6月5日
朝から湿度が高い。暑熱の夏を思い起こさせるような空気。
散歩から戻って近くの理髪店に電話。
歩いて10分ほどのところに若者が1人で経営する小さな床屋がある。予約制で時間がきっちりしているうえに安い。もう6年通っている。10時の予約がとれる。
いつものように世間話をしていると、何やら話の雲行きがよろしくない。
大家が委託している不動産屋との数々のトラブル。つまるところは大家との関係の悪化。片方の話だけだから、実際に何がどうなったのか詳細はわからないが、結論は、今月中の閉店。突然の話に驚く。
固定客もかなり多く、今日も私がいる間に予約の電話が3本入った。
店主も困るだろうが、客も困る。
床屋は簡単には変えられない。22歳のころから通った床屋はこの店で3軒。いちばん長いお店は30年近い付き合いだった。
なんとか違う形で継続できるよう、いま、画策しているという。
庭の紫陽花②
川崎市多摩区の路上で刃物を持った男が登校中の児童や保護者を襲い、お二人の命が奪われた。いたましい事件である。
この犯人に対して、事件の起きた28日の午後、フジテレビ「直撃LIVE グッディ!」で、安藤優子キャスターが出演者に「社会に不満を持つ犯人像であれば」「すべてを敵に回して死んでいくわけですよね。自分1人で自分の命を絶てばすむことじゃないですか」。北村晴男弁護士は「言ってはいけないことかもしれないけど、死にたいなら1人で死ねよ、と言いたくなりますよね」と続けた。
これが現在論争となっている「一人で死ねばいい」の火元のようである。
すこし考えるところがある。
犯人は、1人で死にたくなかったから、他人を巻き込み、理不尽で残虐な行為に及んだのではないか。
「一人で死ねばいい」という声は、事件のあとに沸き起こったが、岩崎容疑者はふだんから声なき声として「一人で死ねばいい」を背中に感じていたのではないか。だから、彼は1人では死ななかった。
「一人で死ねばいい」という声は、亡くなられた被害者の側に立てば当然のことと主張する人が多い。そうすれば被害者は死なないで済んだのだし、巻き添えでしかない行為は、被害に遭われた方にとっては理不尽極まりないことだ。
だからだれもが自分や自分の係累へ凶刃が向けられる可能性を考えた時、言葉を失う。
ただ、そこで感情だけにほだされて「一人で死ねばいい」と云ってしまっていいものか。
事件が容疑者の自殺というかたちで収束した中で「一人で死ねばいい」は、被害者の側に立つというより、岩崎容疑者に対し感情的に悪罵を投げつけているに過ぎないのではないか。
呑み屋での与太話ならともかく、テレビという一定の公器にあっては、感情的な悪罵が論調の中心になることは決していいことではないと思う。
私の結論は簡単である。
希望も展望もない孤独な生活に自暴自棄となってしまう人々にとって、いつも背中に感じる「一人で死ねばいい」は、その孤独と希望のなさを倍加させることはあっても、なんの助けにもならない。それどころか孤独の淵にさらに追いつめるものでしかない。
孤独に対する社会的な想像力が、行為の残虐さによってその広がりを停止してしまっていいのだろうかと思う。
私たちは、永山則夫自身や彼に関わった多くの人々が積み重ねてきた思考の営為、また新宿バス放火事件に対する杉原美津子の犯人の丸山博文に対する向き合い方から多くのことを学んで来たはずなのに、いままたこうした事件が起こると、「一人で死ねばいい」がいつの間にか膨れ上がってしまう。
こうした事件を再び起こさせないためにという人々の善意は、緊急関係閣僚会議などの名前で政治取り込まれ、利用され、いつのまにか実体のないものになっていく。
「一人では死にたくない」までたどり着いてしまった岩崎容疑者を取り巻いていたもの、それらを社会的に明らかにすること抜きに、被害者を前面にたてた犯人への悪罵は何の役にも立たないと、私は思う。