読み飛ばし読書備忘録②

6月13日
 

きのうの深夜、気分の悪さに目が覚めてしまう。寒気。起きて熱を測る。

3,4日前からくしゃみが出ていて、風邪気味かなと思っていたのだが。

午前中から寝込む。季節の変り目にこういうことがよくある。

 

今日は庭師さんが入る日。

 

10年前にこのマンションに引っ越した。半年後、ここが終の棲家になるだろうと思い定め、何もなかった庭の造作をガーデニング業者に頼んだ。

 

敷石を巡らせたり、照明をつけたり、畳一畳ほどの畑をつくったり。娘たちの名前の入った花卉も植えてもらった。


以来、好き勝手に木を植えたり花を植えたりするだけで「引き算」はしてこなかった。

 

植物たちは順調に?成長し、その分陽当たりは徐々に悪くなっていった。とりわけ、分譲前に各戸の庭に一本ずつ植えられたシンボルツリー、拙宅はアラカシの木なのだが、この成長がなんとも著しい。一時、通販の代名詞だった高枝切りばさみを購入して剪定してきたのだが、追いつかず、今ではこんもりと繁って高さが6㍍ほどに。

 

3階の方の部屋の、床の高さを超えるくらいに伸びてしまっている。2階の方の部屋に至っては、ベランダのほとんどを覆ってしまっている。苦情を言われたことはないが、これではあんまりだろう、本気の剪定が必要だろうと本職の造園業に頼まなければと考えていた。

 

昨日まで降っていた雨もやんで今朝は快晴。

 

8時半ごろには職人さんがお二人でやってきて、作業が始まる。親方は、かつての同僚の叔父さんにあたる方、若い職人は従兄なのだという。

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作業を見るのを楽しみにしていたのだが、結局寝付いてしまった。

 

早い時間に作業は終わったようで、夕方起きだして眺めてみると、アカガシは根元から切られ、切り株だけが残っている。

隣の住戸に枝がはみ出していた豊後梅もさっぱりと。

ヒュウガミズキやナツハゼ、クチナシアジサイ、ユズ他もろもろの花卉が剪定されてみなこじんまりとなった。

 

陽当たりががぜんよくなった。

 

狭いけれど広々とした庭を眺めながらつれあいと「10年前って、こんなだったかねえ」などといい交わす。少ししみじみとする。

通夜に出掛ける予定だったが、気力が伴わずとりやめに。

珍しく酒も呑まず、おかゆを食べてまた布団へ入ってしまう。

朝まで眠ってしまった。

 

 読み飛ばし読書備忘録②


『蛇行する月』(桜木紫乃・2013年・双葉社

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「夜の底で輝いている色とりどりの電飾がぼやけた。/視界に、図書室の窓から眺めていた夏の湿原が広がってゆく。どこまでも緑だ。/湿原を一本の黒い川が蛇行している。うねりながら岸辺の景色を海へ運んでいる。曲がりながら、ひたむきに河口へ向かう。/みんな海へと向かう。/川は明日へと向かって流れている。」

◇釧路の自然と人々の心の移ろいがかさなって、物語が流れていく。

 

『ばらの祈り~死の灰を越えて』(佐々木悦子・粕谷たか子・矢部正美・2018年・明友社)

◇飯塚利弘氏の『死の灰を越えて~久保山すずさんの道』(1993年・かもがわ出版)をもとに朗読劇を演じてきた生協の母親のグループ、その脚本をもとに被災60年の2014年紙芝居「ばらの祈り」がつくられた。本書はその紙芝居の書籍化。英訳が付せられている。

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5月に東京・夢の島の「第五福竜丸展示館」がリニューアルオープンした。この本をくださった友人のAさんは新しい展示館を「いいのだけれど何か足りないような」との感想。もう何年も行っていない。

 

久保山さんと一緒に第五福竜丸に乗っていた23人の1人大石又七さんに、船底の前でお話を聴いたこともあった。学校にも来ていただいた。大石さんがまだ現役のクリーニング屋さんだったころ、若い先生と生徒がお店を訪れて講話のお願いをしたのだった。

林光さんのコンサートも行われた。久保山さんをモデルとした映画第五福竜丸』(1959年・日本・107分・新藤兼人監督・宇野重吉主演)の音楽を担当したのが林光さんだった。飛び跳ねるようにピアノを弾いていた。


被爆から63年経って、こうした絵本が出版される。すごいことだと思う。語り口は静かで絵は水彩、クレヨン、貼り絵、写真などで構成されている。久保山さんの葬儀の時の家族の写真も絵になっている。子どもたちが身をよじるようにして泣いている印象的な写真だ。

繰り返し、こうした出版が行われることで語り継がれていく。ベン・シャーンの絵にアーサー・ビナードが文章を付した絵本『ここが家だ~ベン・シャ―ンの第五福竜丸』(2006年・集英社もすぐれた作品だ。

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本書のタイトルの「ばら」は、久保山愛吉さんが大好きだったばらをすずさんがその後も育て続け、株分けをしたもの。展示館の「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」という久保山さんの言葉を刻んだ碑のそばに「愛吉・すずのバラ」がある。

 

寝ても覚めても』(柴崎友香・2018年・河出書房新社・単行本2010年)

◇なんともすてきな映画だったので、原作を読んでみようと思った。原作もすごい。一筋縄ではいかないのは映画も原作も同様。「恋とかって、勘違いを信じ切れるかどうかだよね」というふうに、語り手である「わたし」=朝子のエキセントリックさ、自分勝手さが人の「ほんとうらしさ」を見せてくれる。

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『ことり』(小川洋子・2016年・朝日新聞出版・単行本2012年)

「ことりは羽を畳み、嘴を閉じ、瞳だけはくっきりと見開いて巣の口から顔をのぞかせている。普段見せる敏捷さはもはや羽の下に隠れその気配もない。小部屋の中は温かく、安全な匂いに満ち、嵐を遠くに隔てている。彼は耳を澄ませる。あまりにもひたむきに耳を澄ませ過ぎて、微かに羽が震えているようにさえ見える。小鳥についてよく知らない人はこわがっているのだろうと勘違いするが、ほんとうはそうではない。ほかの誰かが思うよりずっと多くのことを彼は聞きとっている。小さな場所で、忍耐強くひたすらじっとしているものにだけ届けられる合図を受け取っている。その啓示の重さにただ心を震わせているだけなのだ。(73頁)
◇ほとんど読んだことのない作家。『博士の愛した数式』ぐらい。新聞などのエッセイはいいなと思っていた。つれあいが「面白かった」というので、図書館に返す前に又借して読んだ。「思索」という言葉がふさわしい小説。前半は兄弟の、三分の二ほどは弟の日常の物語。多くを語らないからこそにじみ出てくるような思索の深さ。文章の精緻さに惹き込まれた。

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