ブカレスト在住のYさんがチェルノブイリツアーのレポートを送ってくださった。

 ルーマニア在住の友人Yさんが、6月に参加したチェルノブイリツアーのレポートを送ってくれた。彼はこのブログの最も遠隔地の読者(たぶん)。貴重なレポートなので皆さんにも紹介したい旨伝えると、快諾してくださった。

本文には写真が何枚もついているのだが、私のPCの技量の問題もあってうまく張り付かない。申し訳ない。悪しからずお許しのほどを。

Yさん、ありがとう。  

 

       

 

          チェルノブイリツアーに参加して
                                                                                 

                           ブカレスト在住 Y生
 

 6月16日(日)朝7時30分にホテルを出発。歩いて20分ほどのところにある「Kozatsky Hotel」が集合場所である。7時50分にホテルに到着。すでに10名近くの人が集まっている。国籍は様々だと思われるが、日本人の若い女性の方の姿も見えた。留学生?だろうか。ガイドへの受付を済ませバスに乗車。パスポート番号と名前があっているかどうか、しっかりチェックされる。申し込み時にアルバムを注文していたので、受け取る。5ドルだったと思うが結構厚みがあり、ずっしりと重い。

 

20人乗りのバスであったが、参加者は18名で、ドライバーとガイドを合わせると満席だった。バスは2台編成であったが、2台とも満席。ちなみに、私が参加したツアー会社は「Solo East Travel」であったが、他のツアー会社からも参加できる。人気のツアーということはネットの情報で知っていたが、予想以上の人気であると感じた。
 

 

8時15分、予定通り出発。キエフ市内も含め道路事情は良くないらしい。道が凸凹しているため、バスはかなり揺れる。車内ではチェルノブイリ原発事故に関するビデオが上映される。すでに見たことのある映像もかなりあった。英語だったので言っていることは半分も理解できず。こういうときに英語をもっと勉強しておけばなぁと思うのだが・・・。

 

車内でガイドから回される「重要事項説明書」にサインをする。「①長袖、長ズボンを着用すること。靴下は肌を露出しないもの。②制限区域内にあるものに手を触れないこと。③立ち入り制限区域内のものを外に持ち出さないこと。④立ち入り禁止区域内の地面に座らないこと。⑤屋外で飲食しないこと。⑥食べ物は密封されたものにすること。」など多くの注意事項が書かれてあった。

 

 10時25分検問所に到着。ここでガイドが検問所の係員に立ち入り許可もらっている。バスが何台も停まっており、かなりの人がツアーに参加していると思われる。写真をとってはいけないはずであったが、取っている人がいたので便乗して1枚撮影。特に注意はされないようだ。近くに小さな売店があり、チェルノブイリグッズ(Tシャツやマグカップなど)が売られていた。行列ができていたので、購入する人もいるのだろう。

 

 

10分ほど待って出発。次は本格的な入場(?)である。車内でe-Ticketを受け取る。バーコードが書いてある。受付に並び、バーコードをチェックしてもらう。ここでガイドからガイガーカウンターを受け取る。8組がガイガーカウンターを受け取っていた。ガイドが1台持っているので必要ないかとも考えたが、自由に測ったり写真をとることができるので、借りておいて正解だったと思う。車内でも、「今いくつだ。」という会話が聞こえてきたので、みんな心配なのだと思った。車内の放射線量は0.13~0.14マイクロシーベルト。前述ビデオの中で、キエフ市内は0.12くらいだということだったので、この辺りは市内と変わらないということか。

 

 

 最初に訪れたのはチェルノブイリの町。原発からは20キロほど離れており、それほど被害は大きくなかったようである。ここでは色々なモニュメントを見学。消防署の前には、事故直後に活躍した消防市たちのモニュメントがあった。この人たちも、真実を良く知らされないまま現場に行ったことを思うと、気の毒でならない。看板が並んでいる通路を歩く。これは事故のために退去させられた村や町のものだろうか。かなりの数である。ネット情報によると、ここは希望すれば戻ってきて生活してもよいということなので、高齢者を中心に戻ってきた人もいたようである。しかし、見学中に人を見かけることはなく、建物から音が聞こえたり、消防士が働いていたりという程度で、人が住んでいる感じはしなかった。ここもやがてゴーストタウンになるのだろうと思う。

 

 

 11時50分レストランで昼食をとる。車内で「ベジタリアンか、ポークかチキンか」と注文を聞いてくれた。妻はポーク、私はチキンを注文。イスラム系と思われる人もいたので、今はそういう配慮は当然のことなのだろうと思う。メニューはパン、サラダ、チキンとピラフのプレート、水であった。あまり期待はしていなかったが、それなりに美味しかった。チキンとポークなら、ポークの方が個人的には美味しいと思った。ここの線量も0.14とそれほど高くない。

 

 

 昼食後はいよいよ事故を起こした4号機へ。建設中のままストップしているの5号機と並んで、シェルターで覆われた4号機が見えると、車内の空気も変わる。窓越しにカメラを向けて写真を撮っている人が多い。4号機と5号機が見える場所でバスは一旦停車。外へ出てガイドが説明しているが、ここでもほぼ理解できず。もう少しゆっくり話してくれたら、わかることも多いのだが・・・。線量も0.90前後と高くなってきた。

 

 

再びバスに乗車する。バスはだんだん4号機に近づいていく。4号機のすぐ近くに停車、ガイドが「降りろ。」という。降りて大丈夫か?といささか不安になったが、とりあえず降りてみる。線量は1.27と、やはり高い。キエフ市内の10倍だ。目の前で見る4号機は、大きなシェルターに覆われているので、非常に威圧感を感じる。原子炉内部の様子を見ることはできないが、厚いコンクリートの壁で「石棺」を作り、それも老朽化したのでシェルターが作られたということだ。このシェルターが何年もつかはわからないが、数十年後にはさらに外側を覆う工事が必要なのだろうか。終わりの見えない作業である。4号機に向かう途中、数名の作業員を見かけた。

 

 

 

 4号機を後にして、次は原発から4キロのところにあるプリピャチの町へ。ここは原発で働く人のために作られた町で、いわゆる「原子力村」ということになる。町に向かい途中Red Forest(赤い森)付近に停車。ここは今でも線量が高く、人が立ち入ることはできない。原発事故があった時、放射線の影響で松の木がオレンジ色に変色してしまったため「赤い森」と呼ばれるようになったとか。ガイガーカウンターを見ると、線量が急に上がり、警報音が鳴り始める。嫌でも緊張感が高まる瞬間だった。線量は最大4.0を超える。実にキエフの40倍の線量だ。事故から30年以上が経過しても、なおこれだけの線量が残っている。原発事故の恐ろしさを実感した。

 

 

 バスはプリピャチの町へ。ガイドが「ここはゴーストタウンだ。」というだけあって、まったく人気はない。もともとはきれいに整備された道路や建物が立ち並んでいたところが、いまは木が生い茂り、森になっている。ところどころに建物や看板が見えるので、確かにここには、かつて町があったようだ。

 

 

車を停めて下車。水を忘れずに持っていくようにと、ガイドから指示がある。ここからはかなり歩くようだ。森の中の小路(かつてはにぎわっていたであろう道路)を、ガイドの後に続く。途中子どもが歩いている看板が見えた。通学路か横断歩道の標識だろうか。こういう標識が、かえって生々しく感じられる。森を抜けたところで、ガイドの説明があった。事故前の“この場所”の写真を見せてくれる。かつては大きな道路があり、その向こうに大きな建物が見える。スポーツセンターだったところである。今は木しか見えない。33年という歳月の長さを感じる。さらに奥へ入っていくと、そのスポーツセンターが現れた。壁はなくなり、がれきや板が散乱している、まさに廃墟ということばがぴったりの場所である。建物の中に入っていくと、広い部屋に出た。体育館だ。リングとネットがなくなり、ボードだけになったバスケットのゴールが、ここか体育館であったことを物語っている。階段を上って2階へ。ここはプールだ。飛び込み台もある、かなり大きなプール。プールのまわりはかつて大きなガラスに囲まれており、明るい日差しがプールに差し込んでいたと思われるが、今は木に覆われているので薄暗い。森に囲まれているだけあって、蚊が飛びかっている。虫よけスプレーを持ってくれば良かったと思った。

 

 

 

 スポーツセンターを後にし、さらに進んでいく。次の訪問地は学校だ。机やロッカーらしきものが散乱している。2階に上がると、ガスマスクが大量に、無造作に置かれていた。放射能を防ぐためのマスクであろうか。テキストらしきものも一緒に開いたまま置かれている。ロシア語(ウクライナ語か?)なので全く読めないが、さし絵からマスクの付け方とか、そういった内容だと想像した。しかし、マスクをつけるとかつけないの前に、何よりもその場を離れることが第一ではないかと思うが、当時のプリピャチの人々には、その場を離れることは選択肢になかったのだろう。いち早く、正しい情報を提供することが、どれだけ多くの命を救うことになるか、当時の為政者たちは考えなかったのだろう。もっとも2011年3月12日の日本でも、それほど差はなかったと思われるが。チェルノブイリの教訓を何一つ学んでいなかった、学ぼうとしていなかったかがよくわかった。

 

他の参加者も熱心に写真をとっている。私と同様にスマホの人もいるが、本格的なカメラを持ってきている人も数名。教室には掲示板や椅子、机が散乱している。確かにここは学校だったのである。外に出て線量計を見ると、0.94を示していた。キエフ市内の8倍程度の線量である。
 

 

さらに奥(奥という表現が正しいかどうかわからないが)へ進むと、サッカーのスタジアムだったところに到着した。かつて照明があった鉄塔から、スタジアムを忍ぶことができる。荒れ果てたスタンド、その正面には緑の芝生のコートがあったはずだが、今はもうない。やはり木に覆われ、アスファルトの下から根が盛り上がっている。「次はとても面白い場所だ。遊園地だぞ。」とガイドが話すと、「イェーイ。」とノリの良い参加者が声を上げた。まさにその通りで、遊園地は楽しい場所なのだ。しかし、ここはちがう。もう動くことのない観覧車。ゴンドラの下にガイドが線量計をセルフィーにくっつけて差し込むと、激しく警報音が鳴り響いた。線量計は、何と9.1を示している。参加者も一斉にカメラで写真を撮っていた。場所によっては、このように今でもかなり高い線量の場所があるという。目に見えない放射能汚染の恐ろしさを体験することになった。

 

次に訪れたのはスーパーマーケット。カートが置かれていたり、商品案内の看板がそのままになっている。ここでも、ガイドが事故前の写真を見せてくれたが、多くの人々が訪れ、にぎわっているようであった。
 

 

ツアー最後の訪問地は、ソ連の対ミサイルレーダーである。バスを降りて少し歩くと、巨大な建造物が突然現れる。幅700メートルというから、かなりの大きさである。冷戦時代の遺物といったところだろうか。

 

これでツアーは終了。帰りにお土産や飲み物を売っている店に立ち寄る。お土産といってもマグカップやTシャツくらいで欲しいものは何もない。飲み物やアイスクリームを買っている人が多かったが、何も買わなかった。立ち入り制限区域を出る際には、放射線量を測定する機械を通ることになっている。2か所あるので、そこで高い放射線量が出ると区域外に出られなくなるとか(ネット情報)。無事に通過し、最初にパスポートチェックを受けた場所に停車する。売店は相変わらず10名くらいの行例ができていた。午後7時頃キエフ市内の独立広場に戻ってくる。ドライバーに100UAHとガイドに200UAHのチップを渡して11時間以上のツアーが終了した。

 

 

気温は30度を超えている上に長袖を着ているので、とにかく暑かった。バスもエアコンをかけているものの、効いているのか効いていないのか、ないよりまし程度だった。バスはまあまあいいバスだったのに。ガイガーカウンター、アルバムと合わせて、二人で190米ドル。日本円で20000円と少し。これだけのものを見ることができたので、行くだけの価値は十分あると思う。
 

チェルノブイリ原子力発電所の事故が起こったのが、1986年4月26日。あれから33年以上経過しているが、立ち入りは厳重に制限・禁止されており、当然人が住むことも難しい。放射線量も、キエフ市内と比べるとずっと高い。横浜市放射線量が0.046マイクロシーベルト(6/22)となっていたので、いかに高いかが良くわかる。チェルノブイリは、ウクライナ政府が2010年12月から立ち入りを許可してから、ツアーが行われるようになったようだ。事故から24年後のことだ。ツアーに参加すれば、チェルノブイリの現状を誰でも見ることができるし、ツアーに参加した人たちは、嫌でも原子力発電の安全性について考えるようになるだろう。

 

福島はどうだろう?事故から8年経ち、メディアで報道されることもほぼなくなっている。今どうなっているのか、今後どうするのか、よくわからない。また、20年後に福島第1原子力発電所ツアーなんてできるのだろうか。できるレベルまで放射線量を下げることができるのか。ツアーを実施するかどうかは別として、きちんと現状を公開するような仕組みは作るべきだと思う。チェルノブイリであったことをなかったことにできないのと同じように、福島で起こったことをなかったことにはできない。

 

もっとも、あったことをなかったことにするのは、現政権の得意技のようにも思えるのだが。福島原発の現状について、自分自身も関心が正直薄れていたところだったので、今回のチェルノブイリツアーに参加したことは、改めて日本の原発事故について考えるよい機会であったと思う。

 

福島の事故処理がどうなっているのか、今後の見通しは立っているのか、わからないことばかりだ。汚染水の処理はどうするのか、作業員の健康はどうやって守るのか、考え始めるときりがない。私たちの命や生活に直結する問題なのだから、一人ひとりが主体的に考えないと、なあなあで物事は進んでしまう。オリンピックなんてできるのですか?とあらためて思う。もっとやらなければならないことは他にあるのでは?もっとも、そういう人たちを選んでいる我々の責任もあるのだが。これからも、自分自身原発の問題には向き合っていきたいと思うし、子どもたちにも考えてほしいと思う。そのためにも、色々な視点から情報を収集したいし、現地にも行ってみたい。帰国したら福島にも行ってみようと思った。

                               終わり