落第点をとりそうなこの国の政権のしりぬぐいをさせられるのはごめんだ。 みなさん一人ひとりの心掛けが、この危機を回避するのです、といった言い方は、基本的に責任を回避する言説だ。本来自分が責任をもってやらなければいけないことを、「一人ひとり」の責任に分散して、自分の責任をあいまいにしている。 責任は、権力をもっている者にあるのが当然のこと。 民衆は権力と同等の責任などもたない。ただ、権力を変えるための責任はあると思う。 その方法はさまざまだが。

昨日18日、午前中はひどい嵐。

15時過ぎに雨は止んだ。朝いけなかった散歩に出かけた。

雲に覆われていた空が、見る間に南と西の方角から青空に変わっていく。

境川は水量が増えて濁流になっている。

カワセミの巣があるあたりも水中に没している。

 

おなじように雨が上がって散歩に出てきた人たちが多い。

ふだん合わない人にも出会う。最後に勤めた職場の同僚が高校生の娘さんを連れて散歩していた。

 

部活動、バスケットを熱心にやっていた人だ。ふだんなら土曜日の午後など自宅に居ることはなかったのではないだろうか。

 

夕方、ニシンの山椒漬けを試食。

4,5日前、魚屋で見つけた木箱に入った10本ほどの身欠きにしん。完全に水分の抜けたカチンカチンのやつを買ってきた。ここまでがわたしの担当。あとはMさん。24時間水につけ、しょうゆ、酢、酒と山椒で漬ける。山椒はマンションのあちこちにあるものをMさんが摘んできた。冷蔵庫で1週間とあったが、食べてみた。

 

なかなかいける。

 

海のない会津地方のソウルフードのひとつ。

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ニシンの山椒漬け

 

昨日載せたピアノとサックスの「STAY HOME」など、音楽家たちがさまざまな工夫を凝らしてメッセージを送っている。

 

 

星野源の「うちで踊ろう」のコラボ動画について、コラムニストの小田嶋隆さんは次のように云っている。

 

《「安倍首相と星野源さんのコラボ動画」という言い方は、星野源さんに失礼なのでやめてあげてほしい。仮にマイセンのソーサーの中に犬が用をたしたのだとして、そのブツを「マイセンと犬のコラボ作品」と呼ぶのはマイセンにとってダメージだとオレは考える。》(Twitter

 実際、首相は、一切「コラボ」(「コラボレーション」という言葉に値する協働的な取り組み)らしいことはしていない。
 単に星野さんの音楽をBGMとして利用して、彼の人気に「便乗」しただけだ。

 とすれば、「便乗動画」「タダ乗り自撮り映像」くらいに呼ぶのが相当で、これをいきなり「コラボ動画」と認定してしまうのは、星野源さんに対してはもちろん、楽器演奏やコーラスや舞踏の映像を重ねることで見事なコラボ映像をアップしてきているほかの動画投稿者の皆さんに対しても、失礼に当たる。(ブログから)

 

コラボ動画と最初に書いたのは毎日新聞らしいが、言葉の使い方に厳しい小田島さん、相変わらず切れ味が鋭い。下品なだけにドスンと響く。

 

さて、10万円の全国民給付。

アソー財務大臣は、「手を挙げた人に配る」という。

蓮舫さんは「あなたのお金じゃない」と批判する。

おおかたの人は、

「手をあげられない人はどうするのか。赤ちゃん、老人、病気でベッドにいる人、障がいをもっている人、外国人、刑務所に収監されている人、DVから逃げている人などは手を挙げられないのではないか」

 

その通りだと思う。弱者は…と考える。

 

逆にビートたけしさんのように

 

孫正義さんが手を挙げたら怒られるんだろうな。おいらもだけど」

と発想する人もいる。

 

高須クリニックの院長は、いらないと宣言。

 

 

アソー大臣は、自分のお金でもないのに長いこと財務大臣をやっているから、たぶんもう自分のお金を使う感覚で「おめえたちにはそう簡単にはやらねぇぞ」ぐらいのことしか考えていないのだろうが、もらう方は、その人が立つ位置によって受け止め方が違う。

 

わたしも疑い深い方だから、素直に「10万円もらえそうでよかった!」とは思わない。

 

今、10万円をもらっても、あとから大幅な給料のカットや年金カットが来るに違いない。そうでなければ、復興税のようなものがつくられるのでは?と考える。いつかきゃつらは、もらった分を取り返しに来るぞ、ということだ。

 

今でも東電がやったことのしりぬぐいを国民全部が負担させられているというくやしさを、忘れない。

 

 

内田樹さんが言うように、新型コロナは世界の国々対する「センター試験」のようなもの。

どんな解答を用意できるかでそれぞれの成績が決まる。カンニングでもなんでいいから、よりよい解答(対応策や解決方法)をどの国が出せるか。

 

その意味で日本は、すでにずいぶん間違った答えを解答用紙に書いてしまっているし、周りの国々の方策をカンニングしようともしていない。中国や韓国を嫌いな人たちが、安倍政権を強く支持していることからすれば、かの国の後塵を拝することなど我慢ならないのだろう。

 

落第点をとりそうなこの国の政権のしりぬぐいをさせられるのはごめんだ。

 

みなさん一人ひとりの心掛けが、この危機を回避するのです、といった言い方は、基本的に責任を回避する言説だ。本来自分が責任をもってやらなければいけないことを、「一人ひとり」の責任に分散して、自分の責任をあいまいにしている。

 

責任は、権力をもっている者にあるのが当然のこと。

民衆は権力と同等の責任などもたない。ただ、権力を変えるための責任はあると思う。

その方法はさまざまだが。

 

 

 

コラボではないが、昨日は作曲家の松下耕さんが、谷川俊太郎の「生きているということ」の英語の歌詞に曲をつけて発表していた。

ここに貼り付けようとしたのだが、うまくいかない。

 

その代わりと云っては何だが、同じ谷川俊太郎の「死んだ男の残したものは」を紹介する。

 

たぶん誰でも知っているこの曲、、名演奏は数えきれないが、これも間違いなく名演奏にはいるもの。

 

2016年10月2日の『題名のない音楽会』。

武満徹の魅力を語る音楽家たち」と題し、没後20年を迎える世界的作曲家・武満徹を特集したもの。

 

脇に並んでいるのは、谷川俊太郎渡辺香津美、司会の五島龍と指揮者の川瀬健太郎と結婚した松尾由美子

 

そして、名手鈴木大介のギター一本を伴奏に歌うのが、カウンターテナー藤木大地だ。

 

照明を落とさないスタジオで歌っている。

 

偶然、このときわたしはオンタイムでこれを見た。藤木大地のこともよく知らなかった。

テレビを見て泣くのはとっても恥ずかしいが、涙が出てしまった。

 

こんな「死んだ男の残したものは」は初めてだった。

 

訊くものを捉えて離さない歌唱は、武満徹が残した本のタイトル

  『音、沈黙と測りあえるほどに』(1971年・新潮社)のことばどおりの

さながらの名演である。

 

これ以降、何度か二人で彼のコンサートに足を運んだ。