6月20日
小田急線鶴間駅にバスで出て、大和で快速急行に乗り換え藤沢まで。JR東海道線で大船。
久しぶりに組合の退職者の集まりに出席。
喫茶室ルノワールの一画での小さな集まり。
益子の関谷興仁陶板彫刻美術館・朝露館が話題となる。ここでアーサー・ビナードが紙芝居を上演するというチラシを見せてもらう。15日とあるので、もう終わっているが。
そういえば新聞でアーサー・ビナードが『ちっちゃい声』という紙芝居を童心社から出したという記事を読んだ。丸木俊・位里夫妻の『原爆の図』の絵を使い、アーサー・ビナードが脚本を書いたという。絵本『ここが家だ』と似たパターン。ともに歴史的な絵を現代によみがえらせる試み。
ネットでみると4月から全国各地で出版記念イベントが開かれているようで、朝露館での上演もその一環のようだ。
アーサー・ビナードというとつい反応してしまう。
7年ほど前にお呼びして学年の生徒に話をしてもらったのだが、1時間半ほどの長尺を、生徒を引き付けて離さない話術の巧みさと、人間に対する深い敬意のようなものに打たれたからだ。
さて朝露館の関谷興仁さんは、詩人の石川逸子さんのお連れ合いなのだそうだ。先日もここで石川さんの自作の詩の労働句を聞いたというレポートがネットにあった。
展示の一部
この美術館、陶板の造形物に被抑圧者に寄せた関谷さんの言葉が書かれた作品が中心に展示されている。しかし写真でしか見たことがない。アクセスがかなり悪いようだが、いつか訪れてみたいところだ。
広島の語り部山崎寛治さんが6月14日に亡くなられたという新聞記事を、中澤晶子さんからメールで送っていただいた。91歳。
1991年、最初の広島の下見の時に、江口保さんの紹介で山崎さんとお会いした。山崎さんは当時60代前半。早期退職をして証言者の活動を続けていた時期だった。
山崎さんは広島二中の代用教員だった時に爆心から1500㍍の地点で被爆。現在平和記念公園の一部となっている天神町に居住しており、お母様をはじめ親族7人を失った。証言はそのひとり、山崎さんを兄のように慕っていたいとこの賢太郎君のお話が中心だった。
端正な風貌で、激せず静かに淡々と話される山崎さんの証言は印象深い。1時間以上にもなる証言者のお話を聴くのは少ししんどいかなと思われる生徒の多いグループでも、山崎さんの話に惹き込まれて聴き入っていたということが何度もあった。
証言は2000回を超えたという。数万人の子どもたちが山崎さんのお話をじかに聴いたことになる。
毎年のように、お世話になった語り部の方が亡くなる。
広島市は被爆体験伝承者養成事業で「原発問題には触れてはならない」などの規制をかけてみたり、修学旅行誘致のために全国の教員を対象に「合宿」を開催、事前指導や事後指導について「指導」するという案も出している。
ピンぼけこの上ない。
なぜ広島の行政は真摯に学ぼうとしないのだろうか。
6月19日付け日本経済新聞広島版(どことなく行政のリークっぽさが感じられる記事)
当事者ではない人々が行う伝承ということならば、アウシュヴィッツ= ビルケナウ強制収容所博物館で働く中谷剛さんの取り組みに、その思想や哲学ごと学んでみるべきだ。修学旅行を誘致するならば、江口保さんを嚆矢とする50年近い修学旅行を続けてきている各地の学校に学ぶべきだ。訪れた学校がつくる資料集や文集などの多くは資料館地下の図書室に寄贈している。私もいつも気にかけて送ってきた。しかしそれらが利用されているのを見たことがない。
広島市に対する要望も今まで何度か出してきたが、雨天時の講話場所すらまだまともに設置しておらず、有料の会議室すら奪い合いになるケースも少なくない。宿泊施設にしても短期間に集中する訪問に対応できるような体制もない。
修学旅行のための準備を広島で行うのは並大抵のことではない。下見のほとんどは語り部の方のお話と打ち合わせに充てざるをえない。土地勘のないところで3桁の生徒の集会所を確保するのは容易ではない。
そんな時、「修学旅行困りごと相談所」のようなものもあればと思うが、それもない。
これを多々一人でやっておられたのが江口保さんだ。「ヒロシマの修学旅行を手伝う会」を一人で立ち上げ、アパートを借り、下見に来る全国の教員の道案内と相談をうけもった。
現在の広島市は、たった一人の江口さんに全く及ばない。
来てもらう、学んでもらう、考えてもらうといった当たり前の真摯ささえあれば、出てくる政策も違ったものになるはずなのに。
さて喫茶室ルノワール。出席者のいちばん上の方が今年80歳。70代の方が多い。やはりテーマ?は病気、葬式、お墓の話。それぞれみなお金に関わる話になる。身につまされる思い。
明後日が夏至だとか。
日はまだ高い。久しぶりに同年のSさんと4時ごろから薄暮ゲーム開始。