大阪市立泉尾北小学校の『「天皇陛下ご即位記念」児童朝礼』

7月1日

毎日曇天、時々小雨。

7月になった。2019年の後半に入った。

午前中、同期のFさんに電話。病気の話をいろいろと伺う。Fさん、長い闘病生活を続けているだけに、一つひとつの言葉が重く説得力がある。いくつか今後気をつけなければならないことをお聞きする。

 

以下、先日から話題になっている大阪の小学校での出来事。こうしたことがさほど問題とならずに推移するのが現在の大阪だ。入れ替え選挙をやっても二人とも難なく当選するし、学力テストの結果を教員の人事評価に反映させるなんてことも始まる。表に出ていない大阪の「不思議」はたくさんあるが、これもその一つ。

こうしたものを生み出して放置する「素地」がどうしてつくられていくのか。

 

山口采希の『行くぞ!日の丸』はyoutubeでも聴けます。すさまじい歌です。

 

以下、大阪の方からのメールを転送します。

 

 


子どもちに渡すな!あぶない教科書大阪の会伊賀です。転送・転載大歓迎です。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
 ■抗議文への団体・個人賛同をお願いします!■
  憲法を無視した大阪市立泉尾北小学校での
  『「天皇陛下ご即位記念」児童朝礼』に対する抗議文
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 5月8日(水)、大阪市立泉尾北小学校において全校の子どもたちが参加する『「天
皇陛下ご即位記念」児童朝礼』(以下、「児童朝礼」)が行われました。「児童朝
礼」では、まず小田村直昌校長が代替わりと新元号の説明をしました。なんと新天皇
を「126代目」とまで紹介しています。
 その後、「愛国の歌姫」と呼ばれている山口采希(あやき)氏(「教育勅語」を歌
にし、塚本幼稚園でも歌ったことがある)がゲストとして登場しました。そこでは、
明治時代の唱歌神武天皇」「仁徳天皇」を歌いました。どちらも神話上の天皇を賛
美し、「万世一系」を印象づける国民主権に反する歌です。さらに「仁徳天皇」を歌
う前には、教育勅語児童読本(1940年)や修身教科書に登場する「民のかまど」の話
をしました。
 さらには、自身のオリジナル曲「行くぞ!日の丸」「令和の時代」も歌いました。
「行くぞ!日の丸!」は、「日の丸」を先頭にしてアジア諸国に侵略した戦前の日本
軍の姿を彷彿とさせます。外国籍の子どもたち、中でもかって日本が侵略・植民地支
配した国々にルーツを持つ子どもたちは、この歌によって深く傷つくのではないかと
私たちは憂慮します。
 小田村校長は同校のHPで山口氏の歌や話を「とてもいいお話」「とても素晴らし
いゲストでした」と絶賛しました。このような「児童朝礼」は、戦前の教育勅語教育
を小学校に露骨に持ち込もうとした森友学園の「瑞穂の國小學院」に通じるものがあ
り、明らかに憲法違反です。公立学校でこのような集会が行われていること自体、全
国的に例を見ません。
 私たちは、憲法に反する内容を子どもたちに押しつけた「児童朝礼」を行った小田
村校長と、同校長を任命した大阪市教育委員会に対して厳しく抗議したいと思ってい
ます。そして同校の保護者・子どもに対してはもちろんのこと、大阪市民に対する説
明と謝罪を求めたいと思います。

大阪市教委に対して抗議の申し入れを行いたいと思っています。
それまでに出来るだけ多くの団体・個人賛同を集めたいと思っています。
ぜひ、ご協力をお願いします。

■下記の要望書への団体・個人賛同を呼びかけます。
◇団体賛同の場合
  団体名をお知らせください。
◇個人賛同の場合
  お名前
  お立場(教職員、保護者、生徒、学生、研究者、弁護士、市民など)
   できればで結構です。
  お名前の公表(インターネットを含む)の有無
◇締め切りは7月7日(日)
◇送り先
メール iga@mue.biglobe.ne.jp
◇PC・スマホ用署名ページ
http://form01.star7.jp/new_form/?prm=6a6b423%2F2--21-0583fb


山口采希氏が歌った曲

□「行くぞ!日の丸!」

喜びと悲しみに
情熱が肩を組む
うつむいた日は過ぎた
時が来た まっしぐら
行くぞ!行くぞ!日の丸が行くぞ!
ああ勇ましく 日の丸が行くぞ
ひたぶるに駆け抜けた
根こそぎのなにくそで
どん底も手を伸ばし
風一つ 掴んだる!
行くぞ!行くぞ!日の丸が行くぞ!
揺るがぬ魂 日の丸が行くぞ
行くぞ!行くぞ!日の丸が行くぞ!
ああ勇ましく 日の丸が行くぞ
行くぞ!行くぞ!日の丸が行くぞ!
白地に赤く 日の丸が行くぞ

□「令和の御代」

春の訪れ 風も和やかに
薫り高く 梅の花のように
うるわしき日々を 
ありのままに
咲き誇る
令和の御代に
和らぎの日々を
それぞれの心
満ち足りて
咲き誇る
令和の御代に
心寄せ合う
令和の御代に


□「仁徳天皇唱歌)」

玉の宮居は名のみにて
あれにぞあれし 大殿に
三歳の月日 凌ぎつつ
民のかまどを にぎはし給ふ
その大御めぐみ
雨ふりしきる あしたにも
風ふきすさぶ 夕にも
大御身の上は 忘られて
民のうえのみ 思ほし給ふ
その大御心

■呼びかけ団体 
子どもたちに渡すな!あぶない教科書 大阪の会

■資料
◇山口あやきブログより
《今日は大阪市立泉尾北小学校の全校集会「新天皇ご即位記念集会」で歌わせて頂き
ました(*^^*)》
https://ameblo.jp/ayaki0416/entry-12459876448.html

神谷宗幣氏の番組での小田村直昌校長のインタビュー動画
ぜひ、みてください。あまりにもひどいです。
https://www.youtube.com/watch?v=fIAFEDXE1ns

『コレット』『僕たちは希望という名の列車に乗った』(ネタバレあり)

6月28日
新百合ヶ丘の川崎アートセンター、アルテリオ映像館へ。本日レディスデー、座席は100席とちょっとしかないので早めに出かける。上映40分前に到着。


コレット』(2018年・英米合作・111分・原題“Colette”・監督ウォッシュ・ウエストモアランド・主演キーラ・ナイトレイ・5月17日日本公開)


整理番号30番。なかなかの人気。監督ウォッシュ・ウエストモアランドはアリスのままで』(2015年)の共同監督。

 

…フランスの片田舎で生まれ育ったコレットは、14歳年上の人気作家ウィリーと結婚し、それまでとは別世界のようなパリへと移り住む。芸術家たちが集うサロンで華やかな生活を送る中、コレットの文才に気づいたウィリーは、自身のゴーストライターとして彼女に小説を書かせる。そうして彼女が執筆した「クロディーヌ」シリーズはベストセラーとなるが、コレットは自分が作者であることを世間に認められない葛藤に苦しめられることになる。保守的で男性優位な当時の社会にあっても、ありのままの自分を貫き才能を開花させていったコレットを、ナイトレイが演じた。(映画ドットコムから)

 

19世紀のパリが舞台。なのに役者はみな英語を話す。言葉の意味は聞き取れなくても雰囲気は感じたい。ちょっと残念。


シドニー・ガブリエル・コレットを演じるキーラ・ナイトレイが魅力的。初めて見る女優だと思って調べてみたら『私を離さないで』(2011年)のルース役。全く対照的な役柄。結びつかなかった。数年ですごい変貌。

 

シドニー・ガブリエル・コレットは「フランス文学界でもっと知られた女性作家」だそうだが、フランス文学界は未知の世界、初めて耳にした作家。1873年生まれで、映画で描かれる時期は20歳からの数年間だから19世紀末から20世紀初めが舞台ということになる。

f:id:keisuke42001:20190701113842j:plain



グーグルでシドニー・ガブリエル・コレットを検索すると、作家というより女優のようなポーズをとった写真がたくさん出てくる。その中にキーラ・ナイトレイの『コレット』写真もまじっているのだが、カラー、モノクロの違いはあれ甲乙つけがたい美しさだ。コレットの方は古い写真のせいかどことなく品がある。


映画の中にナポレオン三世の血をひくという男装の麗人ミッシーが出てくるが、彼女の姿を模した短髪のコレットの写真もある。コレットは強い自己顕示欲とスキャンダラスな面を合わせ持ってはいたが、ミッシーとの関係も併せて、同性愛を「病気ではない」ことを世間に知らせた功績もあるという。

 


映画の後半でコレットはミッシーに惹かれて、ともに旅に出、ともに舞台に出たりする。夫のゴーストライターをやめ、自分の名前で小説を発表するようになっていくコレットの知性と奔放さをキーラ・ナイトレイがとっても魅力的に演じている。

前半の夫ウィリーとの愛憎取り混ぜたやり取りも一辺倒でなく、幾重にも織りなされる感情のひだを上手く演じるものだなと感心した。

 

繰り返すが『私を離さないで』のルースとこの映画の中のキーラ・ナイトレイがどうも結びつかない。女優としての技量の高さと演出に応える能力の豊かさなのだろうか。

 

19世紀の作家の伝記映画を、女性の変転の歴史として魅力的に描いた監督ウォッシュ・ウエストモアランドの手腕は侮れないと思う。

 

 

次の『僕たちは~』まで30分ほどの幕間。ロビーにはけっこうな人数が待っている。コンビニでおにぎりと飲み物。イートインはなく、会場内は飲食の「食」だけ禁止だとか。

入場が始まって座席を確保したうえでいったんロビーへ。空いている席で10分間の昼食。血糖値が上がる最悪の食べ方だが、字義通り?背に腹は代えられない。

 

『僕たちは希望という名の列車に乗った』(2018年・ドイツ・111分・原題“Das schweigende Klassenzimmer”監督。脚本ラース・クラウメ・主演レオナルド・シャイヒャー・2019年5月日本公開)


印象的な邦題だが、原題を和訳すると「静かな教室」。ディートリッヒ・ガルスカ手記の『沈黙する教室』に準じている。邦題は惹きつけるものはあるが、原題、原作にはそれ以上に含蓄がある。

 


1956年の東ドイツ。まだベルリンの壁は築かれておらず、まだ列車での往来が可能だった。東ドイツが西ベルリンを壁で覆うのが1961年。当時63000人が西ドイツの職場へ通勤、東ドイツへ西ドイツから通っていた労働者も10000人いたという。

 

この「教室」の生徒たちは年齢的には高校3年生。卒業試験を通れば、一般の労働者ではなくホワイトカラー層へ転ずることができる優秀な生徒の集まり。多くが西側への強い好奇心も併せ持っている。

 


テオとクルトは祖父の墓参りを理由に、西ドイツの映画館でハンガリーの民衆蜂起を報じるニュース映画をみる。


ふたりは東に戻り、パウロという生徒の祖父の家で西ドイツのラジオ局RIAS(Radio in American Secter)を聞き、クラスでハンガリーの民衆への黙とうを捧げることを提案。

 

強硬に反対するエリックという生徒、彼が後半重要な位置を占める、この時教師が教室に入ってくる。誰一人教師の質問に答えず、結果的に全員で2分間の黙とうを決行。

これを問題視した学校側は、一時はプシュケという人気のサッカー選手への追悼だという生徒たちの意見にいったんは収束させたかにみえるが、学校の中の党員の教員がこれを問題視。

党の女性調査員が派遣される。この演技がすごい。


埒が明かないまま、人民教育相が直接学校に出向くことになる。教育相は、この事件は社会主義国家への明らかな反逆と断定、首謀者を明らかにするよう生徒たちに宣告する。生徒たちは仲間を密告するか上級学校への進学をあきらめるかを迫られる。

 

映画は、それぞれの事情を抱えた高校生たちの揺れ動くさまと、暴力以外の徹底した追及によって社会主義体制を守ろうとする官僚たち、市議会議長を務める父親とクルト、かつては1953年の東ベルリンの民衆蜂起に参加した父親とテオ、そして英雄と信じていた父親がナチスに協力していたことを伝えられるエリック(調査員は見せしめに首を括られる写真をエリックに見せ、この写真を表ざたにされたくなかったら密告せよと迫る)、テオとクルトの恋愛模様も絡め、生徒の連帯は分断されかかっていく。

 


エリックは父親の写真に耐えきれず、射撃練習を受け持つ教官を衝動的に撃ってしまう。クルトはこの写真に市会議長を務める父親が映っていることを見つける。
テオの父親は民衆蜂起の際に教育相に何らかの形で助けてもらったことあって、何とか手を助けるために教育相に直訴する。そして「クルトが首謀者だったと言え」とテオに命じる。

f:id:keisuke42001:20190701113952j:plain


党の中で政治家として生きる道を選んだクルトの父親、その夫に暴力的に支配される母親、しかし母親はクルトに西ドイツに逃げることを勧める。

西ドイツに向かう列車の中で拘束されるクルト。呼び出される父親は「息子は祖父の墓参りに行った。必ず家に戻させる」と当局に請け合う。向かい合う二人、握手を交わす親子、父親が来るに向かって言う。「夕飯までには帰ってくるんだぞ」。すごいシーンだ。


そして「首謀者」クルトのいない教室で、調査員はクルトが西側に逃げたことを伝え、クルトが首謀者だと一人ひとりに認めさせようとする。

テオは云う。「皆で決めた」。

一人ひとり立ち上がって「皆で決めた」。

 

闘い取った権力も必ず腐敗し、民衆を抑圧する装置に転化する。ナチスとの壮絶な闘いに勝利し建設された社会主義国東ドイツだからこそのねじれた抑圧構造がよく描かれていると思う。


この構造は、ある意味普遍的なものでもある。教育を無前提に「善なるもの」とする教師たちは、生徒をよい道に導こうとして生徒を精神的に抑圧、蹂躙する。『きみたちのためだ』という呪いの言葉とともに。


ラース・クラウメは、アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男」(2016年)をつくった監督。重厚だけれど、心理描写に長けた素晴らしいつくり手だと思う。

 

 

 

見逃し映画の覚え書き⑤『夜空はいつも最高密度の青色だ』『サニー強い気持ち 強い愛』

6月27日
昨日、『夜空はいつでも最高密度の青色だ』のブルーレイを少し遠いTSUTAYAで借りてくる。いつも行くTSUTAYAにはなかった。

 
午前中、昭和大学藤が丘病院、診察。Mさんもついてきてくれる。

クルマで行ったので早く着いてしまいTully’scoffeeで時間をつぶす。

 

診察はほぼ予約時間通り。CTの結果を聞く。特に大きな問題もなく予定通りの手術を行うとのこと。近藤(誠)理論も気にかかるが、いろいろ考えた末、同意する。

サポートセンターにて入院の手続きと説明。入院の前に細かいヒアリングが必要とのことで来院しなければならないとのこと。

 


お昼時なので、青葉台『めん処しかた』へ。隣のお好み焼きの『福』には何度か呑み会で来たことがある。姉妹店のようだ。

「しかた」はラーメン屋としてネットで評判が高く、人気店。ぐるなびでは3.5。初めて入店。

Mさんはゆず塩ラーメン、私は塩ラーメン。けっこうな時間がかかって運ばれてくる。細麺。九州ラーメンの麺ほどではないが、それほどプリプリしていない。スープ、うまいけど感動はない。チャーシュー、これはほろほろと崩れて美味。ひとことずつ感想。Mさん「高い」、私「ぬるい」。酒のつまみに注文したザーサイ、これはしゃれにしゃれていた。価格も立派だが。

f:id:keisuke42001:20190629160803j:plain


午後はDVD。



きみの鳥はうたえるは映画も石橋静河もびっくりするほど良かった。それで初主演の本作ではどうなのかとTSUTAYAでレンタル。

f:id:keisuke42001:20190629123655j:plain


石井監督の作品は川の底からこんにちは』(2010年)『あぜ道のダンディ』(2011年)をみた。2作品ともそこそこ楽しめた。『町田君の世界』が今月公開。


で、『夜空~』。悪くはないけれど…。

何か伝えたいものがあって、断片を組み立てていこうとしていることはわかる。しかし、どこかぎこちない。

 

松田龍平池松壮亮田中哲司もいい。部分部分はいいのに、全体的につくりものっぽさがあるのはどうしてか。都会の片隅で掃き捨てられるような生き方をしている男たちがいて…、都会ではみなスマホを見続けていて…親子関係には深い溝があって…的なステロタイプが映画を安っぽくしているように思えた。

 

リアリティ、厚みを感じないというか。最果タヒに引っ張られすぎている?

その中で美香(石川)と慎二(池松)のからみはよかった。いつも「死」を抱えて生きている若者のこわれやすさに共振する二人。石川静河はまだ未開花という印象。

 


『サニー強い気持ち 強い愛』(2018年8月公開・日本・監督大根仁・出演篠原涼子広瀬すず小池栄子ともさかりえ渡辺直美

f:id:keisuke42001:20190629123841j:plain


『サニー 永遠の仲間たち』(2011年・韓国)のリメーク。換骨奪胎?大事なエキスが抜けてしまっていて面白くない。何が足りないか。

f:id:keisuke42001:20190629124055j:plain『サニー永遠の仲間たち』

懐かしいばかりの青春ではなくて、ひりひりするような痛みのようなものがない。家族関係や仲間とのつながりのどうにもならなさ、焦燥感のようなものが韓国版にはあった。

f:id:keisuke42001:20190629123902j:plain

1989年の街頭での市民と権力の対峙がベースにあったせいもあるが、日本版では90年代の女子高生全盛時代?の風俗だけがトピック化されていて、演出に時代的な深みがない。震災の影響を受けているはずの広瀬すず(現代のシーンは篠原涼子)が抱えているものがちっとも迫ってこない。広瀬の痛みも伝わってこないし、現代の篠原涼子も同様。娘との薄い関係や夫との冷えた関係もほおりっぱなし。全体に見かけだけを真似たやすっぽいリメーク版だと思う。笑えるところはいくつもあったが。

この年代の女の子たち、自分たちのグループを『サニー』と名付けるか?

 

 

夜、Rさんのお母さんから電話。わざわざ弔問のお礼に電話をくださったのだ。

お母さんと最後にお話ししたのは28年も前のこと。声はよく覚えている。

 

病気の発症、1年に及ぶ看病、娘婿、孫たちのこと。思春期で難しいこともあって…と、ご夫婦で大変な苦労をしながら娘の家族を支えてこられたことが伝わってくる。一人娘をこんなに早く亡くしてしまって、悔やんでも悔やみきれないとの嗚咽が受話器から聞こえてくる。

すこしだけ中学時代のRさんの話をすると、
「うちの子は影の薄い子ではなかったですか」と云う。

そんなことはない。毎日、毎日続く「荒れ」に疲弊していた学級担任の私がクラスに戻ったとき、「荒れ」をものともしないで、安定して生活していた何人もの生徒の笑顔にどれだけ救われたか。

Rさんもその一人だった。文化祭では、当時人気絶頂だったちびまる子ちゃんを題材に「マルちゃんクイズ ズバリそうでしょう」という企画を立てた。教室中にマルちゃんのキャラクターを張り巡らし、回答席を4つ作り、ボタンを押すとピンポンとなって光るライトも用意した。たくさんの人が来てくれて、明るい文化祭になった。その中心になっていたのがRさんだった。


「情けない担任を陰でずいぶん助けてくれたんですよ」と云うと「そうですか」とちょっと笑い声。


15分ほどの電話を切ってから考えた。43歳になったRさんはどんなふうな大人になっていたのか。かなうはずもないことだが、話してみたかったなと思う。

                       

 

Rさんのお通夜  生死する命を精いっぱいに生きていくこと

6月26日
昨日、午後から昭和大学でCTを撮る。造影剤を入れるのは初めて。からだが熱くなる。

 

いったん帰宅して弔問へ。

91年にU中を卒業したRさんという生徒のお通夜である。22日に卒業生のI君が知らせてくれた。


享年43歳。中学時代、ショートカットで小柄な落ち着いた「お姉さん」的な生徒だった。中1と中3で学級担任をした。脳腫瘍。早すぎる死である。


Mさんに瀬谷駅までクルマで送ってもらう。相鉄で横浜に出て京浜急行に乗り換え、快速特急金沢文庫


式場は弔問客でいっぱい。3人の子どもさんの同級生、制服姿の中学生、高校生も多い。


焼香は5人並んで。みな故人への思いがあるのだろう、一人ひとり熱心に手を合わせているせいか、なかなか進まない。

あと2列となったところで、親族席のお兄ちゃんとお母さんから目で挨拶される。お兄ちゃんの授業も2年間もった。お母さんとは懇談会や面談で何度も。思わず目頭を押さえられたのでこちらもこみ上げてくる。

遺影は中学生の頃の面影をわずかに残しているが、私の知らない大人の笑顔のRさんだ。勉強がよくできて、スポーツも得意、バスケットボール部ながら運動会ではリレーなどで活躍する女生徒だった。供花の中には高校のバスケットボール部の同期からのものがある。

I君からの電話の後、同じクラスだったKさんという卒業生と電話で話した。Kさんは、フリョ―女子グループのトップで、3年間を私のクラスで過ごしたが、彼女は今でもRさんを○○ちゃんと呼ぶ。一目置かれる存在だった。

f:id:keisuke42001:20190628101358j:plain

 

焼香をしてなんとも胸塞ぐ思いで、お清めには寄らず会場をあとにした。

 

帰途の電車、弔問お礼のはがきとともに小さな紙が入っているのに気づく。
「私たちは清め塩を使いません」とある。浄土真宗のお寺は関東にも多いが、こうして「清め塩を使わない」ことを明示することは少ない。文は、仏教では死を穢れとは受け止めないとして、
『「死もまた我等なり」と受け止め、生死する命を精いっぱいに生きていくことこそ人間としての生き方であると示しています』とあった。少し気持ちが柔らぐ思いがした。

 

寝る前、I君から電話が入っているのに気づく。

 

見逃し映画の覚え書き④『運び屋』『ファイティン』『サニー32』『ハードコア』『きみの鳥はうたえる』

6月25日

梅のヘタを取って2日目。もう梅酢が上がった。透き通った黄金色の白梅酢だ。

梅ジュースづくりもあわせて、朝からMさんの作業が続く。

f:id:keisuke42001:20190625131440j:plain

 

見逃し映画の覚え書き④


『運び屋』(2018年・アメリカ・116分・原題“The Mule”・監督クリント・イーストウッドブラッドリー・クーパー・2019年3月公開)★★★★

f:id:keisuke42001:20190625131751j:plain


 時間があわずに見逃した1本。87歳の退役軍人で家族をほおりっぱなしの人生を送ってきた思い込みの強い老人。クリント・イーストウッドの演技が演技にみえない。それほどのリアリティー。セリフ一つに顕われる意固地さとユーモア、家族への思い、そんなものが、彼が声にして出すと自然と深い陰影がついて伝わってくる。みていて「こんな映画がみられて幸せだな」とつくづく思う。テーマはあえて言えば「家族」ということになるのだろうが、テーマ性などどうでもよい。こちらの気持ちを映画に同期させる感覚。クリント・イーストウッドはどこまで行くのだろう。

 

『ファイティン』(2018年・韓国・108分・原題“Champion”・監督キム・ヨンワン・主演マ・ドンソク・2018年10月公開)★★★

f:id:keisuke42001:20190625132029j:plain

 

マ・ドンソクは『殺されたミンジュ』『新感染ファイナル・エクスプレス』でみたが、あくの強い俳優。本作では生後すぐにアメリカに養子に出されたアームレスリングの選手を演じている。チャンピオンを目指すも若いマネージャーに誘われ韓国に。母の住んでいた家を訪れるが、母はすでになく、「妹」家族が住んでいる。
裏社会もかかわるアームレスリングの大会が開かれ…。


すじは想像からほとんど外れず、スポーツものの王道をいっている。怪力のマ・ドンソクと妹の娘・息子のからみがかわいらしいし、「妹」との微妙な気持ちのゆれもいい。楽しく見られた。

 

『サニー32』(2018年・日本・110分・監督白石和彌・出演藤井赤理・門脇麦ピエール瀧・2018年2月公開)★

f:id:keisuke42001:20190625132307j:plain

ポスターはいい出来なのに。

白石和彌という監督は、最近では『虎狼の血』『彼女がその名を知らない鳥たち』がかなりよかった。『止められるか俺たちを』は今一つだったが、ちょっと古くて『凶悪』などもよかった。しかし本作はどうしたことだ。ひどい。最後までみられなかった。

 

『ハードコア』(2018年・日本・124分・監督山下敦弘・出演山田孝之佐藤健荒川良々・2018年11月公開)★★★
コミック『ハード・コア 平成地獄ブラザーズ』(作・狩撫麻礼、画・いましろたかし)の実写映画化。
山田孝之が主演とプロデュースを務めたのだとか。私は山田と荒川のからみが見たくてレンタル。そうしたら佐藤健がいい味を出していた。いちばんの役者は、「ロボット」。ぶっ飛んだ映画だが、楽しめた。

f:id:keisuke42001:20190625132419j:plain

 

 

クワイアットプレイス』(2018年・アメリカ・90分・原題“A Quiet Place”・監督・主演もジョン・クラシンスキー・2018年9月公開)★★★★

f:id:keisuke42001:20190625132541j:plain



 「…音に反応して人間を襲う「何か」によって人類が滅亡の危機に瀕した世界で、「決して音を立ててはいけない」というルールを守り、生き延びている家族がいた。彼らは会話に手話を使い、歩くときは裸足で、道には砂を敷き詰め、静寂とともに暮らしていた。しかし、そんな一家を想像を絶する恐怖が襲う。」(映画ドットコムから)


彼らを襲う「怪物」は、後半姿を現すが、既視感のあるもの。気持ち悪いが、動けば人間がつくったものとわかる。その程度。前半のまだ姿を現さないシーンでの音に対する恐怖感がすごい。

 

聴覚障害のある娘と父親の気持ちのずれが怪物との戦いに影を落とす。ホラー映画ではあるが、それにとどまらない深みのある映画。夫婦だそうだが両親役を演じたジョン・クラシンスキーとエミリー・ブラントの演技がみもの。

 

『君の鳥はうたえる』(2018年・日本・106分・監督三宅唱・出演柄本佑染谷将太石橋静河・2018年9月公開)★★★★★★


やっぱりちゃんとスクリーンで見るべきだった。原作は読んだけれど、時間があわずに見られなかった。


いい映画は原作を越える。独特のカメラワーク、セリフの少なさと込められたもののうらはらさ、心象と画面の絶妙な一体感、音楽が入るタイミングにも驚かされた。DVDで見ているのに、睡魔は全く襲って来ず。終わってほしくないなあと思いながら最後まで。函館が舞台だし、もちろんそこは日本なのだが、この映画、日本であることなんてあまり意味はないんだな。ヨーロッパの傍流?の国、首都でないひなびた田舎町、あるいは台北シンガポールやソウルではないどこかの地方の小都市、背景の「街」と対照的な「適当」なかつ「誠実」な若者が生きてうごめく映画だ。

クラブでの佐知子(石川静河)のダンス、どう表現すればいいのかわからないが、映画の流れの中でのダンスの絶妙なフィット感、ああいうシーンが苦もなく撮られている。カラオケボックスでの佐知子の独特のバージョンの「オリビアを聴きながら」も同様。映画の中で踊ったりうたったりしてしまえば、ミュージカルででもない限りわざとらしくなるのは避けられない。それなのにこの映画は歌もダンスも映画の中にはまりすぎるほどはまっている。

 

石橋静河のもつ雰囲気、謎の女でもなんでもない、かといって普通とは言えない女の子。石橋の中から湧き出たものと演出から出てきたもの。どっちでもいいが、とってもいい。静雄(染谷将太)が身にまとう独特の空気、いつもどこか移ろう視線がいい。なにより柄本佑!惚れたな。こういう役者になったんだ!

 

元気が出るような映画ではないけれど、見終わったのは夕方だったが、なにかからだの中に熱いものが充填されたような心地よさを感じた。これってまだ若いてことか?

f:id:keisuke42001:20190625132925j:plain

 

読み飛ばし読書備忘録③ 『余白の春』『ツリーハウス』『風葬』『ぷかぷか』

6月23日

沖縄慰霊の日。

来賓あいさつの安倍晋三、早く終わりたいと思っているのか、いつも以上に早口。言葉から意味が上滑りするのは、思ってもいないことを口に出さなければならないからだ。テレビで見ていてもヤジがはっきり聞こえてくる。現場ではかなりの迫力だろう。

摩文仁の丘も、雨。

 

午前中、つれあいの梅干しづくりの作業の一部を請け負う。毎年のこと。梅のヘタ取り。爪楊枝でヘタをつついて取り出す。約500個だとのこと。部屋中に梅の香が漂う。らいは床に広げた梅を不思議そうに眺めている。今日も曇天、時々小雨。

f:id:keisuke42001:20190623161338j:plain

読み飛ばし読書備忘録③
4月からの「読み飛ばし」、あと少し。


『ぷかぷか』(高崎明・2019年・現代書館)★★★★

f:id:keisuke42001:20190623161645j:plain


「ぷかぷか」は、障がいのある人たちと一緒に生きていった方がいいよ」
「その方がトクだよ」
と言い続け、そのことを実感できる関係をさまざまな形でつくってきました。そのおかげで『ぷかぷか』の周りには、障がいのある人はいて当たり前であり、むしろいた方がいいと思う人がたくさんいます。彼らとの関係も、上から目線で何かやってあげるとか支援するとかではなく、どこまでも「一緒に生きていくといいよね」「一緒にいると心ぷかぷかだよね」という関係です。
・・・・・
何より怖いのは、そういった大人たちの思い込みがそのまま子供たちに引き継がれることです。排除・差別の再生産です。そんなことが子どもたちに引き継がれていくとき、社会はどんどん貧しくなっていきます。
・・・・・
どうしてこういったことが起こるのか。それは小さなときから障がいのある人たちと健常と言われる人たちが分けられていることが大きな原因だと思います。障がいのある人人たちのことを知る機会ほとんどないのです。
・・・・・
同じ社会にいながら、障がいのある人たちとおつき合いする機会がない、というのは、社会にひずみをもたらします。お付き合いがなければ、社会の多くの人たちは「障害者は何となくいや」「こわい」「近づきたくない」「社会のお荷物」「生産性が落ちる」などと思ってしまいます。そういう思いがさまざまな形で彼らを私たちのまわりの社会から排除してしまいます。
・・・・・
「ぷかぷか」に来るとホッとする、というお客さんが多いのは、その息苦しい社会を反映しているのだと思います。
・・・・・
こんなふうにして「ぷかぷか」は、仕事をしながら、障がいのある人たちと健常者と分けられた社会を今日もせっせと耕し、
「一緒に生きていくといいよね」
って思える社会をつくっているのです。誰にとっても居心地のいい社会です。
                            (あとがきから)
・・・パン屋(カフェベーカリー「ぷかぷか」)とカフェから始め、4年後に「おひさまの台所」(弁当、惣菜のお店、5年後に「アート屋わんど」(アートスタジオ)、8年後にカフェに変わって「ぷかぷかさんのお昼ごはん」(ぷかぷかさんと一緒にお昼を食べる食堂)を始めた。現在4店舗。「ぷかぷか」で働く障がいのある人(ぷかぷかさん)は開店当初は10名、9年たった現在は42名。スタッフは27名。
                           (巻末の著者紹介から)


*著者は元養護学校教員。退職して横浜の旭区での地道な取り組みを続ける。
「街を耕す」という言葉が印象的。

 

風葬』(桜木紫乃・2016年・文春文庫・単行本2008年)★★★★
「矢島の家が燃え川田親子と会った日以降、来ようという気持ちにもならなかった場所へなぜ今になって―自問するもうまい答えは浮かばない。/資材置き場も岩場に打ち寄せる波も、何も変わったことはなさそうに見えた。空の色をまっすぐに映して、オホーツクブルーが鮮やかだ。この穏やかな海のどこに、陰惨な出来事を包み込む場所があるのか想像もつかない美しさだった。/資材のすき間を抜けて断崖縁に立った。深呼吸をする。ぐるりと岬を取り囲む景色を視界に入れた。この海を美しく見るも見ないも自身の心ひとつというのなら、この世は何というあやふやなもので成り立っているのだろう。」                              (210頁)
*オホーツクの海に覆われた人々の思いがひとたび暴かれると…。拿捕とか遊郭とかマフィアという言葉がリアリティをもつ歴史と地理的特性。

f:id:keisuke42001:20190623161815j:plain

 

『ツリーハウス』(角田光代・2013年・文春文庫・単行本2010年)★★★★★
*西新宿の中華料理屋「翡翠飯店」。じいさんが死んだことをきっかけに、今まで互いに干渉もせず暮らしてきた家族に戦前からの長い歴史が横たわっていることに気がついていく。祖母と祖父の生きてきた満州とそこで得ざるを得なかった深い悔恨。現在の家族が過去への単なる踏み台ではなく、つながっているからこそ迫ってくるものがある。角田光代という人の中にはどれほどの物語が埋蔵されているのかと思う。

f:id:keisuke42001:20190623161936j:plain

 


孫と叔父とともに現在の中国を訪れた祖母ヤエは2人をそばにおいて、昔世話になった食堂の前で、江和になった人たちとは全く違う人たちに向かって突然語りかける。
「…日本に帰って私は恥ずかしかった。私も夫も恥ずかしかった。私も夫も逃げたんです。死ぬのがこわかった。死ぬのがこわいのはみんな同じなのに。でもみんな死んでいった。だれも逃げなかった。それなのに私たちは逃げた。そんなこと言えずに暮らしてきたんです。あなたたちのことだって忘れていた。毎日毎日のことでいっぱいで忘れてたんです。ここに来ることがもう一回あるなんて思いもしなかった。来てみたってあのころとはもう何もかも違う。知っているものなんて何もない。でもねえ、広場の木、あのおっきな広場を縁取るように気が植わっていて、それを見て、私思ったんですよ。逃げてよかったんだって。あなた方に助けてもらってよかったんだって。こんなに長く生きてはじめて思ったんです。何をした人生でもない、人の役にも立たなかった、それでも死なないでいた、生かされてきたんです。それでどうしてもお礼が言いたかった。よかったら置いていきます、この子でも、となりにいるもう一人、もうじいさんだけどけれどもおいていきますから働かせるなりなんなりしてください」(437頁)

 


『余白の春』(瀬戸内寂聴・2019年・岩波現代文庫・初版は1972年・瀬戸内晴美中央公論社)★★★★


発表は瀬戸内晴美名義。50歳のころの作品。今回、『金子文子と朴烈』映画化で重版されたが、初版は47年前。同じころに『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』を読んだ記憶があるが、この本は読んでいない。
朝鮮訪問も含めて全体に無駄な力が入らずに、史実に忠実に淡々と金子文子の生涯を追っている。
平塚らいてう伊藤野枝のような近代女性史に残るような人ではなく、企図したわけでもない大逆罪を引き受け、若くして獄死した金子文子。彼女の手記『何が私をこうさせたか』は別に触れるが、瀬戸内晴美の中で響いている金子文子の声はなんと魅力的で生への意欲が充溢していることか。鶴見俊介が云うように、無籍者として学校教育から排除され続けたことが、かえって彼女に驚くべき思想的な広がりをもたらせたようだ。
瀬戸内晴美が文子に語らせる。
「ええ、でもね、私、このごろ、自分でもよくわからないのよ。何かしきりに心がさわいでいるのだけれど、自分が何をしていいかわからない。このままじゃだめだけれど、それは苦労することなんかじゃないような気がするのよ。私何かやりたい。やらなければならない。でも、それじゃ何をすればいいかというと、漠然としてわからないの。本当に今、私は何をやるべきなのか。それを必死で考えあぐねている状態よ」
「もう少し説明してくれないとわからないな」
「私はこれまで自分の若さのありったけをかけて、苦労して、なんとしてでも偉い人間になりたかった。それを目標にして上京以来がむしゃらに生きてきたわ。でもこの頃、つくづくわかったのよ。今の世の中では苦労なんかしたって偉い人間になれるはずがないということを。いえ、それよりも偉い人間になんていう者ほどくだらないものはないということが。人に偉いと言われたって何になるのかしら。私は人にために生きてるのではないのだもの。私は私自身の真の自由と満足を得るために生きているのじゃないかと思ってきたわ。私は私自身であればいいのよ、私は…」(210頁)
文子18歳のころ。

f:id:keisuke42001:20190623162106j:plain

 

2020年度大都市部の教員採用状況と代替教員不足について。なり手は減り続け、代替教員も不足。 下がり続けているのは倍率だけではないということだ。

6月22日
朝から曇天、予報はお昼前後に雨。

10時前に地下駐車場から地上へ出たところでフロントガラスに水滴がつく。

梅雨らしい天気。梅の時期である。

 

ふたりで毎年恒例の「みなべの南高梅」を買いにスーパーaveへ。

ここは1か月前から販売告知をしてくれる。時季になると2L~4Lまでの大量の梅の箱が店内に積み上げられる。毎年20㌔を漬ける。クルマには台車を積んでいく。

 

帰途、車内が梅の香りに包まれる。

 

f:id:keisuke42001:20190622175951j:plain

横浜市川崎市の教員採用試験の応募状況が新聞発表されている。横浜市への応募人数は6年連続減の3632人(前年度比509人減)。680人の募集に対して倍率は5.3倍。この30年で2番目に低いという。


川崎市は応募者が1257人(前年比262人減)。倍率は4.1倍。応募人数、倍率ともに近年で過去最少だそうだ。


校種別でみると小学校教員の倍率が横浜市3.7倍、川崎市3.4倍。際立って低い。募集人数が多いせいもあるかもしれないが、他校種に比べると大きな開きがある。

 


どちらの記事も、「教員の長時間勤務広く知られるようになったことが一因とみられる」と分析している。原因はそれだけではないだろう。小学校では英語が必修化された。授業以外の仕事が多いのはよく知られている。苦手な種目の部活動の指導を任されることもある。道徳が教科になったそうだ。保護者からのクレーム、モンスターペアレントもいる。先生たちは忙しくて新任教員の相手などしてくれない。残業手当てが出なくてサービス残業ばかりが多い。
根拠のあるものもないものもないまぜになって、今「教員は魅力のない仕事」になりつつある。

 

横浜市のこの記事の上にもうひとつこんな記事が。

f:id:keisuke42001:20190622180020j:plain



先生が休んで補填が効かず、授業ができなかったから成績が付けられなかったという。
驚くのは市教委のコメント。「通知表が空欄になるケースは聞いたことがない」。あっけらかんとしている。産休代替等の教員の欠員を補充するのは市教委の仕事。直接責任のない文科省が云うならともかく、人事を担当する市教委が「聞いたことがない」でいいのだろうか。

 

臨時的任用教員や非常勤講師の補充が難しいのは今に始まったことではない。私が現役だったころも、校長が「どなたかお知り合いでやってもいいというという方がいらっしゃれば…」と打ち合わせで云っていたこともある。一年の途中で市教委に登録している臨時教員志望者が払底してしまい、どうにもならなくなって「現場が自分で探す」ということになる。

 


殊に家庭科や技術科は難しい。というのも、この教科免許を所得している人がもともと少ない。とりわけ技術科は少ない。そのうえこの教科、表向きは一つだが、一部共修部分はあるにせよ中身は別の教科。それぞれ授業でやったことを持ち寄って、一つの科目として観点別成績をつけなければならない。どちらかが欠ければ教科としての統一した成績にはならない。


家庭科の先生が療養休暇に入り代替の教員が来なければ授業ができず、実習もテストもできなければ技術家庭科の成績はつけられない。
これが国語や英語など複数の教員がいる場合は、代わりに授業を分担するなどしてしのぐ。これがかなりの労働強化となるのだが、なかなか省みられないのも事実だ。

 

代替教員の多くは定年退職者などにあたることが多い。新たに研修をする必要もなく、キャリアも積んでいるので児童、生徒への対応も事務仕事もスムーズだからだ。ところが近年、これが難しくなってしまった。


「教員免許更新制」である。10年ごとの免許更新が義務付けられた「更新制」が施行されたのは2009年。運転免許と違って、退職してまで大金支払い、大学に通って免許更新を行う人は少ない。代替教員の供給ができにくくなった原因の多くはこの免許更新制にある。

 

若い教員が増えている現在、産休、育休に入る教員も多い。ところが「魅力のない仕事」に就こうとする学生も少ないし、シルバー人材の払底となれば、どこに教員のなり手を求めればいいのか。
文科省は今になって慌てて、更新をしていない教員でも「特別免許」を交付するなどと云い始めている。自分で仕掛けた罠にはまってしまったようだ。

 

 

さて採用試験の倍率の低さだが、横浜、川崎に限ったことではない。採用人数の多い大都市部ではみな同じ問題を抱えている。互いに出張って行って志望者を獲得するための方策がいろいろと講じられているようだ。


しかし、売り手市場と言われる昨今、教員採用試験に合格しても採用までこぎつけられる人は多くはない。1次2次試験の合格は「即採用」ではないからだ。

自治体の教員数は教員定数法に縛られており、独自予算を出さない限り人数はきっちり守られなければならない。となるとたとえ合格しても正式採用の通知は3月になってしまう。当然学生は不安だから民間企業などから内定をもらっている学生はそちらに逃げてしまうケースが多い。

抜けた部分を順次繰り上げて採用することになれば、実質倍率はもっと下がることになる。

なり手は減り続け、代替教員も不足。

下がり続けているのは倍率だけではないということだ。

ちなみに年度末に判明する実質倍率だが、あまり目にしたことはない。