わたしたちが二人を育てていたとき、我が家にはつれあいの母親が同居してくれていた。年寄りの手があるというのは何物にも代えがたく、私たちはワンオペ育児など考えることさえなかった。

 この二日間、エアコンを使わずに眠ることができた。扇風機も。
 季節はこんなにドラスティックにめぐるものだったかなと思うほど、明け方、乾いた冷涼な風が家の中を吹き抜けていった。
 

 今朝、やや遅い時間の散歩。町田市・横浜市大和市の間を流れている境川
お盆明けの日曜日、散策する人が多い。ジョギングの人もサイクリング人も。
ムクドリが群れで飛んでくる。何ともかまびすしい。ムクドリは飛び立つときにかならずぴいぴいと短く啼く。
 中型のカモが4羽、列を作って川の水面をさかのぼっていく。
真っ白いサギが2羽、水面すれすれを滑空。やまぶき色の足ひれが水面に鮮やかだ。
 
 つれあいの体調が下降したまま、なかなか良くならない。

 おととい、次女の家族が夕食に来た。何やかやと世話を焼いているうちはいいのだが、帰るとやや元気がなくなる。夏の疲れも出ているのだろう。

 次女のダンナは、この夏、オーストラリアのホームステイに生徒を引率。2週間、家を留守にしていた。滞在先でのホスト家庭と生徒のトラブルなど、生々しい話を聴く。
 長女のダンナは9月にアゼルバイジャンのバクーへ出張のこと。調べてみた。コーカサス三国の一つ。アルメニアジョージアアゼルバイジャン。首都バクーはカスピ海に飛び出た小さな半島にある。ドーハ経由でいくらしい。

 ふたつの家庭とも夫の長期の出張は、必然的に妻のワンオペ育児につながる。
長女は骨折がまだ完全には治りきっておらず、次女は保育園へ子どもを送ってから東京の会社に出掛けていく。


 わたしたちが二人を育てていたとき、我が家にはつれあいの母親が同居してくれていた。年寄りの手があるというのは何物にも代えがたく、私たちはワンオペ育児など考えることさえなかった。

 保育園探しなどもそうだが、私たちが若かったころと子育て事情も変化している。親との同居も都会では簡単ではない。

 わたしたちも狭いマンションでの同居だったが、いてもらえるだけでずいぶん違ったし、家事の一部も受け持ってもらったので、私たちには大きな手助けになった。義母と同居したことで回避された問題がどれほど多かったか、今でも夫婦で話すことがある。

 そんな経験があるので、娘たちを傍から見ているとしんどいだろうなと思う。
そうは言っても、二人とも双方の両親が健在で、いざという時には手助けを頼めるからまだいいのかもしれない。介護と育児を同時にやらざるを得ないいわゆるダブルケアや、妻が一人で働きながら子育てをしなければならないケースが少なくない。

 

 仕事の中でそういう家庭をたくさん見てきた。私の場合、仕事の対象が思春期に差し掛かる中学生だったので、母親たちから聞く悩みも深かった。親の話を聴くのも教員の仕事のひとつだが、振り返ってみるとどこまで自分が彼らのしんどさを受け止めていたかと思うと、かなり心もとない。男親の場合はなおさらである。彼らはなかなか本音を出さないし、ガードも堅い。違う言い方をすれば、相談をするのが下手なのだ。
いずれにしろ、我が家の子育てに占める私の割合はかなり少なかったのだから、相談がそれほど意義のあるものにはなっていなかったと思う。

 それはそれとして、中学生には中学生の「付き合い」があり、親とは別の「世間」がある。金銭的にも精神的にもその思考の親とのギャップ、通じなさは大変なものがある。まして子どもが学校に行きたがらない、いじめられるといったことがあれば、一人で抱え込むにはあまりに重すぎて絶望してしまうほどだ。

 そんな時に近くに老親でなくともだれかの「手」があれば、ずいぶん違うのにとよく考えた。「手」までいかなくても、話を聴いてくれる人が近くにいるだけでも・・・。
娘たちの世代になると、SNSがその代替になっているようだ。フェイスブックやブログなどでいろいろな悩みが打ち明けられ、解決策まで話し合われる。孤独感はそれだけでもずいぶん癒される。時に、一つの意見となって政治的な主張に高まることさえある。
こういう感覚がたぶん若い世代と一番違うところだ。わたしたちもスマホをいじってはいるけれど、その向き合い方、思想のようなものが決定的に違うようだ。

 そこまでつながっているのなら、実際の場面でも具体的に助け合うようなシステムをつくりだすことはできないのかなと思うのは、私たち旧世代の発想なのだろうか。
以前、コストコの会員だったころ、若いママたちが3~4人、軽自動車で買い物に来て、帰りに駐車場で買ったものを分別しているのを見たことがある。これって生活クラブなどの“共同購入”と同じだねと話したものだが、子育てでもそんなことができればいいなと思う。

 「そんなことみんなもうやっているよ」と言われそうだが、そういうのが一つの“運動”になれば面白いのにと思う。ああ、これが旧世代の発想かもしれないが。

 

付け足し。
同居したり近所にいたりする老親の悩みを聞くことも少なくなかった。親の悩みより祖父母の悩みが根が深いのは、孫の成長に比して、自分の衰えの速さが際立つことだ。埋められないギャップは、親とは比べ物にならない。地団太を踏んで悔しがり、孫との通じなさを訴えていたおじいさんの顔が浮かぶ。
わたしのところの孫はまだ幼児だが、いずれ同じようなところに私たちも差し掛かっていくのだなと思うと、気が重い。今からそんなこと考えてもしょうがないよ、とつれあいは言うのだが。

 

f:id:keisuke42001:20180819150233j:plain          オリガミストさんの箸置きと箸袋