『再び住んでみた中国 長春(旧新京)で日本語を教える』(1992年 現代書館)を読んでみた。

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三株目のアジサイ


旧作を読んだという話の二つ目。

 

昨年の12月、多田謡子人権賞の受賞(授賞ではなく)講演会に出席した話をこのブログに書いた。そのとき会場で販売されていた『北村小夜のことばと私たち―分ける教育と戦争―』(千書房 障害児を普通学級へ・全国連絡会 2019年)という本を購入した。

「分ける」ことを徹底批判し続けてきた北村さんが、その時々に発信したことばに触発された30余名の方々が寄稿してできた本である。

目次には北村さんの30のことばが並んでいる。それに対する思いがお一人2ページほどの分量で書かれている。

 

 「交流は交流でしかない」 

 「いっしょがいいならなぜ分けた」

 「戦争は教室から始まる」

 「足りないのは普通学級の包摂力です」

 「分けた側の不幸は計り知れません」

 「親に心配かけないのは、死んだ子だけ」

 「ひどい世の中に怒っているから年をとらない」 

 「わたしは中国人の髑髏を磨いていた」                                 

                          などなど

 

この本にA4一枚のプリントが挟まれていた。

そこには、

「出版されてもう一年、いろいろな声が聞こえてきました。その中には私がお答えしたほうが良いと思うものもありますので付け加えます。」

とある。末尾に北村小夜の署名と2020・12。

 

この本が出版されて1年、この会場で販売されるというので、北村さんが自らプリントをつくったようだ。自分の言葉について書かれた二つの文章に対し北村さんが答えている。

 

一つは第4話の

『親に心配かけないのは、死んだ子だけ』について。

これを書いたのは、京都府世話人の山口正和さん。

山口さんはこの言葉についてこんなふうに書いている。

 

 

 私でなく、知人が聞いたというまた聞きの言葉です。長男を19歳で亡くした私には、妙に心に残っています。私は勝手に自分の息子のことに当てはめて、自分なりの解釈をしていました。北村さんから直接聞いたわけではないので、ひょっとしたら違うかもしれません。本当はどういう意味か、ご本人に一度確かめてみたいです。

 

 

これについて北村さんはプリントの中で、こんなふうに答えている。

 

 

 人を介して山口さんの耳に届いたこの言葉は、親御さんたちがよくわが子の困りごとを自慢げに話されるのを聞いてしばしば私が言った言葉です。

 生きていれば人並み以上に苦労も葛藤もあったでしょうに二歳半で亡くなったわが子は、私の中で私の希望通りにすくすくと育ちますが、この世にはいません。言葉は生きているからこそ悩む幸せをうらやむ言葉ではありませんでした。

 

 

 

 子どもが生きているからこそ親は悩めるし、どんなにしんどい悩みであっても、子どもが死んでしまったら悩むことはできない。かといって子どもを失くした自分がそれをうらやんでなどいないと北村さんは云うのだ。

 

『親に心配かけないのは、死んだ子だけ』ということばから、「あなたは悩めるだけいいのよ。私なんか悩むことさえできないのだから」というメッセージを受け取ってほしくないということだ。

北村さんはなぜわざわざプリントをつくってまでして、そのことを書いておきたかったのか。

 

「わが子は、私の中で私の希望通りにすくすくと育ちます」

 

北村さんの中では「わが子」はまだ生きて育ち続けている。葛藤も苦労もなく育っている。わが子は生きているのだから、母親たちが悩みを語ることをうらやんだりしない。

 

「言葉は生きているからこそ悩む幸せをうらやむ言葉ではありませんでした。」

 

プリントをつくってまで北村さんが書かざるをえなかったこと。95歳になる北村さんの中で子どもはどこを歩いているのだろうか。痛切だと思う。

 

 

 

二つ目は第13話、『わたしは中国人の髑髏を磨いていた』について

プリントには

「もう一つは、第13話、片岡さんの「わたしは、中国人の髑髏を磨いていた』です。書くならもっと丁寧に書いてほしかったのですが、文中の「鉄嶺行き」は、1990~91、日本語教師として長春に滞在した記録『再び住んでみた中国』の中の次の一節です。』

とだけある。

 

第13話についての記述はこれだけである。裏面に「鉄嶺行き」の部分と思われる文章が印刷されている。

 

手書きで小さく

   

    北村小夜「再び住んでみた中国」一九九二 現代書館刊より

 

と書いてある。北村さんの字である。

 

引用してみる。

 

「鉄嶺行き」

 とりたてていわなかったけれど、中国に行くからには鉄嶺(テーリン)に行かなければという思いがあった。行き先に東北を希望したのも鉄嶺を考えてのことだった。

 

 私が第八九部隊と呼ばれた鉄嶺陸軍病院にいたのは一九四四年の十月から一年ばかりであった。

 そこは龍首・龍尾というなだらかな山の麓であった。龍の首のあたりに慈清寺があり、石の塔が聳えていた。尾のあたりにも少し小さめの塔があった。龍首山からは鉄嶺の町が一望できた。山の切れたところには遼河が悠々と流れていた。

 龍首山の登り口の右手のほうは墓地になっていて、いつも棺が散乱していた。きいたところでは近くにある思想犯の刑務所で亡くなった人々だということで、若い男性が多かった。棺が埋められると、まず近くの貧しい人が掘り出し衣服をはがした。次に野犬が来て肉を食いちぎっていた。

 その頃病院の中で、度胸を競うように軍医や衛生兵の間で頭蓋骨を所有することがはやった。なるべく完全な形の頭蓋骨をきれいに洗って磨きをかけて、机上に飾ったり菓子鉢にしたりしていた。生来弱虫の私はこんな時妙な力を発揮する。歯まできれいにそろったのを見つけ、苦労して胴体から離して持ち帰った。まだ肉がついていたので、屋外にかまどを築き、石油缶で煮て魚をむしるように箸でむしった。誰かがみりんにつけておいて磨くと古色が出るといったが、みりんが手に入らないので酒をひたした布でみがいた。

 毎晩それを枕元に置いて寝て、よくうなされもせず罰もあたらなかったものである。

 あれからもうすぐ五〇年になるが、どうもこのことが気になる。時代からいっても、場所からいっても、私の年齢からいってもほかにさまざまな事があった。恋もあれば、命をかけて抗議して死に損なった事件もあった。しかし、いまになってみると、このことに比べればみなたいしたことではない。

 死んでからまで私ごときに弄ばれなければならなかった人、一体あれはどんな人たちだったのだろうか。ほんとうに思想犯の刑務所があったのだろうか。あったとすればどのあたりだったのだろうか。当時の思想犯なら中国の解放をめざした人々に違いない。どんなふうにして裁かれたのであろうか。それは多分、なぜ私にそんなことができたかということと無関係ではないと思う。

 中国にいる間に何か手がかりを得たい。できれば私の思いをわかって同行してくれる人が得られれば鉄嶺に行ってみたいと思っていた。折にふれて学生や教師にそれとなく打診してみた。第二次世界大戦といえば即座に一九三七~一九四五と答える学生も、私に対して日本の侵略に言及することはほとんどない。彼らの興味は現在の日本の繁栄でしかないようにみえる。街で日本人とわかって声をかけてくる人も「満州国」時代を懐かしむ人ばかりである。

 そうこうしているうちに帰国する日が一か月に後に迫った。どうせ一度で済むことではないのだから、ともかく行ってみようと思い立ち、一九九一年六月八日学生二人を伴って出かけた。

 

 

プリントの引用はここまでである。このあとに何が書いてあるのか。

 

『再び住んでみた中国 長春(旧新京)で日本語を教える』(1992年 現代書館を図書館のHPで検索したが見つからない。アマゾンの古本で見つけ購入した。

 

プリントに印刷されていた部分は全文10ページのうち初めの2ページ分だということが分かった。

 

「鉄嶺行き」の残り8ページ分には、おおむね次のようなことが書いてあった(「 」は引用)。

 

 

鉄嶺に着いてまず山に登ってみる。登山口の門の鳥観図で二つの塔も寺も健在であることがわかる。しかし山から眺めた鉄嶺の街には往時の面影を残すものはなかった。

慈清寺に入ると、中国服の老人が話しかけてきた。「自分は奉天(現瀋陽)の砲兵隊の憲兵だった」という。仲間はみな殺されたが、自分はソ連が進駐してきたとき通訳をしたので、殺されずに済んだという。私(北村)は不愉快になって時間がないと言って寺を出た。

 

「学生は私が何をききたくて、何をききたくないのか解しかねたような顔をしてついてきた。」

 

寺を出てからもう少し聞けばよかったと後悔するが、

 

「『満州国』時代をなつかしむ態度を見せられると聞いていられなくなるのである。もしかしたら彼はそんなことではなく、ただ昔の話を聞いてもらいたかったのかもしれない。日本の老人と同じように。それに老人と書いたが彼は私よりわずか六歳年長の七十一歳であった。」

 

ソ連軍による武装解除を受けた日のことを思い出す。その日、

 

「聳える病院の煙突に秘かに登った。練兵場で将兵が(ソ連軍に)武器を渡す様子が手にとるようにみえた。ふと気がつくと、煙突の下には傷病兵や看護婦や軍属が集まっていた。私は一部始終を大声で伝えた。今その日を特定できないのだけれど、八月二十日すぎだったように思う。」

敗戦を知らされた時、私たちは

「なす術を知らなかった。私はまわりにある壊れるものを片っ端から壊した。」

 

鉄嶺の街のことはここまで。あとは帰途について。4時間乗った列車は140%~150%の込みよう。乗務警官4人は「乗警辨事処」から一度も出ず、アイスキャンデーを食べ弁当を食べビールを呑んでいる。

 

「この満員の列車の中でふと思ったことであるが、これらの警官の言動以外、私自身全く違和感をもたなかった、。/中国になれたのだろうか。」とまた50年前を思い出す。

かつては「満人専用列車」には乗ったことがなかった。それは

「外からみただけで汚く臭そうであった。」

「汚い、臭いというとき、ほんとうの汚さもあるが、思い込みというか、中国に対する根強い差別感もあると思う。私の場合慣れたという中には、中国に住み中国人と付き合う中で、その差別感がほんの少し薄らいだということかもしれない。」

 

『この差別感は、東北地方でいえば「満州国」時代に住んでいた人の中に強く残っているように思う。日本人だけの街をつくり、中国人に掃除を刺さてきれいに住んでいた人たちである。その人たちが「満州」を懐かしがってツアーを組んで訪れたりするが、風俗・習慣の違いを別にすれば総体としてきれいになっているのに、たいていは汚くなったという。彼らの住んでいた日本人街が、五〇年の歴史を経て汚れているのである。」

 

今でも排水溝の周辺はいつもゴミだらけ。

『冬はそっくり凍ってしまうし、夏は腐って臭うのでかなわない。」

 

終わりに遠山富太郎『杉のきた道』(中公新書)で引用された鯖田豊之氏の「文明の条件」から16世紀から18世紀にかけてのパリやロンドンの糞尿譚を引いて

「これも少しの違いでしかなさそうである。」

で終わっている。

 

このあと60ページほどあるが、髑髏にふれているところはない。

 

 

では、『北村小夜のことばと私たち』で片岡さんは何を書いたのか。北村さんは片岡さんの何をもってして「書くならもっと丁寧に書いてほしかったのですが」と書いたのか。

片岡さんの文章を引用してみる。

 

 北村さん自身が、幾つかの著書で明かしているように、皇軍従軍看護婦として大陸を経めぐり、毛の八路軍にも従ったという。その北村さんに、かつて一度は「造反有理」の原理に共感したかもしれない人たちが、「毛沢東語録」みたいな指導理念を求めているのだろうか?

 私の心の中に蹲っている冒頭の言葉は、しかしながら、岡村達夫と辛淑玉に公言することを止められたという。個人を揶揄するつもりはないが、ろくでもない話である。

 旗と歌に騙されたという北村さんが、教育の国家化に断然と抗する時、いかにして軍国少女が育まれるのか、むしろ銃後にこそ戦争が胚胎することを誰よりも深く顧み、自身をシバき続けてきたはずだ。「鉄嶺行き」の文章の中に一度だけ垣間見えた「中国人の頭蓋骨」は、時折引用される「骨のうたう」や「初年兵哀歌」の背後で、未だ口を塞がれているように思う。

 東亜支配の象徴的行為としてなのか、あるいは、戦地の日常の秘儀であったのか。無心に髑髏を磨く若い看護婦の姿は、私の想像空間のはるか上空に宙づりになったままである。

 自分の中のその凍結(思考停止?)を解放したい。

 大陸とこの島国とに、それ以降もたらされた現実は、裕仁と毛という同時代的存在の対置に拘わらず、大地から引きはがされた個の総動員体制(山之内靖)という点において、それほどの相違はない。

 嬉々として過ごそうと、ブツブツと拗ねようと、この日常的な抑圧に馴らされて生きる私たちが、髑髏を磨く少女を産み出していることを忘れてはならない。あたりまえに生きる闘いはつづいていく。(栃木県・世話人

 

1段落目は、北村さんを持ち上げて「語録」をつくり、指導理念のようなものを求めることのおかしさに言及している。『北村小夜の言葉と私たち』には、編集者の意図は別としてどこか「北村語録」のような権威づけが感じられるのも事実だ(1)。

第4話の山口さんも後段で、

 

亡くなったわけでもないのに『北村語録』だなんて、私たちはその本をもって交渉に臨むだろうか?とか思ったりしました。まさか赤い表紙ではないでしょうね?まあ若い人たちには「毛沢東語録」なんて見たこともないでしょうが、最初のページには「万国のプロレタリア団結せよ!」と書かれているそうです。北村語録の冒頭には何が書かれるのでしょうか?今は日教組手帳から消えてしまった「教師は労働者である」あたりかな?

 

と書いている。北村さんを持ち上げて権威化することに対しての批判が二人からなされているようだ。

 

 第二段落で「わたしは中国人の髑髏を磨いていた」という話を岡村達夫と辛淑玉の両氏が北村さんにこのことを公言することを止めたという話。揶揄するつもりはないと言いながら、片岡さんは二人をはっきりと揶揄している。

 すでに岡村さんは鬼籍に入られているが、常に少数派だった(と思う)岡村さんがそんなことを言うだろうか。そうは思えない。辛淑玉さんとは面識はないが、彼女の立場からしてそういう発言をするとも思えない。事実だとしたらどのような脈絡で話されたことなのかはっきりすべきだと思う(2)。

 

 片岡さんは、北村さんの親しい友人が「公言するな」とした中身を、37年後に『北村小夜のことば』として表に出すことで、北村さんを批判しているのだと思う。

北村さんの思想的運動的立場からすれば「髑髏を磨いた看護婦」が「いまだ口を塞がれている」として、北村さんが総括的なことばを提示していないことを批判している。

はたしてそうなのか(3)。

 そのうえで、第4段落で自身の推論を述べる。

「中国人の髑髏を磨く看護婦」は、①東亜支配の象徴的行為 ②戦地の日常の秘儀 か。

いずれにしても片岡さんの「想像空間のはるか上空」で宙づりになったままだと言う。

第五段落で片岡さんは

「自分の中のその凍結(思考停止)を解放したい。」と言う。

開放するのは誰なのか?片岡さん自身が「解放したい」がために、北村さんに「中国人の髑髏を磨いた」ことの総括=懺悔を求めているように見える。

第六段落では毛と裕仁は「同時代的存在の対置」に見えても実は「大地から引きはがされた個の総動員体制」としてはたいして違わないと言っている。これは北村さんが八路軍とともに行動したことへの批判なのか、日本の左翼への批判なのか、高所からの批判に思える。あなたの位置は?と訊きたい。(4)

 最後の段落。

「日常的な抑圧に馴らされて生きる私たちが、髑髏を磨く少女を産み出していることを忘れてはならない」

なぜ「私」ではなく、「私たち」なのだろうか。(5)私たちを括って代表してしまうのはおかしい。

「髑髏を磨く少女」という新しい概念は何だろうか(6)。「中国人の髑髏を磨く看護婦」の規定は片岡さんの中で明確になされているのだろう。それを明示すべき。

 

私には(1)~(6)の疑問がわいた。

 

片岡さんからすれば、「中国人の髑髏を磨いた看護婦」の総括抜きに、この本のように北村さんの思想やことばを軽々に持ち上げるべきではないということなのだろうか。

 

 片岡さんは、北村さんが『再び住んでみた中国』の「鉄嶺行き」の中で「一度だけ垣間見えた中国人の頭蓋骨」(片岡さん)が、その後どこにも見当たらず、37年後には『北村語録』のようなものがつくられることへの時代的な危機感のようなものがあったのだと思う。が、しかし北村さんは38年後にわざわざ自分でその部分を印刷をして公表、多くを語らないで「書くならもっと丁寧に書いてほしかったのですが、」としたのだ。

 

このプリントには片岡さんが求めている(と思われる)総括=懺悔は書かれていない。

しかし、「鉄嶺行き」をつぶさに読むと、私には「中国人の頭蓋骨」に対する北村さんの悔悟の深さが読み取れるような気がしている。

 

人間の行動には、時間が経てばその時の脈絡が見えなくなることがある。

あとになってみれば、なぜあんなことをしてしまったのかと悔いに悔いたとしても、その瞬間にはそれのどこがおかしいのか、いっさい思いの至らないこともある。

 

北村さんは、「鉄嶺行き」の冒頭で、

「取り立てて言わなかったけれど、中国に行くからには鉄嶺に行かなければという思いがあった。行き先に東北を希望したのも鉄嶺を考えてのことだった。」

と書く。65歳になり、日本語教師として再び中国に住むことの最大の目的は「鉄嶺に行くこと」だった。北村さんは鉄嶺に行って「中国人の髑髏を磨いた」自身に向き合おうとしたのではない。45年もの間、じっと中国人の髑髏を磨いた自分を許してこなかったのだろう。

そうした思いは簡単に他人に伝えるもので、伝わるものでもない。

 「学生は私が何をききたくて、何をききたくないのか解しかねたような顔をしてついてきた。」

北村さんの思いは、

「死んでからまで私ごときに弄ばれなければならなかった人、一体あれはどんな人たちだったのだろうか。ほんとうに思想犯の刑務所があったのだろうか。あったとすればどのあたりだったのだろうか。当時の思想犯なら中国の解放をめざした人々に違いない。どんなふうにして裁かれたのであろうか。それは多分、なぜ私にそんなことができたかということと無関係ではないと思う。」

北村さんは実際に鉄嶺を訪れて、自分が何をきかねばならぬのかわからなかったのだ思う。

 

「『満州国』時代をなつかしむ態度を見せられると聞いていられなくなるのである」

 

は、他人に対する批判というより、自分の中にある満州国時代への懐かしさと悔悟のないまぜになった感情の中に、髑髏を磨く看護婦である自分が居座り続けていることへの忌避感ではないだろうか。

 

鉄嶺に来た。それでも去らない自分の中の「中国人の髑髏を磨いた」という皮膚感覚。

かんたんにことばにならないものが先にあって、鉄嶺の街を歩く。

 

どんな言葉をもってしても、自分の悔悟は消えることがない。だから安易に言葉にはしない。鉄嶺を訪れること、そして45年前の自分の行為をただただ忘れないこと。簡単に総括や懺悔などしてはならないと北村さんは考えたのではないか。

 

終戦となった時の北村さんの突飛な行動、そして八路軍との長い行軍、戦後教員となっての生活、労働、そして運動…。

どこから見ても強固な意志によって一貫した思想と行動を保持しているかに見える北村さんだが、事実を語っても内実が語れない、語らないことがある。

そこから伝わってくるものが確かにあると私は思う。

 

ひたすらに忘れないこと、思い続けること。今も北村さんはそうしているに違いない。