ウオーキングシューズに穴があいた。

18日(木)、出がけにはポツポツ落ちて来ていた雨だったが、河畔に出たころから強くなり、帰途にはバケツをひっくり返したような土砂降りに。ビニール傘と水筒を交互に持ち替えて1時間、全身びしょ濡れで帰宅した。この日は一人散歩。

 

そんなひどい雨の下でも、カワセミの飛ぶ姿を何度か見た。土砂降りであっても、水面すれすれをかなりのスピードで滑空していく。青が際立ってきれいだった。

 

「新聞紙を入れておいた方がいい」とMさん。ウオーキングシューズは川にそのまま浸かったようなありさま。

3時間後には十分に水分を吸っていたので、2度目の新聞投入。

金曜の朝にはすっかり乾いていた。

 

濡れたくつに新聞紙というと忘れられないエピソードがある。

12年ほど前の広島修学旅行での出来事。5月半ば。新緑のきれいな季節。

 

その日は朝からぐずついていたのだが、午後から本降りに。

平和公園原爆資料館での活動を終えて、生徒はグループごとに歩いて10分ほどの宿舎に戻ってくる。

みな傘はもっていて衣服は濡れていないが、靴は全員がもれなくびしょびしょ。

 

職員も含めて180人ほど。

いつもなら決められた靴箱にしまうのだが、そうもいかない。とりあえず広い玄関に並べておくしかない。

靴はどうあれ、全部の生徒が無事宿舎に戻ればとりあえずはOK。入館チェックをしながらそんなことを考えていたら、いつの間にか宿舎のスタッフが一足一足の靴に新聞紙を詰め始めていた。

いつも和服姿のおかみさんの指示だったようで、新聞紙を割いて丸める人、靴に突っ込む人、分担しながら手早く作業をしているのを見て、ああやっぱりな、と思った。

 

宿舎とのさまざまな調整はいつも事前の下見で確認しておくのだが、京都、奈良の修学旅行と違って、ヒロシマはけっこう大変なことがある。

たとえば、原爆投下の8時15分に平和公園で集会をするためには、朝食を早めにとる必要がある。通常は7時半ごろが定番だが、1時間早めてもらえないかという「無理難題要求」。人件費など経費を考えればそうそうイエスとはいかない。

宿舎によってはなかなか対応してもらえず、その分、集団の中学生はタイトな動きにならざるを得ない。

夜、夕食後に宿舎に被爆者の語り部の方や現地のゆかりのある方をお呼びして、夜の「学習会」なるものを催す。

街中の宿舎ゆえスペースに余裕があるわけではないので、夕食の後片付けをした大広間で会を催すことになる。

宿舎にしてみれば、夕食の片付けのあとには次の日の朝食の準備をしておくのが通例。そこを1時間半ほども使用されたのでは、スタッフのやりくりからしてかなり厳しいということになる。

そのあたりの交渉を担当するのが私のような年配の教員の仕事なのだが、5分、10分刻みでの交渉となってこれがけっこうしんどい。

 

ところが、この「新聞紙」の宿舎、世羅別館はいつもすんなりとこちらの願いを聞き入れてくれた。和服姿のおかみさんは、いつもお客さんファースト。

何より従業員、スタッフの対応が温かい。

食事も、他の宿舎に比べて、温かいものをしっかり出してくれる。

だからと言って特に値段が高いというわけでもない。

難点は、場所が八丁堀という繁華街近くで、近平和公園から少し離れているということだけ。

 

「ああ、やっぱりな」と思ったのは、そんな旅館業としてのふところの深さ故だった。

 

 

この世羅別館、かつてはカープと対戦するジャイアンツの定宿だった時代もあったそうだ。

私と同じくらいの年齢の女性が、女学生だったころ、を一目見ようと「入り待ち」「出待ち」をしたと云う話を聞いたことがある。

 

そんな世羅別館が「お店をたたむらしい」という話を耳にした。

 

そしてこの4月、老朽化と新型コロナの影響をうけて、閉館したという記事をネットでみつけた。65年の幕を閉じたとあった。

 

いいつきあいをした施設がなくなるのは寂しい。

 

新聞紙を靴に突っ込みながら、そんなことを思い出していたのだが、偶然にもこの日、広島の友人がスマホに写真を送ってくれた。更地となった世良別館あとだ。

 

世羅別館、65年の歴史に幕 かつてプロ野球チームも宿泊 | 中国新聞デジタル

取り壊しの始まったことを伝える新聞記事の写真。

 

今朝、何の気なしにウオーキングシューズをひっくり返してみたら、右足の親指が当たるところに穴があいていた。

調べてみたら、この靴を新調したのは昨年の5月。

日にちにしてたぶん400日、一日1時間のウオーキング。よく重さに耐えてくれたものだ。これも老朽化による。いいつきあいをしてくれた。

newbalanceの同じ型番の靴をさっき注文した。