『黄落』(佐江衆一 1995年 新潮社)を読んでみた。

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二株目のアジサイ


古い小説が気になるときがある。

 

『黄落』(佐江衆一 1995年 新潮社)

 

昨秋、作者が新聞で亡くなったことを知った。タイトルだけ知っていて読んだことのない小説、『黄落』を読んでみたいと思った。

半年も経ってしまったが、先日、思い立って図書館をネットで検索。予約者は0。すぐに借りてきて読んでみた。

「黄落」とは木の葉や果実が黄色に色づいて落ちること。

 一晩で読み終わった。ある日を境に介護をひきうけていく夫婦。その中で浮き上がってくる老いてからの老親との感情のあや、何十年も連れ添った夫婦の間に吹く隙間風、還暦近い男の心のありよう。

 

妻のしんどさに寄り添うことができず、離婚を持ち出す夫。

 

 世間では老人介護で疲れた妻が離婚しているという。夫の年老いた両親と夫に愛想づかしをして、五十代の女たちが自立してゆく。みじめなのは男だが、仕方がないのだ。

              略

 私は妻を「嫁」から解き放っていやりたい。私の「妻」に戻ってほしい。それがだめなら、好きな仕事が自由にできる一人の「女」に戻していやりたい。

「おばあちゃまのオムツを、あなたが取り替えなさいよ」

「そんなことか。ああやるさ」

              略

「わかってないな。おれは君との離婚を言ってるんだ。オムツのことなんか・・・」

妻がさえぎった。

「あなたこそわかってないわ。私はあなたを責めているのじゃないのよ。おじいちゃまとおばあちゃまの世話をしなければならないなたを、責めてなんかいないわよ。あなたは卑怯よ。離婚なんて持ち出して・・・。」

 

決定的にすれ違う妻と夫の精神的な立ち位置。

夫がアタマの中で考える清算主義的なところと、地べたに足を突き立てて現実から考える妻の違い。

 

このあと夫が母親のオムツを換える。

この作家の書き手としてのすごさが迫ってくるシーンだ。

 

残された父親はまだらボケのような症状を呈しながら、施設で80歳の老女との付き合いをはじめ、俳句を作り、そして預金通帳を飽かず眺める。

 

父親に対する愛憎の中から初めて夫の中に訪れる「転機」。息子は父親を人知れず「老怪さん」と呼び始めたときだ。

夫のこのささやかな変化が出口のない暗渠のような介護に希望を与えている。