『あしたの少女』(2023年8月25日公開)韓国社会の歴史と政治の歪みを、2人の女性の視点から痛烈に指弾している。しかし、同時にスクリーンから感じられるのは、立場も性格も全く違う2人の女性の間に流れる「私たちは繋がっている!」という叫びのような痛苦だ。

映画備忘録

この映画を見たのは8月31日。1週間前のことになる。でも印象は強烈に残っている。

残念だったのは、封切りから1週間なのに客席がまばらだったこと。『福田村事件』は立錐の余地もないとか。比べても仕方ないけど。

 

『あしたの少女』(2022年/138分/韓国/原題:Next Sohee/監督:チョン・ジュリ

/出演:ペ・ドゥナ キム・シウン チョン・フェリン カン・ヒョンオ/日本公開2023年8月25日)

「私の少女」のチョン・ジュリ監督とペ・ドゥナが再タッグを組み、2017年に韓国で起こった実在の事件をモチーフに、ごく普通の少女が過酷な労働環境に疲れ果て自死へと追い込まれていく姿をリアルに描いた社会派ドラマ。

高校生のソヒは、担任教師から大手通信会社の下請けであるコールセンターを紹介され、実習生として働き始める。しかし会社は従業員同士の競争を煽り、契約書で保証されているはずの成果給も支払おうとしない。そんなある日、ソヒは指導役の若い男性が自死したことにショックを受け、神経をすり減らしていく。やがて、ソヒは真冬の貯水池で遺体となって発見される。捜査を開始した刑事ユジンはソヒを死に追いやった会社の労働環境を調べ、根深い問題をはらんだ真実に迫っていく。

ペ・ドゥナが刑事ユジンを演じ、少女ソヒ役には新進女優キム・シウンを抜てき。2022年・第23回東京フィルメックスコンペティション部門で審査員特別賞を受賞。

                       (映画.comから)

 

チョン・ジュリ監督2作目。見事な秀作。映画の可能性を探ろうとする意欲に溢れる作品。

主人公の女子高校生ソヒ(キム・シウン)の人物造形が素晴らしい。一女子高校生なのに、スッと入ってこない。振れ幅の大きい女子。よくわからない違和感。見る方の想像の枠を超えたソヒの設定が新鮮。新人とは思えない深みのある演技。

冒頭、ダンススタジオの大きなガラスミラーの前で、ダンス曲の一部をソヒが繰り返し練習するシーン。うまく決められず何度も転ぶが、めげずに踊り続けるソヒ。このシーンがラストシーンにつながっている。このダンスが、ソヒの生きる力のメタファーとなっているようだ。ラストシーンではっとさせられる。画像3

続いてSNSを駆使する友人と食堂で食事をするシーン。隣の席の男子が「投げ銭で金儲けをする連中」と揶揄するのにソヒは腹をたてる。我慢できずに男子たちに詰め寄り、「殴れるなら殴ってみろ」と啖呵を切るソヒ。

明るく気が短いけれど、人に対する思いの強さも併せもつ。そんなソヒの性格もまた、困難への布石。

そのソヒが通う学校は日本でいう職業高校。韓国では多くの高校生が、卒業前の数ヶ月間、実習生として企業の現場で働く。いわゆる試用期間、インターン制度のようだが、高校側はいかに多くの生徒を大企業、有名企業に実習生として入れ込み、そのまま就職させて、それを「実績」とする。このあたりは日本の高校と基本的に違う。なかなか理解できないところだ。

生徒自身の職業志向よりも「数字」が補助金額につながり、それが高校の存続につながる。学校自体が競争の中に置かれている。それを監督する教育庁も同様で、国からの補助金獲得が組織や雇用を維持するものであり、我が身を守らんがためにシステムとして高校生を抑圧し、実習生制度が温存されていく。もちろんそれが「生徒のため」だというわけだ。ちょっと信じられないのは、韓国の場合、こうしたシステムが緩みなく貫徹されてしまっていることだ。

斎藤真理子著の『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス刊)によれば、「現在、韓国では大学を出た人の2人に1人は非正規労働者として働いているという。高卒を含む15才〜29歳の若者の失業率は、10%(実質失業率に相当する体感失業率は20%)という高い数値だそうだ。

97年のIMF危機以降の韓国では、急激に構造改革規制緩和が進み、格差が拡大し、新自由主義的な自己責任論が跋扈し続けてきたのが現在の韓国。その激しさは日本の比ではないようだ。

こうした歴史的な背景の中にソヒがいる。

 

ソヒは、大企業(実際は違うのだが)への実習を担任から勧められ、嬉しくて新調したスーツを着て付き合っている男の子の働き先に出かける。2人を繋いでいるのはダンス。その場で踊る2人は幸せそのものだ。

しかし、大企業のはずの実習先は、ワンフロアに何十人も詰め込まれたコールセンター。この会社にはこうしたコールセンターが国内にいくつもあって、それぞれがせめぎ合っている。

オペレーターの業務内容は、客からの注文を受けることよりも、クレーム対応が中心で、解約を求める客を別の契約に誘導するのがメイン。この会社は毎年600人が採用され同じ数が辞めるという。実習生というシステムは、この企業にとって雇用確保と利潤追求にはまたとない便利で使い勝手の良いもの。

 

男性のチーム長は、クレーマーの言動にキレてしまうソヒを一度は叱責するが、会社のやり方に疑問を抱いていたことから、ソヒに寛容に振る舞うように。しかし会社の締め付けはこのリーダーに向けられ、リーダーは耐えられず、告発文を残して会社の敷地内で練炭自死してしまう。

会社は、告発文を握りつぶし、オペレーターたちに口止めをし誓約書にサインを求め、葬儀への列席も禁じてしまう。しかしソヒは単身葬儀に出かける。ソヒの中で何かが変化し始めている。画像7

 

新しいチーム長が着任すると、競争はさらに激しくなる。ソヒは懸命に成績をあげるが、実習生への成果給の支払いは数ヶ月後であることに激怒、リーダーに殴りかかってしまう。

貧しい両親に出社停止処分を告げられず、酒に溺れて手首を切り、彼に連絡するも「行けるかどうかわからない」というメールの返信に絶望し、居酒屋でビールを2本注文する。なぜ2本なのか。

引き戸から差し込む弱い西日が、ソヒの心中を表す。サンダルを履いたまま、ソヒは貯水池に向かって歩き始める。

ここまでが前半。

後半、刑事のユジン(ペ・ドゥナ)が登場。会社の悪辣さ、学校や教育庁の無責任さ、警察の忖度ぶりなどを次々に明らかにしていく。

もちろん、それらがソヒを死なせた元凶であることは間違いないのだが、行く先々で繰り返される都合のいい言い訳にユジンもまた絶望していく。会社の幹部を面罵し、高校の教頭に殴りかかり、そうしてユジンの心もソヒのように殺されていくようだ。

ラストシーンで、ユジンはソヒのケータイに残っていたダンスの練習シーンを見つける。ソヒはその中で何度も繰り返し練習していたシーンを、最後まで踊り切っていた。

 

こうして書いてしまうと、後半は前半の謎解きのように見えてしまうが、全く違う。

ここで大切と思われたのは、ソヒとユジンの間に流れる不思議な共感だ。ソヒの真から明るい真っ直ぐな性格とどこかほの暗さを秘めているユジン。しかし、スクリーンから感じられるのは、立場も性格も全く違う2人の女性の間に流れる「私たちは繋がっている!」という叫びのような痛苦だ。この痛苦がこの後半の中にずっと流れている通奏低音だ。

悪徳、ブラック企業のでたらめさや学校や教育庁の無責任さは、実は韓国社会が長い間うちに抱えてきた宿痾のようなもの。もちろん日本も例外ではないが、宿痾を抱えて立ち上がれない社会に対する2人の深い絶望感が、この映画の底にある。それはそのまま2014年に起きたセウォル号事件に象徴される韓国社会、政治に対して、俯きながら静かな抗議する映画だ。

この映画が契機となって、次のソヒ法という労働条件改善の動きがあったというが、映画が作られたのが2022年。2023年に何らかの政治的な動きがあったというのはやや早計に過ぎるのではないか。韓国現地の動きを知りたいものだ。画像12