温又柔『魯肉飯のさえずり』を読む。「ことばがつうじるからってなにもかもわかりあえるわけじゃない」

f:id:keisuke42001:20210418115028j:plain

近所のお宅の柿の木の葉っぱ


『魯肉飯のさえずり』(温又柔(Wen Yuju)/2020年/中央公論社/267頁/1650円+税)

を読んだ。

温又柔は1980年台湾・台北生まれ。3歳の時に家族とともに東京に移住。台湾語交じりの中国語を話す両親のもとで育つ、と巻末にある。

 

小説のほうは、日本人の父親と台湾人の母親の間に生まれた桃嘉が主人公。

魯肉飯は台湾料理の定番、と言われる。

しかし小説のタイトルのルビは、一般的に言われる”ルーローファン”ではなく、”ロバプン”となっている。魯肉飯の台湾風の読み方。

 

日本で日本人として育った桃嘉は、就職活動がうまくいかない。そんな時、誰もがうらやむ聖司から求婚される。物語はここから始まる。

 

平穏な新婚生活の中で訪れる小さなずれ。自分の好物料理を知ってもらいたいと、母親直伝の台湾風豚肉煮込みご飯、魯肉飯をつくるが、聖司は「もっと当たり前の料理がいい」という。

小さなほつれから気持ちはすれ違い、聖司は浮気に走る。

どこまでも「かわいい妻」として桃嘉を遇する聖司は、つまるところ桃嘉を一人の女性としてみることはしない。桃嘉の働きたいという気持ちも、聖司には通じない。

 

一方に日本人と結婚した台湾人の母雪穂は台湾語と拙い日本語交じりの話し方をする。桃嘉は小さい頃からそれが嫌で雪穂に反発、外では日本語だけ話して!と雪穂に言ったこともある。

しかし両親の間にある親密なものは、今の桃嘉たちにはないものだ。

 

聖司の友人の集まりに出て感じる孤独。それは、雪穂が長年感じ続けてきた孤独とつながっていると桃嘉は考える。

 

さしたる事件も起こらず、桃嘉は聖司と離れていくのだが、小説は日常の男女のずれがどこに由来するものなのか、丁寧に追っていく。互いの距離感がどんなふうに形成されているのか、そしてそれがいかに強固なものなのか、聖司の両親や妹を通して描かれ、それを縮めるために何が必要なのかを、桃嘉の視点から語られていく。それは、日本と台湾の、台湾にとっては中国との関係も含めて、歴史の産物でもある。

f:id:keisuke42001:20210418114831j:plain

 

最後の一節。

 淡水河が輝いている。鳥たちがさえずっていると思いきや、伯母たちが手招きをしている。母もいる。でも、みんな少女のような年頃なのだ。円卓を囲む人々に加わった桃嘉を抱きとめてくれたのは祖母のようである。祖父もいる。ほかにも会ったことはないけれど知っている人たちがたくさんいる。木彫りの祭壇からは懐かしい匂いが身をくねららせていて、そこよりももっと遠くにいるはずの絵描きだった曽祖父が近づき、色とりどりの音を描くためにの絵の具を分けてくれる。おいしそうな声が聞こえると思ったら宴はとっくにはじまっていた。鍋の中の魯肉飯(ロバプン)をたらふく食べているのは、今よりもずっと若い頃の父? 女の子がそばに駆け寄ってくる。ママ、と呼ぶ。(ことばがつうじるからって、なにもかもわかりあえるわけじゃない)          目が覚めた時、桃嘉は何十年も旅をしたあとのような余韻の中で思う。あの子はかつてのわたし? それとも・・・・。

 

読者を引きずり込む力は並大抵ではないと思う。

2020年の織田作之助賞受賞作品。遅ればせながら、エッセイ『台湾生まれ 日本語育ち』と2017年の芥川賞最終選考に残った「真ん中の子どもたち」も読んでみるつもりだ。