広島の語り部山崎寛治さん逝く

6月20日
小田急鶴間駅にバスで出て、大和で快速急行に乗り換え藤沢まで。JR東海道線で大船。

久しぶりに組合の退職者の集まりに出席。

喫茶室ルノワールの一画での小さな集まり。

 

益子の関谷興仁陶板彫刻美術館・朝露館が話題となる。ここでアーサー・ビナードが紙芝居を上演するというチラシを見せてもらう。15日とあるので、もう終わっているが。

 

そういえば新聞でアーサー・ビナードが『ちっちゃい声』という紙芝居を童心社から出したという記事を読んだ。丸木俊・位里夫妻の『原爆の図』の絵を使い、アーサー・ビナードが脚本を書いたという。絵本『ここが家だ』と似たパターン。ともに歴史的な絵を現代によみがえらせる試み。

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ネットでみると4月から全国各地で出版記念イベントが開かれているようで、朝露館での上演もその一環のようだ。


アーサー・ビナードというとつい反応してしまう。

7年ほど前にお呼びして学年の生徒に話をしてもらったのだが、1時間半ほどの長尺を、生徒を引き付けて離さない話術の巧みさと、人間に対する深い敬意のようなものに打たれたからだ。

 

さて朝露館の関谷興仁さんは、詩人の石川逸子さんのお連れ合いなのだそうだ。先日もここで石川さんの自作の詩の労働句を聞いたというレポートがネットにあった。

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展示の一部
この美術館、陶板の造形物に被抑圧者に寄せた関谷さんの言葉が書かれた作品が中心に展示されている。しかし写真でしか見たことがない。アクセスがかなり悪いようだが、いつか訪れてみたいところだ。

https://youtu.be/_n2xAHwSpEY

 

 

 

広島の語り部山崎寛治さんが6月14日に亡くなられたという新聞記事を、中澤晶子さんからメールで送っていただいた。91歳。

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1991年、最初の広島の下見の時に、江口保さんの紹介で山崎さんとお会いした。山崎さんは当時60代前半。早期退職をして証言者の活動を続けていた時期だった。


山崎さんは広島二中の代用教員だった時に爆心から1500㍍の地点で被爆。現在平和記念公園の一部となっている天神町に居住しており、お母様をはじめ親族7人を失った。証言はそのひとり、山崎さんを兄のように慕っていたいとこの賢太郎君のお話が中心だった。

 


端正な風貌で、激せず静かに淡々と話される山崎さんの証言は印象深い。1時間以上にもなる証言者のお話を聴くのは少ししんどいかなと思われる生徒の多いグループでも、山崎さんの話に惹き込まれて聴き入っていたということが何度もあった。
証言は2000回を超えたという。数万人の子どもたちが山崎さんのお話をじかに聴いたことになる。

毎年のように、お世話になった語り部の方が亡くなる。

 

 

広島市被爆体験伝承者養成事業で「原発問題には触れてはならない」などの規制をかけてみたり、修学旅行誘致のために全国の教員を対象に「合宿」を開催、事前指導や事後指導について「指導」するという案も出している。
ピンぼけこの上ない。

なぜ広島の行政は真摯に学ぼうとしないのだろうか。

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6月19日付け日本経済新聞広島版(どことなく行政のリークっぽさが感じられる記事)

当事者ではない人々が行う伝承ということならば、アウシュヴィッツ= ビルケナウ強制収容所博物館で働く中谷剛さんの取り組みに、その思想や哲学ごと学んでみるべきだ。修学旅行を誘致するならば、江口保さんを嚆矢とする50年近い修学旅行を続けてきている各地の学校に学ぶべきだ。訪れた学校がつくる資料集や文集などの多くは資料館地下の図書室に寄贈している。私もいつも気にかけて送ってきた。しかしそれらが利用されているのを見たことがない。

広島市に対する要望も今まで何度か出してきたが、雨天時の講話場所すらまだまともに設置しておらず、有料の会議室すら奪い合いになるケースも少なくない。宿泊施設にしても短期間に集中する訪問に対応できるような体制もない。

修学旅行のための準備を広島で行うのは並大抵のことではない。下見のほとんどは語り部の方のお話と打ち合わせに充てざるをえない。土地勘のないところで3桁の生徒の集会所を確保するのは容易ではない。

そんな時、「修学旅行困りごと相談所」のようなものもあればと思うが、それもない。

これを多々一人でやっておられたのが江口保さんだ。「ヒロシマの修学旅行を手伝う会」を一人で立ち上げ、アパートを借り、下見に来る全国の教員の道案内と相談をうけもった。

現在の広島市は、たった一人の江口さんに全く及ばない。

 

来てもらう、学んでもらう、考えてもらうといった当たり前の真摯ささえあれば、出てくる政策も違ったものになるはずなのに。

 

さて喫茶室ルノワール。出席者のいちばん上の方が今年80歳。70代の方が多い。やはりテーマ?は病気、葬式、お墓の話。それぞれみなお金に関わる話になる。身につまされる思い。


明後日が夏至だとか。

 

日はまだ高い。久しぶりに同年のSさんと4時ごろから薄暮ゲーム開始。

 

 

『台湾セブンラブ』『赤い雪』ともにバットにかすりもしなかった。

いまだに1日に2,3本、映画をみる。

つれあいは「こんがらがってしまうから」と、ほとんど付き合ってくれない。

 

わざわざ郊外から1時間以上もかけて街に出てきて、映画1本を見てその日を終わりにするのはもったいないと思ってしまう。

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20代の前半、二番館、三番館で3本立て4本立てをみ続けていた時期があった。映画館の暗闇が心地よく落ち着くと思い込んでいたのは、やや病的でもあったのだろう。

 

今は少し違う。インターバルをあけながら、たいていは2本、ときに3本、ほぼ半日を映画館で過ごす。


数日前からタイムテーブルを見て、スケジュールを検討する。名画座は週決まりだが、シネコンは曜日によって上映時間が変わる。思い込みで失敗する時もある。

ときには映画館を渡ることも。時間が空けば途中で昼食をはさむ。映画でアタマがパンパンになった帰りには、店を選んで独酌(ひとり呑み)を企図する。

 

 

先日も「あつぎのえいがかんkiki」で2本。インターバル1時間でみた。


2本ともバットにかすりもしなかった。往復2時間半。大いに落胆。

用意周到、道具も身支度もしっかり固めて出かけたのに、ボーズで帰ってくる釣行のようだ。いや釣行ならば一日海を眺めているだけでも何か効用がありそうだが、映画は外れれば退屈なだけ。


『台湾セブンラブ』(2014年・台湾・116分・原題:相愛的七種設計 Design 7・公開2019年5月25日)

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6年前の映画だが「ぶっとびすぎ」である。

「愛をデザインする」をテーマに、台北の最先端?のデザイン事務所の恋愛模様をベースにした実験的なデザイン?が映像で次々と繰り出される。

テンポが速いし、先が見通せない。と、気がつくと出演者たちが「素」に戻って議論していたり。で、またストーリーに戻っていたりする。

セリフは矢のようで悪くはないし、色使いは極めて新鮮。でもついていけない。台湾映画への勝手な思い入れにしっぺ返しをされたようだ。


『赤い雪』(2019年・日本・106分・監督甲斐さやか・主演永瀬正敏菜葉菜井浦新佐藤浩市夏川結衣・公開2月1日)

メタファーと思われる事象やシーンがいくつも積み重ねられているのはわかるが、正直一人よがりだと思う。

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冒頭の漆職人の白川(永瀬正敏)の作業シーンなどとってもいいと思ったが、あとはただ重苦しいだけ。

白川の、消えた弟に関する記憶をめぐる物語。

だが、その物語が解けていかない。脚本の完成度の低さによるもの。

両親、とりわけ弟だけをかわいがる母親に疎まれた兄の心理をテーマとするのか、早奈江(夏川結衣)にネグレクトされる小百合(菜葉菜)が中心なのか。早奈江の保険金殺人事件が間に入っているのだが、これについても背景が見えてこない。小百合のバランスの悪さはわかるが、早奈江の人物像が提示しきれていない。


警察の捜査は杜撰だし、かつては早奈江と暮らしていて今は小百合と暮らす大学病院職員?宅間(佐藤浩市)の位置もよくわからない。暴力的でありながら性的関係が続いているのも。

毒婦?でネグリストの早奈江の来歴がよくわからないし、小百合自身の過去と現在、とりわけ旅館で働き、泊まり客の金庫から金を盗み、万引きを繰り返す現在の状況もよく見えてこない。エキセントリックではあるが、それだけ。

井浦新に至っては、被害者の近親であることは示唆されるが、途中で事故に遭って…。

 

ただただ画面は淡彩で暗く重い。漆が絞りだされるシーンや船の中で漆を塗るシーンなど思わせぶりだが。雪の山の中で白川と小百合が争うシーンなどリアイリティがないし、古い邦画のシーンを思わせる。画面の重さに比して、セリフが練られておらず、堂々巡りの感が否めない。

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撮り終えて編集を始めたら、あれもこれもとやっているうちに取っ散らかってしまったような印象。おおもとの脚本の精度の低さが露呈してしまっている。

豪華メンバーを配役に迎えているが、上手なのにとってつけたような演技にみえてしまうのは、物語に深みがないせいだと思う。


途中から付き合うのに飽きてきてしまった。楽しみはひとり呑みだけ。Tで八海山と焼鳥。

 

珍しく日曜日に映画へ行く。『誰もがそれを知っている』『ザ・プレイス 運命の交差点』そして『主戦場』。

6月16日 日曜日

あらかじめ決まった予定があるとき以外は、日曜日の外歩きは極力避けている。

人がたくさんいるところ、狭いところに人が集まっているのは居るのも見るのも苦手である。

 

昨日の夜、急に出かける気分になったのは、映画『主戦場』が気になっていたのと少し体調が回復気味だから。込むのを覚悟の上で出かけた。


伊勢佐木町のひとつ裏通りのシネマ・ジャック&ベティ、若葉町にあるが最寄り駅は京急線黄金町か市営地下鉄の阪東橋。どちらからも5分ほど。

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近くを流れる大岡川


『主戦場』は1日1回だけの上映。ここはすべて事前整理券配布方式。早ければ早いほど早い番号がとれる。1週間後の映画の整理券も入手できる。

 

10時40分到着。一階の入り口付近に客がたまっている。窓口へ。

『主戦場』上映5時間前で整理番号は27番。これなら通路側がほぼ確保できる。ベティの方はジャックより少しだけ広く115席。


11:00からは『誰もがそれを知っている』。これも人気で整理番号47番。2本目は『ザ・プレイス』整理番号10番。3本ともベティ。終わるとすぐ次が始まる算段だ。今日はポイントカードがいっぱいに。一本はタダに。


『誰もがそれを知っている』(2018年・スペイン・イタリア・フランス合作・133分・原題:Todos lo saben監督アスガー・ファルハディ・ペネロペ・クルスほか・6月公開)
監督のアスガー・ファルハディはおととし公開された『セールスマン』をつくった人。

これがとっても面白かった。心理的な機微を丁寧に描く人という印象。本作は『セールスマン』に比べて深みはさほど感じないが、とにかくよくできている、まとまっていると思った。若干長いかな?という感じもするが。

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https://youtu.be/lyNiznyEOhA


ストーリーは単純。妹の結婚式のためアルゼンチンからスペインの田舎町の実家に帰ってくるラウラ。子ども二人を連れているが夫は同道していない。

かつての恋人パコや家族と再会し、喜び合うラウラ。

教会の結婚式での神父の物言いに微妙な違和感があるが、その後は歌い踊るにぎやかなパーティーが延々と描かれる。そして停電。

雨が降ってくる。気分が悪いと部屋で寝ていたラウラの娘16歳のイレーネが誘拐される。高額の身代金の要求に家族それぞれの複雑な思いが交叉するが、そこに農園を経営するパコも加わるのは、農園の土地の購入をめぐってラウラ、ラウラの家族、パコには古い因縁があるからだ。


高額の身代金に対して、ラウラの父親、夫、兄弟、そしてパコ夫妻の思いが入り乱れる。そこにはラウラ夫妻しか知らない秘密が大きな要因となって横たわっているのだが・・・。原題のTodos lo sabenはそのまま「誰もが知っている」の意味。


身代金が支払われ、イレーネは帰ってくる。


ストーリーの面白さではなく、まさに人の心の機微、ずれ。人はこういうふうにしか生きられないものかという諦念。このへんにしておこう。ぎりぎりネタバレ回避というところ。演技の下手な役者ゼロ。画面の緊張感とリアリティーはかなりのもの。

 

 


『ザ・プレイス 運命の交差点』(2017年・イタリア・101分・原題:The Place・監督パオロ・ジェノベーゼ・主演バレリオ・マスタンドリア・4月公開)

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 私は見たことがないが、アメリカの4,5年前のテレビドラマ『The Booth 欲望を喰う男』のリメイク版だそうだ。


ザ・プレイスというカフェのはずれの席に終始陣取っている謎の男。この男を中心にして映画のシーンはすべてこのカフェの中だけ。

 

人生に悩みのある人々が次々に彼のもとを訪れて「願い」を伝える。すると男はそれぞれに具体的なミッション=交換条件を与える。

 

小児がんに侵された息子を救いたい男にはある少女を殺害すること、アルツハイマーの夫を治したい老妻には爆弾の製造と爆破を、息子とうまくいかない刑事は被害届の握り潰しを、もっと違う顔になりたいと願う女には窃盗を・・・。殺害の標的となった少女を「救え」というミッションも。

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ミッション遂行のシーンは一切なく、何度も彼のもとを訪れる依頼人たちの表情と物言いが次第に変化していくのが見もの。というか、これしかない。


いつも微笑んでいるやや妖艶なウエイトレスとの微妙な会話、謎の男は彼女の前では普通の男。

彼女は男が人々の運命を左右していることなど知るはずもなく、ジュークボックスから「サニー」を流す。こういう雰囲気がとってもいい。あざとい奇譚になるのを免れている。

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相談者はみな謎の男に反発するが、辿り着くのはみなそれぞれ、自分が願ったことのむなしさ、所詮、人は自分の枠を越えられないといったところに。

自分が実はどんな人間であったのかに気づいていく。

演劇的な映画で退屈と言えば言えなくもないが、私は愉しめた。彼が何のためにこんなことをしているのかも明かさず、疲労感の中に沈んでいくだけというのが、よくわからないのだが、いい。ほら、こんなに面白いぞといった匠気がないのもいい。


謎の男が面談するごとにペンで書き加える分厚いノート、運命を左右するかにみえるこのノートにサニーの歌詞が重なる。

よくもまあ、こんな映画、つくるものだ。

 

『主戦場』(2018年・アメリカ・122分・原題:Shusenjo: The Main Battleground of the Comfort Women Issue・監督ミキ・デザキ)


 『ザ・プレイス』をみ終わってロビーに出たら人があふれかえっていた。27番は正解。結局補助椅子まで出て150人くらい入ったのではないか。この様子だと上映は来週も続いて、ロングランになるのでは。


 この映画をめぐって、出演している保守系論者らが「商業映画への出演には協力していない」と抗議、上映中止を求めているという。これに対し監督の日系米国人のミキ・デザキ氏は、「彼らの声をねじ曲げたり切り取ったりしていない。(抗議は)自分たちの主張が大きく取り上げられると思っていたのに、内容が気に入らなかったのではないか」(東京新聞6月4日)としている。

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 藤岡信勝櫻井よしこケント・ギルバート杉田水脈など主だった右派論客のオールゲスト出演。これだけの規模で右派が自らの主張をしたのも珍しいのではないか。


 ミキ・デザキ氏は日本の従軍慰安婦問題や靖国、教科書などについて日系米国人の立場から素直な疑問を発し、きっちり整理しようとしている。

どう判断するかはみる方に任せている。

いたずらに右派論客を貶めてもいないし、左派に依拠しようともしていない。

ただそう感じられるのは、右派論客の主張があまりに皮相的で内容がなく、思い付きで学問的ですらないため、映画のなかでミキ・デザキ氏が簡単に反証してしまうせいかもしれない。そのぐらい彼らの、とりわけ国会議員杉田水脈のでたらめさは際立っている。

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 映画は従軍慰安婦の問題を中心に、日本会議と政権の蜜月、靖国神社の存在、教科書問題の推移など具体的に追いかけていて迫力がある。それは、具体的なエビデンスこそが重要であって、差別的な思い込みや勝手な読み替えは許さないという姿勢がしっかりとあるからだ。殊に従軍慰安婦問題については韓国の反応も含めて知らないことがいくつもあった。認識不足のところがよく分かった。


 味があるなと思ったのシーンが一つ。櫻井よしこに対し、「あなたは、従軍慰安婦問題について右派の主張を取り上げてくれるアメリカ人記者にお金を払いましたね」というインタビュアーの質問に、余裕の笑みを浮かべて「その質問には答えたくありません」とかわしたシーン。化けの皮がはがれても役者は役者。杉田水脈とは役者が違うと思われた。


いずれにしろ、私も含めてこうした映画をみて、「ほらね」と留飲を下げているようではしょうがない。

つくる会日本会議がこの20年で、たとえはりぼてであろうが、一定にその位置を築いてきたことは事実だ。たとえば教科書採択なども含めて彼らが市民を巻き込んだ独特の戦術を展開してきたことは間違いない。

いくらなんでもそんなひどいことにはならないだろう、とあるはずもない戦後民主主義の遺産に頼りきってきたこと、拠って立つ新たな基盤を見いだせず、現場での争闘に負け続けてきたことを忘れてはならないと思う。

抵抗はしてきたけれど、現場で何かをつくりだしてきたかと言われれば心もとないのは私自身でもあるからだ。

 

良質なドキュメンタリーである。上映が広がってほしい。

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読み飛ばし読書備忘録②

6月13日
 

きのうの深夜、気分の悪さに目が覚めてしまう。寒気。起きて熱を測る。

3,4日前からくしゃみが出ていて、風邪気味かなと思っていたのだが。

午前中から寝込む。季節の変り目にこういうことがよくある。

 

今日は庭師さんが入る日。

 

10年前にこのマンションに引っ越した。半年後、ここが終の棲家になるだろうと思い定め、何もなかった庭の造作をガーデニング業者に頼んだ。

 

敷石を巡らせたり、照明をつけたり、畳一畳ほどの畑をつくったり。娘たちの名前の入った花卉も植えてもらった。


以来、好き勝手に木を植えたり花を植えたりするだけで「引き算」はしてこなかった。

 

植物たちは順調に?成長し、その分陽当たりは徐々に悪くなっていった。とりわけ、分譲前に各戸の庭に一本ずつ植えられたシンボルツリー、拙宅はアラカシの木なのだが、この成長がなんとも著しい。一時、通販の代名詞だった高枝切りばさみを購入して剪定してきたのだが、追いつかず、今ではこんもりと繁って高さが6㍍ほどに。

 

3階の方の部屋の、床の高さを超えるくらいに伸びてしまっている。2階の方の部屋に至っては、ベランダのほとんどを覆ってしまっている。苦情を言われたことはないが、これではあんまりだろう、本気の剪定が必要だろうと本職の造園業に頼まなければと考えていた。

 

昨日まで降っていた雨もやんで今朝は快晴。

 

8時半ごろには職人さんがお二人でやってきて、作業が始まる。親方は、かつての同僚の叔父さんにあたる方、若い職人は従兄なのだという。

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作業を見るのを楽しみにしていたのだが、結局寝付いてしまった。

 

早い時間に作業は終わったようで、夕方起きだして眺めてみると、アカガシは根元から切られ、切り株だけが残っている。

隣の住戸に枝がはみ出していた豊後梅もさっぱりと。

ヒュウガミズキやナツハゼ、クチナシアジサイ、ユズ他もろもろの花卉が剪定されてみなこじんまりとなった。

 

陽当たりががぜんよくなった。

 

狭いけれど広々とした庭を眺めながらつれあいと「10年前って、こんなだったかねえ」などといい交わす。少ししみじみとする。

通夜に出掛ける予定だったが、気力が伴わずとりやめに。

珍しく酒も呑まず、おかゆを食べてまた布団へ入ってしまう。

朝まで眠ってしまった。

 

 読み飛ばし読書備忘録②


『蛇行する月』(桜木紫乃・2013年・双葉社

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「夜の底で輝いている色とりどりの電飾がぼやけた。/視界に、図書室の窓から眺めていた夏の湿原が広がってゆく。どこまでも緑だ。/湿原を一本の黒い川が蛇行している。うねりながら岸辺の景色を海へ運んでいる。曲がりながら、ひたむきに河口へ向かう。/みんな海へと向かう。/川は明日へと向かって流れている。」

◇釧路の自然と人々の心の移ろいがかさなって、物語が流れていく。

 

『ばらの祈り~死の灰を越えて』(佐々木悦子・粕谷たか子・矢部正美・2018年・明友社)

◇飯塚利弘氏の『死の灰を越えて~久保山すずさんの道』(1993年・かもがわ出版)をもとに朗読劇を演じてきた生協の母親のグループ、その脚本をもとに被災60年の2014年紙芝居「ばらの祈り」がつくられた。本書はその紙芝居の書籍化。英訳が付せられている。

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5月に東京・夢の島の「第五福竜丸展示館」がリニューアルオープンした。この本をくださった友人のAさんは新しい展示館を「いいのだけれど何か足りないような」との感想。もう何年も行っていない。

 

久保山さんと一緒に第五福竜丸に乗っていた23人の1人大石又七さんに、船底の前でお話を聴いたこともあった。学校にも来ていただいた。大石さんがまだ現役のクリーニング屋さんだったころ、若い先生と生徒がお店を訪れて講話のお願いをしたのだった。

林光さんのコンサートも行われた。久保山さんをモデルとした映画第五福竜丸』(1959年・日本・107分・新藤兼人監督・宇野重吉主演)の音楽を担当したのが林光さんだった。飛び跳ねるようにピアノを弾いていた。


被爆から63年経って、こうした絵本が出版される。すごいことだと思う。語り口は静かで絵は水彩、クレヨン、貼り絵、写真などで構成されている。久保山さんの葬儀の時の家族の写真も絵になっている。子どもたちが身をよじるようにして泣いている印象的な写真だ。

繰り返し、こうした出版が行われることで語り継がれていく。ベン・シャーンの絵にアーサー・ビナードが文章を付した絵本『ここが家だ~ベン・シャ―ンの第五福竜丸』(2006年・集英社もすぐれた作品だ。

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本書のタイトルの「ばら」は、久保山愛吉さんが大好きだったばらをすずさんがその後も育て続け、株分けをしたもの。展示館の「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」という久保山さんの言葉を刻んだ碑のそばに「愛吉・すずのバラ」がある。

 

寝ても覚めても』(柴崎友香・2018年・河出書房新社・単行本2010年)

◇なんともすてきな映画だったので、原作を読んでみようと思った。原作もすごい。一筋縄ではいかないのは映画も原作も同様。「恋とかって、勘違いを信じ切れるかどうかだよね」というふうに、語り手である「わたし」=朝子のエキセントリックさ、自分勝手さが人の「ほんとうらしさ」を見せてくれる。

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『ことり』(小川洋子・2016年・朝日新聞出版・単行本2012年)

「ことりは羽を畳み、嘴を閉じ、瞳だけはくっきりと見開いて巣の口から顔をのぞかせている。普段見せる敏捷さはもはや羽の下に隠れその気配もない。小部屋の中は温かく、安全な匂いに満ち、嵐を遠くに隔てている。彼は耳を澄ませる。あまりにもひたむきに耳を澄ませ過ぎて、微かに羽が震えているようにさえ見える。小鳥についてよく知らない人はこわがっているのだろうと勘違いするが、ほんとうはそうではない。ほかの誰かが思うよりずっと多くのことを彼は聞きとっている。小さな場所で、忍耐強くひたすらじっとしているものにだけ届けられる合図を受け取っている。その啓示の重さにただ心を震わせているだけなのだ。(73頁)
◇ほとんど読んだことのない作家。『博士の愛した数式』ぐらい。新聞などのエッセイはいいなと思っていた。つれあいが「面白かった」というので、図書館に返す前に又借して読んだ。「思索」という言葉がふさわしい小説。前半は兄弟の、三分の二ほどは弟の日常の物語。多くを語らないからこそにじみ出てくるような思索の深さ。文章の精緻さに惹き込まれた。

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読み飛ばし読書備忘録①

梅雨寒。昨日から気温が上がらない。小雨と曇天の繰り返し。

朝の気温18℃。早起きのらいに餌をやりながらカーテンを引くが、掃きだし窓を開ける気分にならない。敷石がうっすらと濡れている。


5月に夏日や真夏日があったが、そのまま夏になるわけではない。寒い。もう一度布団に戻る。

 

いつもより早めの散歩、二人でらいを連れて。

風があるので、薄いジャンパーを羽織ってでかける。


このところカワセミを見かけない。見かける鳥の種類も減っている。

ムクドリヒヨドリ、時折ツバメ。ハト、カラス、スズメは変わらない。

 

河畔の新造成地に家が建ち始めた。

かなりの広さの林を切り払って基盤整備に2年ほどかかった。今年に入って、散歩道から5mほど高い造成地に道路が出来、電柱が立ち始めた。カーブミラーなどの付帯設備が設置され、ぽつぽつと戸建てのかたちが見え始めた。毎日、1,2軒ずつ増える。

 

木造の骨組みが見え、建前の吹き流しが風にあおられて…といった光景はない。突然、足場がつくられその中に壁を伴った躯体が見え始める。骨組みをつくって・・・というより、壁も含めてプラモデルを組み立てるように。


事前にカットされた部材を一気に組み立てているようだ。だから突然「箱」が現れるように感じられるのだろう。


2年前から始まった最寄り駅南町田駅の再開発。グランベリーモール(グランベリーパークと変更されるらしい。駅名も変わるそうだ)のリニューアルに合わせての分譲のようだ。


この宅地造成、特に反対運動はなかった。

ただ、散歩人である私たちが失くしたものが一つある。ウグイスの啼き声である。

 

毎年3月なかばころ、この林から生まれたと思える稚拙なウグイスの啼き声が聞こえ始め、6月の今頃まで聞こえていた。姿は一度も見たことがなかった。

 


造成が始まったころ、ウグイスは対岸の小さな林に移った。そのころ初めて姿をみた。ウグイス色には見えなかった。メジロの方がウグイス色だった。


以来、去年も今年もウグイスの声を聞くことはなかった。他の鳥は変わらずに姿を見せるが、ウグイスはどこかに行ってしまった。


喪失感などというのは大げさだし、ウグイスのことを考えるのは散歩の途次の数分にすぎない。なのになんとなしの寂寥感のようなものがあるのはたしかだ。

 

さて、またまた備忘録。4月以降の読書録、記録だけでも。

読み飛ばし読書備忘録①

『氷平線』(桜木紫乃・文春文庫・初出2002年)★★★★

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『祖父が死んだあとはしばらく香典袋だった。一人で客を取る生活を始めてからやや経って、どうやら最初の客は祖父が話をつけたということを知った。それからはいつも、明るく体を売ることに決めたのだといった。
「だって辛気くさい女なんて誰も抱きたくないし、自分を可哀相がったってしかたないでしょ」
友江の話が少しも本当っぽく聞こえないのが、嘘をついていないせいだとは、十八の誠一郎にはまだわからなかった。』(表題作・224頁)

 
◇短編集。どれも味わいの深い、完成度の高い作品。

 

『とげぬき新巣鴨地蔵縁起』(伊藤妃呂美・2007年・講談社)★★★★
「・・・いざ現実となりますと、ときにぎょっとするのです。明け方目覚めて、老いはてた男が隣に寝ているのを発見したときなど、その白髪と皴があまりに凄くて、人というより、浦島の煙と暮らしているような気さえいたします。かくいう私も五十歳、しみだ、白髪だ、脂肪だと、あらゆる「し」のつくものがにくくてたまらぬ。「しろみ」自身も。しかし老いの底にしがみつくこの男に比べれば、まだまだ余裕がございます。死をことさらに凝視したり、否定したりはせずにいられる。私はむしろ、煙のそばにただ座る一所不在の妻のように。」(276頁)

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◇打ちのめされて、読みつかれた。疲れた?憑かれた?伊藤妃呂美はただ者ではない。

 

『玉砕の島ペリリュー島 生還兵34人の証言』(平塚柾緒 2018年 PHP研究所)★★★

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◇唯一、アメリカの上陸戦を組織的に阻んだペリリュー島の日本軍。餓死の恐怖を超えて生き残った34人の証言で構成。米軍の糧秣を盗んで何年も生き延びるしぶとさ。

 

ベートーヴェンを聴くと世界史がわかる』(片山杜秀・2018年・文春新書)★★★

西洋音楽史の入門書。語り口が軽くわかりやすい。西洋音楽は中東を抜きには語れないことや、19世紀を生きた等身大のベートーヴェンの姿が見えてくる。ただ日本に引き付けすぎる論の展開にやや無理がある。

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『愛が何だ』(角田光代・2006年・角川文庫・初出2003年)★★★★★

◇同名映画(2019年・岸井ゆき主演)は見ていないが、小説で十分に楽しんだ。映画をみてがっかりしなければいいのだが。そのぐらいいい出来だ、この小説。

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『赤松小三郎ともう一つの「明治維新」-江戸政権の「改装」の可能性』(関良基講演録・2019年・歴史教科書に対する《もうひとつの指導書》研究会編)★★★★★

薩長による維新体制批判。赤松小三郎を中心とするもうひとつの「明治維新」構想。幕府側・奥羽越列藩同盟の中に共和制への萌芽をみる。ワクワクする講演録。

 

『声』(アーナルデュル・インドリダソン・柳沢由美子訳・2018年・創元推理文庫・初出2015年)★★★★

 

 

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◇捜査官エーレンデュルシリーズ第三作。友人からいただいたものなので、第1作2作ともに未読。ホテルに住み着いていた老齢のドアマンが殺される。彼は幼少の頃天才的なボーイソプラノだった。その栄光からの転落と家族との軋轢。同時に刑事エーレンデュルが抱える幼少の頃のトラウマ、そして現在の彼の家族のもつれが重なって物語に深みを与えている。アイスランドのミステリー、かなり面白い。

『らん』 85号★★★★
 

 

  しあわせということばから帰途避難


  風向きに手を貸しているヒアリ
                     五十嵐進

◇いつも思わぬ視点にびっくりする。

 

『金子文子と朴烈』「芳華~youth』をみる。

6月7日
梅雨入り。天気予報に傘マークが並ぶ。


本厚木kikiで金子文子と朴烈』(2017年・韓国・129分・監督イ・ジュンイク主演チェ・ヒソ、イ・ジェフン2月16日公開)『芳華~youth~』(2017年・中国・135分・監督フォン・シャオガン主演ホアン・シュアン、ミャオ・ミャオ・2019年4月公開)。

 


金子文子と朴烈』、アタマの中をかき混ぜられた感じ。みながらいろいろなことを考える。いい映画だと思った。

金子文子という女性の波乱に満ちた生涯については簡単には書けない。一つだけ云えば、文子は同時代の女性解放の流れに身をていした女性たちとは一線をして、底辺の独特の人生を送った女性(『何が私をこうさせたか~獄中手記』(金子文子)『余白の春』(瀬戸内寂聴)『女たちのテロル』(ブレイディみかこに詳しい。これらについてはまた別に触れたい)だったということだ。

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朴烈もまたアナーキストとして死刑囚となって以後、戦後まで生き延び、有為転変の人生を送った人。冒頭、「犬ころ」という朴烈の詩が文子の強い共感を呼ぶところから映画は始まる。関東大震災(1923年)前後の治安維持法制定前の混乱の時代に二人を置いて、その後数年間を描いていく。

 

https://youtu.be/TpIGLQHW0ow

 


金子文子を演じるのはチェ・ヒソ。

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日本とニューヨークに住んだことがあるというが、ほぼネイティブの日本語と、あえてカタカナに直した朝鮮語を発音するなどして日本人らしさを出している。絶妙。

チェ・ヒソは文子の日本人離れした発想と表情の多様さ、気性の激しさを全身で表現する格好の女優。日本人が演じる「湿気」がチェ・ヒソにはない。文子の本来的な精神的な自由さを体現していると思った。

 

イ・ジュンイク監督の前作『空と風と星の詩人 尹東柱ユン・ドンジュ)の生涯』(2016年・韓国・110分・2017年7月公開)にも日本人大学教授の娘役を可憐に演じているが、本作で一気に才能を開花させた感がある。

 


さて、「アタマかき混ぜ」だが、この映画、基本的に韓国の俳優だけで撮っている。日本人で出演しているのは、大逆罪を問われた二人を弁護する布施辰治を演じる山之内扶だけ。日本の政治家その他日本人すべてを韓国人俳優が演じている。
そこに独特の磁場のようなものがつくられていて、アタマをかき混ぜられる感じはそこから来ているのではないかと思う。


というのも、チェ・ヒソにしても水野男爵役のキム・インウ(いい役者だ)や他の役者にしても、みなほぼネイティブに聴こえる日本語を駆使しているのだが、それらが集積するとわずかに違和感が発生する。史実に基づいた脚本を使いながら、日本でありながら日本でないところで演じられる物語。韓国人が日本人役をやることで現出する「何か」があるような気がする。

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それは朴烈や金子文子が、どこかに大陸の乾いた空気感を身にまとっている感じと通じるし、二人のもつ底抜けの軽さ、明るさが、日本人のもつ湿潤な情念の世界や差別意識を逆に投影しているように思えた。


かと言って監督のイ・ジュンイクは、日本人を十把一絡げで抑圧者として描いていない。これは勝手な憶測だが、そう感じるのは、イ・ジュンイクには朴烈や金子文子への共感はもちろん、アナキズムそのものへの共感があるような気がするのだ。


イ・ジュンイクは『空と風と星の詩人 尹東柱ユン・ドンジュ)の生涯』で、東柱の従兄弟の夢奎(ソン・モンギュ)が独立運動に飛び込むさまをモノクロの静謐なタッチで描いたが、日本人の描き方はやや一辺倒である。本作では日本人の仲間、支援者も含めて一人ひとりに対する視線が複眼的でやさしささえ感じる。それをアナキズムに対する理解と共感が底流にあるからとするのは読み込みすぎだろうか。

 


関東大震災時の在日朝鮮人虐殺については、この国ではここ数年、右派勢力から「なかった」とする捏造が相次ぎ、行政もそれに追随する動きがある(横浜市でも中学校の副読本が書き替えられた)。6000人に上るだろうという被害の調査結果が、現在では「200人程度」といった言説までまことしやかに流布している。


映画の中では日本人の自警団が朝鮮人に対して「十五円五十銭」を発音させるシーンが出てくる、「ジュー」という発音がしにくい朝鮮語を話させて日本人か朝鮮人かを人定する。こうしたことも史実に基づいて描かれている。


この映画、金子文子を描くことによって、日本人に対してもう一度「足下をみよ」と呼び掛けているのではないかと思う。単なる反日映画ではない。日本ではつくられることのなかった貴重な映画だと思う。

 

 

 

『芳華』は、監督が『唐山大地震』(2010年・中国・135分・原題:After Shock/公開2015年3月)を撮ったフォン・シャオガンであることから、ぜひみたいと思った。

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大きな事件を間に、長い時間の流れの中で変化する、あるいは変化しない男女の思いを細やかに描いている傑作。中国各地の自然を描く映像も素晴らしいが、何より揺れ動く若者の群像を歌と踊りを間において自在に描いているところがすごい。135分、飽きさせず気持ちをつないでみられるのは、大河ドラマ?を得意とする監督の力量だと思う。

 

映画に反権力的な装いはないが、中国共産党への批判は底流に流れている。この数年後、天安門事件が起きる。その素地は映画の中にたしかにある。


印象的なシーンは多いが、テレサ・テンのカセットテープを男女3人でこっそり聴くシーン。「こんな歌い方があるのか」と驚き、「心に沁みとおってくるんだ」という感動を率直に口に出す若者。ぐっとくるシーンである。

 


6月8日
通院。昼過ぎから雨になるというので、折りたたみの傘を持って二人で出かける。予約は12時だが、内科の受け付けの女性が、診察が1時間遅れていることを伝えてくれる。館内のローソンでおにぎり、サンドウィッチなどを買ってとなりの休憩スペースで食べる。


13時から診察。内視鏡再検査の画像をみながら、穏やかな口調でしっかり話す担当医。途中、話を区切ってつれあいのほうを向き「奥様、何かご質問は?」とゆったりと話しかける。ふつうの声の高さの若い女性。検査のときも思ったのだが、朝から診察が続けているのだろうにと、丁寧な対応に頭が下がる思い。


結果はまちがいなく「2人に1人」の「1人」のほう。6月中にCT検査、その結果を待って入院、手術となるようだが、病院側の都合もあるようで確定はしていない。


もやっとしていたものが目の前を覆っていたが、霧が晴れたようで少しすっきり。検査、入院までの注意事項は暴飲暴食以外は特になく、いつも通りにとのこと。

 

院内のサポートセンターに寄り、CT検査の注意事項を聴き、会計に。バーコード認証が今回もうまくいかない。結局窓口へ。

 


外に出ると降るはずだった雨は降っておらず、日が照っている。
「今年は男の日傘、買った方がいいかもね」とつれあいが云う初夏の午後である。

 

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1人で死ねばいい・・・でいいのか?

6月5日
朝から湿度が高い。暑熱の夏を思い起こさせるような空気。


散歩から戻って近くの理髪店に電話。

歩いて10分ほどのところに若者が1人で経営する小さな床屋がある。予約制で時間がきっちりしているうえに安い。もう6年通っている。10時の予約がとれる。


いつものように世間話をしていると、何やら話の雲行きがよろしくない。

 

大家が委託している不動産屋との数々のトラブル。つまるところは大家との関係の悪化。片方の話だけだから、実際に何がどうなったのか詳細はわからないが、結論は、今月中の閉店。突然の話に驚く。


固定客もかなり多く、今日も私がいる間に予約の電話が3本入った。

店主も困るだろうが、客も困る。

床屋は簡単には変えられない。22歳のころから通った床屋はこの店で3軒。いちばん長いお店は30年近い付き合いだった。

なんとか違う形で継続できるよう、いま、画策しているという。

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庭の紫陽花②

 

 

川崎市多摩区の路上で刃物を持った男が登校中の児童や保護者を襲い、お二人の命が奪われた。いたましい事件である。

 

この犯人に対して、事件の起きた28日の午後、フジテレビ「直撃LIVE グッディ!」で、安藤優子キャスターが出演者に「社会に不満を持つ犯人像であれば」「すべてを敵に回して死んでいくわけですよね。自分1人で自分の命を絶てばすむことじゃないですか」。北村晴男弁護士は「言ってはいけないことかもしれないけど、死にたいなら1人で死ねよ、と言いたくなりますよね」と続けた。


これが現在論争となっている「一人で死ねばいい」の火元のようである。

 

すこし考えるところがある。


犯人は、1人で死にたくなかったから、他人を巻き込み、理不尽で残虐な行為に及んだのではないか。


「一人で死ねばいい」という声は、事件のあとに沸き起こったが、岩崎容疑者はふだんから声なき声として「一人で死ねばいい」を背中に感じていたのではないか。だから、彼は1人では死ななかった。


「一人で死ねばいい」という声は、亡くなられた被害者の側に立てば当然のことと主張する人が多い。そうすれば被害者は死なないで済んだのだし、巻き添えでしかない行為は、被害に遭われた方にとっては理不尽極まりないことだ。

 

だからだれもが自分や自分の係累へ凶刃が向けられる可能性を考えた時、言葉を失う。

 

ただ、そこで感情だけにほだされて「一人で死ねばいい」と云ってしまっていいものか。

 

事件が容疑者の自殺というかたちで収束した中で「一人で死ねばいい」は、被害者の側に立つというより、岩崎容疑者に対し感情的に悪罵を投げつけているに過ぎないのではないか。

呑み屋での与太話ならともかく、テレビという一定の公器にあっては、感情的な悪罵が論調の中心になることは決していいことではないと思う。

 

私の結論は簡単である。

希望も展望もない孤独な生活に自暴自棄となってしまう人々にとって、いつも背中に感じる「一人で死ねばいい」は、その孤独と希望のなさを倍加させることはあっても、なんの助けにもならない。それどころか孤独の淵にさらに追いつめるものでしかない。

 

孤独に対する社会的な想像力が、行為の残虐さによってその広がりを停止してしまっていいのだろうかと思う。

 

私たちは、永山則夫自身や彼に関わった多くの人々が積み重ねてきた思考の営為、また新宿バス放火事件に対する杉原美津子の犯人の丸山博文に対する向き合い方から多くのことを学んで来たはずなのに、いままたこうした事件が起こると、「一人で死ねばいい」がいつの間にか膨れ上がってしまう。


こうした事件を再び起こさせないためにという人々の善意は、緊急関係閣僚会議などの名前で政治取り込まれ、利用され、いつのまにか実体のないものになっていく。

 

「一人では死にたくない」までたどり着いてしまった岩崎容疑者を取り巻いていたもの、それらを社会的に明らかにすること抜きに、被害者を前面にたてた犯人への悪罵は何の役にも立たないと、私は思う。