本を読んでも映画を見ても1週間もすればほとんど忘れてしまう。テレビや新聞など見たこと、読んだことすら覚えていない。記憶の劣化、剥落はとめどがない。老境もいよいよ佳境。
せめて週に一度くらい、映画館に足を運んでみようと思う。バスや電車に乗る。巷の人々を観察する。時々昼酒をする。際限のないひとり遊びだが、老化のスピードに少しだけブレーキをかける。そして、映画の中身を忘れないようにブログに書く。内容は偏頗、思い込みこの上ない。ただ幾人かの方の目に触れるだろうことが多少の刺激にはなる。恐縮だが、今年も映画寸評を続けるつもり。
2025年1月の映画寸評(1)
面白かった映画を⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎から⭐︎まで勝手に評価。
『大きな家』
(2024年製作/123分/G/日本配給:パルコ/企画:相藤工/監督:竹林亮/劇場公開日:2024年12月6日)
解説
齊藤工による企画・プロデュースのもと、「14歳の栞」「MONDAYS このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない」の竹林亮監督がメガホンをとり、児童養護施設で暮らす子どもたちの日常に密着した作品。
東京のとある児童養護施設。ここでは死別・病気・虐待・経済的問題などさまざまな事情で親と離れて暮らす子どもたちが、血のつながりのない他の子どもや職員と日々を過ごしている。家族とも他人とも言い切れない繋がりのなかで暮らす彼らは、両親への思いや、生活を身近で支える職員との関係性、学校の友だちとの距離感、施設を出たあとの暮らしなど、さまざまな葛藤を抱えながら成長していく。
些細だけど大切な日常の景色をカメラに収め、惑いながらも確かに大人になっていく子どもたちの姿と、そんな彼らを支えるあたたかなまなざしを映し出す。アコースティックデュオ「ハンバート ハンバート」が主題歌を担当。(映画.comから)
映画が始まる前に「映画館で手渡しのように届けたい」と題されたちらしが配られた。主に出演者のプライバシーに関すること。個人や家庭、施設に対する勝手な推測、誹謗中傷は発信をしないように、施設名や地名の言及も控えてほしい。またそうした観点から配信やパッケージ化はしないと書かれている。こうしたものが配られるのは異例のことだ。正しいことが書かれているように思うのだが、引っかかるところもないわけではない。
ドキュメンタリーには、イメージ映像、効果音のようなもの、音楽などは極力入れないほうがいいと考えている。だから見終わるまでそのことが気になって仕方がなかった。
映像はわりあい淡白なのに、イメージ映像や効果音が挿入されると、見る側はあるエモーショナルなものを受け取らざるを得ない。「密着したのは移動養護施設の”ふつうの”日常」という惹句が成立していないと思った。
子どもたちやスタッフは顔を出して話をする。不自然にモザイクを入れたり、声を変えたりすることをせずに、その人そのものをそのままの映像として、見る側に届けたいという意図はわかる。しかし、逆にそのことが「ふつう」の中身を抑えて薄めてしまっていることはないだろうか。
子どもたちの悩みにしても、退所や自立など「別れ」のシーンが多く、際限なく続く日常とは少し違ったいわば非日常であるだけに、逆に心情吐露に深みを感じなかった。スタッフも同じ。スタッフの頑張りは素晴らしいものがあるのはわかるけれど(それはどんな現場でも言えることだ)、そこでしかわからない悩み、避けたい、逃げ出したい思いはあまり語られない。こういう言い方はよくいないが、立派な人たちばかりだ。児童養護施設で働く人たちの離職問題などここでは全く語られない。スタッフらの労働問題の視点はこの映画には全くない。映画にないだけで、現実には必ずあるはずだ。
どうしても、学校や教育関連のドキュメンタリーを見ているような、素晴らしい教育、魅力的な実践を紹介するドキュメンタリーに近いものを感じてしまう。
子どもたちの家族観についても気になった。一緒に生活する子たちについてどう思うかという問いを撮る側が何度となく繰り返しているが、答えの多くは、血のつながっている家族とは違う存在、という答えが多かったように思えた。本当の家族が彼らの中に欠落しているからこそ、血のつながる「本当の」家族に憧れるのはわかる。しかし一方でその家族が、抑圧や暴力装置である面を普遍的にもっていること、実は彼らはそのことに気がついているのではないかとも思えた。
そうした思考を、イメージ映像や効果音が消してしまっている。ハンバートハンバートの主題歌はいいものだが、これもまた・・・・。
難癖をつけているように見えるかもしれないが、以上が率直な感想。冒頭のちらし配布もまたその伝の一つと言ったら、やはり難癖だろうか。(⭐︎⭐︎)