『コレット』『僕たちは希望という名の列車に乗った』(ネタバレあり)

6月28日
新百合ヶ丘の川崎アートセンター、アルテリオ映像館へ。本日レディスデー、座席は100席とちょっとしかないので早めに出かける。上映40分前に到着。


コレット』(2018年・英米合作・111分・原題“Colette”・監督ウォッシュ・ウエストモアランド・主演キーラ・ナイトレイ・5月17日日本公開)


整理番号30番。なかなかの人気。監督ウォッシュ・ウエストモアランドはアリスのままで』(2015年)の共同監督。

 

…フランスの片田舎で生まれ育ったコレットは、14歳年上の人気作家ウィリーと結婚し、それまでとは別世界のようなパリへと移り住む。芸術家たちが集うサロンで華やかな生活を送る中、コレットの文才に気づいたウィリーは、自身のゴーストライターとして彼女に小説を書かせる。そうして彼女が執筆した「クロディーヌ」シリーズはベストセラーとなるが、コレットは自分が作者であることを世間に認められない葛藤に苦しめられることになる。保守的で男性優位な当時の社会にあっても、ありのままの自分を貫き才能を開花させていったコレットを、ナイトレイが演じた。(映画ドットコムから)

 

19世紀のパリが舞台。なのに役者はみな英語を話す。言葉の意味は聞き取れなくても雰囲気は感じたい。ちょっと残念。


シドニー・ガブリエル・コレットを演じるキーラ・ナイトレイが魅力的。初めて見る女優だと思って調べてみたら『私を離さないで』(2011年)のルース役。全く対照的な役柄。結びつかなかった。数年ですごい変貌。

 

シドニー・ガブリエル・コレットは「フランス文学界でもっと知られた女性作家」だそうだが、フランス文学界は未知の世界、初めて耳にした作家。1873年生まれで、映画で描かれる時期は20歳からの数年間だから19世紀末から20世紀初めが舞台ということになる。

f:id:keisuke42001:20190701113842j:plain



グーグルでシドニー・ガブリエル・コレットを検索すると、作家というより女優のようなポーズをとった写真がたくさん出てくる。その中にキーラ・ナイトレイの『コレット』写真もまじっているのだが、カラー、モノクロの違いはあれ甲乙つけがたい美しさだ。コレットの方は古い写真のせいかどことなく品がある。


映画の中にナポレオン三世の血をひくという男装の麗人ミッシーが出てくるが、彼女の姿を模した短髪のコレットの写真もある。コレットは強い自己顕示欲とスキャンダラスな面を合わせ持ってはいたが、ミッシーとの関係も併せて、同性愛を「病気ではない」ことを世間に知らせた功績もあるという。

 


映画の後半でコレットはミッシーに惹かれて、ともに旅に出、ともに舞台に出たりする。夫のゴーストライターをやめ、自分の名前で小説を発表するようになっていくコレットの知性と奔放さをキーラ・ナイトレイがとっても魅力的に演じている。

前半の夫ウィリーとの愛憎取り混ぜたやり取りも一辺倒でなく、幾重にも織りなされる感情のひだを上手く演じるものだなと感心した。

 

繰り返すが『私を離さないで』のルースとこの映画の中のキーラ・ナイトレイがどうも結びつかない。女優としての技量の高さと演出に応える能力の豊かさなのだろうか。

 

19世紀の作家の伝記映画を、女性の変転の歴史として魅力的に描いた監督ウォッシュ・ウエストモアランドの手腕は侮れないと思う。

 

 

次の『僕たちは~』まで30分ほどの幕間。ロビーにはけっこうな人数が待っている。コンビニでおにぎりと飲み物。イートインはなく、会場内は飲食の「食」だけ禁止だとか。

入場が始まって座席を確保したうえでいったんロビーへ。空いている席で10分間の昼食。血糖値が上がる最悪の食べ方だが、字義通り?背に腹は代えられない。

 

『僕たちは希望という名の列車に乗った』(2018年・ドイツ・111分・原題“Das schweigende Klassenzimmer”監督。脚本ラース・クラウメ・主演レオナルド・シャイヒャー・2019年5月日本公開)


印象的な邦題だが、原題を和訳すると「静かな教室」。ディートリッヒ・ガルスカ手記の『沈黙する教室』に準じている。邦題は惹きつけるものはあるが、原題、原作にはそれ以上に含蓄がある。

 


1956年の東ドイツ。まだベルリンの壁は築かれておらず、まだ列車での往来が可能だった。東ドイツが西ベルリンを壁で覆うのが1961年。当時63000人が西ドイツの職場へ通勤、東ドイツへ西ドイツから通っていた労働者も10000人いたという。

 

この「教室」の生徒たちは年齢的には高校3年生。卒業試験を通れば、一般の労働者ではなくホワイトカラー層へ転ずることができる優秀な生徒の集まり。多くが西側への強い好奇心も併せ持っている。

 


テオとクルトは祖父の墓参りを理由に、西ドイツの映画館でハンガリーの民衆蜂起を報じるニュース映画をみる。


ふたりは東に戻り、パウロという生徒の祖父の家で西ドイツのラジオ局RIAS(Radio in American Secter)を聞き、クラスでハンガリーの民衆への黙とうを捧げることを提案。

 

強硬に反対するエリックという生徒、彼が後半重要な位置を占める、この時教師が教室に入ってくる。誰一人教師の質問に答えず、結果的に全員で2分間の黙とうを決行。

これを問題視した学校側は、一時はプシュケという人気のサッカー選手への追悼だという生徒たちの意見にいったんは収束させたかにみえるが、学校の中の党員の教員がこれを問題視。

党の女性調査員が派遣される。この演技がすごい。


埒が明かないまま、人民教育相が直接学校に出向くことになる。教育相は、この事件は社会主義国家への明らかな反逆と断定、首謀者を明らかにするよう生徒たちに宣告する。生徒たちは仲間を密告するか上級学校への進学をあきらめるかを迫られる。

 

映画は、それぞれの事情を抱えた高校生たちの揺れ動くさまと、暴力以外の徹底した追及によって社会主義体制を守ろうとする官僚たち、市議会議長を務める父親とクルト、かつては1953年の東ベルリンの民衆蜂起に参加した父親とテオ、そして英雄と信じていた父親がナチスに協力していたことを伝えられるエリック(調査員は見せしめに首を括られる写真をエリックに見せ、この写真を表ざたにされたくなかったら密告せよと迫る)、テオとクルトの恋愛模様も絡め、生徒の連帯は分断されかかっていく。

 


エリックは父親の写真に耐えきれず、射撃練習を受け持つ教官を衝動的に撃ってしまう。クルトはこの写真に市会議長を務める父親が映っていることを見つける。
テオの父親は民衆蜂起の際に教育相に何らかの形で助けてもらったことあって、何とか手を助けるために教育相に直訴する。そして「クルトが首謀者だったと言え」とテオに命じる。

f:id:keisuke42001:20190701113952j:plain


党の中で政治家として生きる道を選んだクルトの父親、その夫に暴力的に支配される母親、しかし母親はクルトに西ドイツに逃げることを勧める。

西ドイツに向かう列車の中で拘束されるクルト。呼び出される父親は「息子は祖父の墓参りに行った。必ず家に戻させる」と当局に請け合う。向かい合う二人、握手を交わす親子、父親が来るに向かって言う。「夕飯までには帰ってくるんだぞ」。すごいシーンだ。


そして「首謀者」クルトのいない教室で、調査員はクルトが西側に逃げたことを伝え、クルトが首謀者だと一人ひとりに認めさせようとする。

テオは云う。「皆で決めた」。

一人ひとり立ち上がって「皆で決めた」。

 

闘い取った権力も必ず腐敗し、民衆を抑圧する装置に転化する。ナチスとの壮絶な闘いに勝利し建設された社会主義国東ドイツだからこそのねじれた抑圧構造がよく描かれていると思う。


この構造は、ある意味普遍的なものでもある。教育を無前提に「善なるもの」とする教師たちは、生徒をよい道に導こうとして生徒を精神的に抑圧、蹂躙する。『きみたちのためだ』という呪いの言葉とともに。


ラース・クラウメは、アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男」(2016年)をつくった監督。重厚だけれど、心理描写に長けた素晴らしいつくり手だと思う。