竹内良男さん主宰『ヒロシマ講座』第95回 小村公次さん「戦没作曲家・音楽学生の残した音楽」の②

長野県・上田市無言館という美術館がある。戦没画学生の絵を集めた美術館で1997年に開館した。

 

ここは、いつ訪れても、独特の静かな空気が流れている。他のあまたの美術館とは全く違ったたたずまい、時間が止まっているという感覚。

 

音楽の無言館と言ったらおかしな言い方だが、戦没音楽学生の資料を集めた「戦時音楽学生Webアーカイブズ『声聴館』」があることを、今回初めて知った。

 

https://archives.geidai.ac.jp/seichokan/

 

小村公次さんの講演は、この声聴館に所蔵されている東京音楽学校を経て召集され、戦地でなくなった4人の学生をめぐるものが中心だったのだが、前半では「1近代日本における西洋音楽輸入から作曲の誕生まで」として、18世後半の日本の音楽事情、とりわけ洋楽が輸入される前の近世邦楽一辺倒の日本社会に、軍楽隊、軍歌の軍隊と唱歌を中心とする学校教育によって洋楽が普及、一般化していった状況が語られた。

 

当時の人々にとって洋楽がどれほどなじめないものだったか。みんなで歌うという行為も、足をそろえて行進するという行為も、それまでの日本人は、たぶん誰も経験したことのないことだったのだろう。

 

軍隊と学校が近代化のための装置であったことは音楽においても言えること。と同時に音楽のみならずさまざまな文化を吸収する中で、人間とか個人といった概念がひろまり、いわゆる近代的自我の目覚めが、みずからさまざまな想念を表現するという行為、作曲に結び付き、作曲家という存在を生み出していく。その草創期に位置するのが東京音楽学校(現東京芸大)創立後の滝廉太郎であり山田耕筰だ。そして戦争とは切っても切れない作曲家である信時潔や橋本国彦がいる。

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橋本國彦

 

小村さんは、こうした官製の音楽に対して「3在野の作曲家たち」として、諸井三郎の楽団スルヤの諸井三郎、未来音楽(無調などの現代音楽志向)の石川儀一、伊藤昇、そしてプロレタリア音楽運動の原太郎、吉田孝子、守田正義を紹介する。

ここで興味深かったのは、守田正義の「里子に出されたおけい」(1930年)という歌。

民衆の暮らしに初めてスポットをあてた曲を実際に聴いたが、これが面白かった。

それとプロレタリア音楽同盟(PM1930年)の一員として最後まで転向しなかった吉田孝子の音楽性の高さに驚いた。46歳で亡くなっている。

 

同じ時期に「新興作曲家聯盟」が結成される。この中に清瀬保二や斎藤秀雄、橋本國彦などがいる。その一人山本直忠は、有島武郎の妹、愛の三男、「大きいことはいいことだ」のコマーシャルで知られる山本直純の父親である。斎藤秀雄小沢征爾の師匠。

この中で橋本國彦だけが東京音楽学校出身というのも面白い。

 

このころ(1934年)、札幌で「新音楽連盟」を結成したのが、伊福部昭早坂文雄三浦淳史。伊福部の実力はこのころから群を抜いていたことは、3管編成(木管楽器がそれぞれ3本ずつだからオケとしてはかなり大きな編成)の「日本狂詩曲」(1935年)という曲がパリで評判になったことからもよくわかる。のちにゴジラの音楽を書くのがこの伊福部である。

 

こうした近代国家の歩みとともに日本でも西洋音楽が広がっていくが、日本の近代、19世紀から20世紀ははまさに戦争の世紀。音楽も戦争と切っても切れぬ関係を保っていく。

 

私が興味深く聴いたのは、若くして(1933年というから28歳か)東京音楽学校の教授となった橋本國彦のことである。

欧州留学を経て1937年に日本に戻った橋本は、まさに「官」の立場から、戦意高揚の音楽づくりにまい進することになる。

終戦までに橋本は「日本青年の歌」交声曲「英霊賛歌」「勝ち抜く僕等少国民」など夥しい数の曲をつくる。

小村さんは、「勝ち抜く僕等少国民」と1928年に作曲された「お菓子と娘」を聴かせてくれた。

「お菓子と娘」は、西城八十の作詞。「お菓子の好きな巴里娘/ふたりそろえばいそいそと/角の菓子屋へボンジュール」で始まるなんとも明るい歌。最近では、カウンターテナーの藤木大地がこの曲をファーストアルバムに収録している。とっても音楽的な素敵な曲だ。

「勝ち抜く僕等少国民」のほうは、次のような歌詞。

1.
勝ちぬく僕等少国民
天皇陛下の御為に
死ねと教へた父母の
赤い血潮を受けついで
心に決死の白襷
かけて勇んで突撃だ

2.
必勝祈願の朝詣
八幡さまの神前で
木刀振って真剣に
敵を百千斬り斃す
ちからをつけて見せますと
今朝も祈りをこめて来た

3.
僕等の身体に込めてある
弾は肉弾大和魂
不沈を誇る敵艦も
一発必中体当たり
見事轟沈させて見る
飛行機位は何のその

4.
今日増産の帰り道
みんなで摘んだ花束を
英霊室に供へたら
次は君等だわかったか
しっかりやれよたのんだと
胸にひびいた神の声

5.
後に続くよ僕達が
君は海軍予科練
僕は陸軍若鷲に
やがて大空飛び越えて
敵の本土の空高く
日の丸の旗立てるのだ

 

曲調は短調で悲壮な感じを受ける。子どもたちがどんな気持ちでこの歌を歌い、聞いたかを考えると暗澹たる気持ちになる。

橋本自身はどうだったろう。あふれる才能の開花の時期を戦時に迎え、「官」の一員として戦意高揚の一翼を担わざるをえない。

今回、いくつか橋本の曲を聴いたが、どれも音楽的には優れていると思う。しかし優れているということは、それだけ戦意高揚にしっかりと結びつくということだ。

 

橋本は、ヨーロッパにいる時、弟子の吉田孝子に対し「思い切って良いものをお書きください。それは何より、自分の芸術的良心を満足さすことができるでしょう。たとえ当日の演奏が失敗でも」(1935年)と書いた。吉田はその教えに従ってPMの中で才能を開花させていく。

橋本はまた、戦後の病床で弟子の武田喜久子に対し「私は気がすすまないものを時には書かねばならなかった。でもそれは演奏のように消えることがない。いつも自分の良心で書くように」と指導したという。

 

同じような道を歩んだ作曲に信時潔がいる。「海行かば」の作曲者だ。私は学生時代、信時の曲を演奏したことがあって、その来歴を調べたことがあった。

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没後50年記念演奏会のポスター

 

信時もまた優れた才能を戦意高揚に使わざるを得なかった作曲家だった。

 

信時はチェロ専攻で1905年に東京音楽学校に入学。1915年に助教授となっている。1920年から1922年、橋本同様文部省在外研究員としてヨーロッパに滞在。1932年まで教授を務める。その後講師に。

 

これもまた小村さんに名曲と言われる歌曲集『沙羅』(1936年)を聴かせていただいた。

すばらしい曲である。

 

次の年1937年にNHKからの委嘱で作曲したのが、『海ゆかば』だ。それまでも宮内省の東儀李芳が作曲した「海行かば」があったが、音楽的なレベルでは雲泥の差がある。

文部省と大政翼賛会が準国歌と定めた曲である。

 

この曲の荘厳さは類を見ない。当時、君が代に続けて歌われたという。

戦局が厳しくなってからは、勝利の時は「軍艦マーチ」、玉砕などの時はこの曲が流された。

 

信時は、「海道東征」「二千六百年頌歌」ほか国民歌謡と言われるものを多数つくっている。

溢れる才能を、彼もやはり戦意高揚に捧げたのだった。

 

私は、どうも思い違いをしてきたようだ。

信時は、橋本同様、戦意高揚に協力したという反省から戦後、筆を折ったというふうに考えていたのだが、調べてみると1947年に日本国憲法施行を記念して国民歌「われらが日本」(土岐善麿作詞)を作曲している。

 

you tube で聴いてみた。

 

才能というのは恐ろしいもの。信時は戦中の戦意高揚の荘厳さとは全く違う、まるで小学校の校歌のような明るい曲調でこの曲を書いている。自由自在、融通無碍、ほとばしる才能は時代に我が身を合わせる術まで含んでいるものか。

 

 

戦後、音楽に罪はない、あれは利用されただけ、「海ゆかば」は鎮魂曲、などさまざまな言説が流布されてきた。

文学と違って、音楽や美術は端的に戦意高揚をあおるものではない。聴きようによっては、見ようによっては全く逆のものととることができる。

 

藤田嗣治の「アッツ島玉砕」にしても、絵から受ける印象から、「これで戦意が高揚するか?」といった疑問が呈されることがある。

 

しかし、音楽も美術も歴史と無関係に存在するものではない。

 

どんな時にどんなふうにそれが利用されたか、そのことを抜きに音楽性や芸術性を云々しても仕方ないだろう。

 

音楽も美術も為政者にとって宣伝工作のひとつにすぎない。それらは時には文学よりもはるかに人々の心を揺るがせ、一つの方向に導いていく。

 

 

芸術性の高さは、宣伝工作の高度さに直結するということだ。

 

時間が経って、さまざまな言説によって違った位置づけがなされようと、その時代においてつくられたもの、その時代に歌われ鑑賞されたもの、という事実は揺るがない。

 

生きていくためには仕方がなかったという芸術家たちの「言い分」はわからないではない。橋本のように良心から悔いを語ることはあっても、しかし自分の創作物が人々をどこに赴かせたかは忘れてはならないと思う。その意味で、信時のあまりにあざとい転向については忘れてはならないと思う。

 

信時は、「われらが日本」を発表した4年後、平和条約発効ならびに憲法施行5周年記念式式典歌として「日本のあさあけ」(詩:斎藤茂吉)を発表。1964年には 勲三等旭日中綬章受章。

 

戦争協力詩を書いた高村光太郎は、戦後岩手で7年間、独居自炊の生活を送った。

藤田嗣治は、戦争協力者の批判に耐えかね、パリに逃げた。

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藤田嗣治アッツ島玉砕」

 

 

楽家のみならず芸術家の戦争責任という問題は、戦後75年となる今も、まだ済んでいないのではないか。

 

 

本題の戦没学生の話はこの次に。

 

 

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高村光太郎

 

*音源はすべてyoutubeからお借りしました。