「撤退の時代だから、そこに齣を置く」赤坂憲雄

2020年の大みそか。快晴。

境川河畔、今朝は、10数羽のカモの群れの中、2羽がけんかするのを見かけた。水の上をスーッと静かに滑って行くカモには、諍いなど似合わないから、激しく羽をたたき合う姿にすこし驚いて足を止め、しばしその様子を見ていた。

 

今日の朝日新聞「かたえくぼ」は、

 

『大晦日』 昔ーおおつごもり  今ー大巣ごもり  (柏・ほのぼの)

 

気ぜわしさのない暮れである。

いつもなら長女が家族で来ていて、元旦には次女が家族で訪れるのが恒例のようだが、

今年は誰も来ない。二人だけ、いや二人とチワワ一匹である。

 

朝日新聞一面の「沢の鶴」の広告

 

天声人語の右側(字が小さいのである)

  

   マスクさん、ありがとう

   アルコール消毒さん、ありがとう

  うがい薬さん、ありがとう

  病院のみなさん、ありがとう 

 

沢の鶴もつまらん広告を出すものだ、と思った。

 

天声人語の左側にもう一つあった。

 

  ごめんなさい。マスク忘れたコト、ありました。

   ごめんなさい。うがい忘れたコト、ありました。

     ごめんなさい。手洗い忘れたコト、ありました。

 

はいはい、そうですか、と思った。

ところがここでどんと沢の鶴のロゴ、米印。

 

                    

 

最後の1行

      ごめんなさい。お酒だけは忘れず飲みました。

 

 晦日

 ※のマークの沢の鶴で。

 

何度も云うが、字が小さいのである。控えめなところ、いい。

 

私は、マスクもうがいも手洗いもよく忘れる。

しかし酒を飲むことは忘れない。いや、忘れるとか忘れないとかいう記憶の問題ではない。しっかりと内在化しているから、からだのほうが勝手に動いてしまい、気がつけば呑んでいるのである。目立たぬように控えめに。    ☞「いやいや」。 だれ?

 

いい広告だと思った。

 

閑話休題

福島に住む Iさんが、「図書」の1月号に掲載された赤坂憲雄氏の文章をメールで送ってくださった。

 

「・・・現状認識とこれから、に資するところがありそうなので情報として添付してみます。」

とあった。

 

赤坂氏の現状認識と新たな闘争宣言と読めた。

私は民俗学など全くの門外漢ではある。彼の著作は若いころの『排除の現象学』とわずかな一般向けの民俗学関係の本しか読んでいない。

それなのに、この文章はぐいぐいと内部に響いた。

漫然と日々を送っている者には、彼の厳しい現状認識は強くしなるむちのようでもある。

読者の皆さん、お時間があればぜひ読んでいただきたい。

ちなみに赤坂氏は1953年生まれ、唯一私と共通する点である。

 

 

 

往復書簡

ことばをもみほぐす 18

撤退の時代だから、そこに齣を置く

 

藤原辰史さま

                              赤坂憲雄

 

 早いものですね。わたしから藤原さんへの、これが最後の返信であり、往復書簡の締めということになります。その間に、福島県立博物館の館長職を解かれて、野(や/の)に下ったことは、すでにお伝えしてあります。わたしにとっては、コロナ禍のもとで迎えた大きな転換点といえるものです。しかし、福島を離れずに、喜多方を拠点に奥会津で東北学の最終ステージを構築しようと決めたことで、予想をはるかに超えて、風景そのものが一変しました。言葉への見えない枷がいくらかはずれました。たとえ非常勤職の、まったくの端っこではあれ、官に仕える身がなんとも窮屈であったことが、いまになって実感されるのです。

 たしかに、この間、次から次へと不愉快なできごとが国政レヴェルで生起してきました。その根底にあるものは経済至上主義であり、それが「人間の内面の統治」に乗りだしていると考えると、とても素直に了解されます。ところで、いまになって思うのです。既視感とでも言えばいいのか、それらがどれもこれも、国家のレヴェルで事件として顕在化する以前に、わたしはローカルな現場で、その雛型のごとき事件を見えにくくはあれ体験していたような気がするのです。震災以後の福島では、思いがけぬかたちで、経済至上主義によって人間の内面が分断・統治される場面にくりかえし遭遇してきた、ということです。

 福島は、そこに暮らす人々は、この十年のあいだ、経済至上主義がもたらす暴力と災厄に不断にさらされ、翻弄されてきました。人間としての内なるモラルをひき裂かれ、巧妙に分断・統治が張り巡らされた最前線に生きることを強いられてきたのです。その、いかにも植民地的な荒々しい経済=政治学が、いずれ福島の外に暮らす人々をも侵蝕してゆくことは、たやすく予感されていたことでしょう。だから、あいちトリエンナーレで顕在化した芸術・文化への国家権力によるむきだしの干渉を前にして、その前年に福島で起こっていた「サンチャイルド撤去問題」を想起せざるを得ませんでした。既視感に見舞われました。あれは子行演習だったのですね。

福島を他人事のように見捨てることを選んだ、ある帰結が、そこに転がっているなどといえば、挑発的に過ぎますか。たしかに、福島では原発の爆発事故が途方もないモラル・ハザードを惹き起こしたのです。それは巨大な傷と裂け目を日本社会にもたらしました。そこに、厳粛な分岐点が隠されていたのです。関東大震災(1923)というカタストロフィーを起点にして、治安維持法(1925)、世界恐慌(1929)、二・二六事件(1936)、日中戦争(1937)、幻の東京五輪(1940)、太平洋戦争の敗戦(1945)へと深まっていった歴史を振り返れば、東日本人震災以後のできごとのいくつかが偶然とは思われぬリアルな映像となって甦ります。学術会議の問題など、戦前のような思想や学問への弾圧を連想させますが、しかも、それが強固なイデオロギー的基盤をほとんど感じさせないところに、間抜けなまでに「日本的な」精神のありようを見いださずにはいられません。

 現実がじつに巧妙に隠蔽されています。それをむきだしにさらす批判的な知や学問が、とりわけ人文知が狙い撃ちにされているのは、むろん偶然ではないでしょう。しかし、赤裸々に言っておけば、その人文知そのものが衰弱しつつあるのではないか、という印象を拭うことができません。萎縮しているのはマス・メディアばかりではないのです。気がついてみれば、わたしたちの知や学問はなんだか痩せこけて、小粒になったような気がします。現実はいよいよ肥大化して、複雑怪奇さを増幅させ、まったく手に負えない代物と化していますが、それと拮抗するための方法や戦略などはほとんど姿かたちもなく、気配すらもありません,知性を忌避する国家権力が攻撃の矛先を差し向けているのが、たんに政権への批判や反対表明にすぎないことは、なにを意味しているのでしょうか。少なくとも、そこに胚胎されている思想や哲学にたいして、怖れが抱かれているようには見えません。わたしがいま奇妙にそそられている1960年代の学問や思想が持っていた、たとえば現実への衝迫力といったものは、もはやほとんど失われているのかもしれません。

 幾重にも、撤退の時代ですね。わたしはいま、あらためて地域主義を拠りどころにして、あくまでマージナルな場所に留めおかれてきた民俗知の再編を試みることに賭けこみたいと、妄想を膨らましています。入会地や協同労働を,めぐる古さびたフォークロアを掘り起こしながら、それをあらたなコモンズとして起ちあげることはできないか。またしても、見果てぬ夢の再来かと嘲笑されようが、それが東北学の最終章のテーマとなりつつあることは否定しようがないのです。そのとき、わたしの拠りどころが柳田国男の『都市と農村』という著書であることを、あえて恥じらいながら明らかにしておきます。

 そうですか、若い人たちが「次の世代、子係のために」と語るのですか。いま・ここに生きてあることは、次代へとバトンを渡すことだと感じているのでしょうか。それは真っすぐな希望に満ちていますか、それとも、いくらかの不幸を背負わされていますか。わたし自身が、未来の子どもたちのために、いまなにをなすべきかを考えることだけが求められている、と感じるようになったのは、さほど遠い昔のことではありません。ゆるやかな老いの自覚のなかで、小さな命の誕生に触れたときでありましたか。そのかたわら、わたしはただ黙したままに、むごたらしい災禍の風景のなかを歩きつづけていたのでした。

 震災後に、幾度か、福島の高校生たちを相手に授業や講演をする機会がありました。そこで、かれらが口ごもりながら、将来は家族のために、地域のために働きたい、と語る場面に立ち会ってきました。あまりにたくさんの哀しみや残酷を目撃せざるを得なかった、沿岸被災地に暮らす若者たちは、自分は生かされているという感覚があるのかもしれないと、たいした根拠もなく思いました。それはあきらかに、不幸を背負った言葉です。

 福島へ、会津へと、ささやかな旅を、道行きをいまも重ねています。福島こそが、わたしのもっとも大事な現場であることに気づかされたことは、幸いでした。その現場(フィールド)において、歩行と思索を重ねながら、地域を生きる思想を探してゆきたいと願っています。この撤退の時代の最深部へと、そのはるかな周縁部へと降りてゆくこと、そこからあらためて思想を語りはじめること。あまりの無力感に打ち粒がれそうになりながら、それでも、ひそかに経世済民の志だけは建て直しておきたいと願う現場です。

 戦いのスタイルも場所も、大きく異なってはいます。けれども、この陰影深い過渡の季節に、藤原さんと緊張感に満ちた書簡のやり取りをおこなうことができたのは、ほんとうに僥倖でありました。感謝の思いでいっぱいです。それぞれの場所で、可能ならば、命あるかぎり勝てなくとも負けない戦いを継続していけたら、と思います。どうぞ、お元気で。

 

2020年11月21日 台湾の若者たちとの出会いの余韻のなかで

                       (あかさか のりお・民俗学)

 

 

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