のほとんどを少数組合の役員として過ごしてきた。市教委と交渉を持った回数は数えきれない。
事なかれの「文化」に辟易したものだが、何も変わっていないどころか、これほど腐っているのには驚きを通り越して呆れてしまうばかりだ。
件の村上教職員人事部長は、90年代、教職員課のヒラの職員として何度も言葉を交わしたことがある。
上司が苦虫を噛み潰したような顔で私たちに対峙するのに対し、彼は案外気楽にわからないことを聞いてきたり、夜間学級の環境問題が交渉事項だったときには、「夜間学級のことを教えてほしい」などと言っていた人物。
00年代になると、いつの間にか課長になっていて、雰囲気が変わってきた。
退職強要問題(新採用教員がうつで療養休暇をとったときに、市教委と校長が依願退職を迫った問題。交渉や弁護士も入れていろいろと手を打った結果、市教委は強行せず本人は退職せずに済んだ。そこから反転攻勢、校長と市教委を相手に損害賠償請求訴訟を起こし、3年ほどかけて地裁で勝訴、わずかだが賠償金をとったことがある。
彼は、このときにはもう一丁前の役人になっていて、こちらの要求をのらりくらり交わすようになっていた。ただ、図星のことを言われると表情が変わるという「弱点」があったが。
そして順調に出世して教職員人事部長になった。課長まではなんとかなれるが、部長職はそうそうなれるものではない。何しろ市教委の中で部長と名のつく人間は5人しかいない。ヒラからずっと教育委員会にいたわけだから、いわば「生え抜き」。そこまで上り詰めたところで、この恥ずかしい不祥事。
今まで何をやってきたのか。役人としてのセンスを磨くことはなかったのか。
「被害者を守るために」という言い訳をテレビのインタビューで言っていたが、これを真に受けるわけにはいかない。すでに報道で言われるように、被害者の人権については裁判所がかなり真剣に取り組んでいる。
要は、わいせつ教員の裁判を報道させたくなかったということではないか。
横浜では、校長室で児童にわいせつ行為に及んだ校長や、フィリピンに通いづめで、少女たちにわいせつ行為を繰り返し、詳細な写真の記録を持っていた校長など、恥ずかしいこと限りない人がいろいろいるのである。
その人たちを校長にしてきたのが、教職員人事部だ。
何かと取り上げられれば仕事がやりにくいとばかりに、職員を動員して報道陣が傍聴席に入れないように画策したというのが本当のところではないか。
職員に渡していたメモも公表されている。
・集団で来たことがわからないように裁判所前での待ち合わせは避ける。
・10時15分には傍聴室前の廊下に静かに並んでください。
・ドアが開いたら入室し、1番前の列から座り、席を埋めてください。
・裁判所やその近くで、被害者名や学校名などの口外は避けて下さい。
などなどコソコソコソコソ姑息極まりない。
悪質だと思うのは、一番前の列から席を埋めろという指示。
かつて沖縄であった日の丸焼却裁判の時は、暴力団関係者が座席一つおきに座っていたことがあった。私が坐ったときには前後、両側がやっちゃんたちだった。
その彼らだって、どんなに威圧的であっても、全部の席を埋めるなんてことはしなかった。
教職員人事部長が相談したとうの教育長はついこの間退職してしまった。
先日、話題となった中2「いじめ」自殺事案の報告書がなぜか3年半もたってから公表され、10年間に41人もの自殺事案があったことも明らかになった。
何かとお騒がせな横浜市教委。いったいこのあとどこに向かっていくのだろうか。