葬儀で帰省する。

    先週末、つれあいの親戚に不幸があった。亡くなったのは、若いころから私も可愛がってもらったつれあいの従兄である。享年87歳。

 長く中学の教員を務め、退職後は短歌と新聞投稿を趣味とし、脳梗塞のおつれあいの介護に専念した。2年前より入院、加療に勤めたが、2月14日、力が尽きるように亡くなったという。

   
 急きょ、二人で帰省した。

 

 新宿から高速バスで5時間。ラーメンの町喜多方へ。
 東北自動車道を走っている間は、快晴、無風。羽生(埼玉県)と阿武隈福島県)のSAで休憩、阿武隈で運転士が交代する。

 

 郡山JCTから磐越自動車道に入る。数分すると、外の様相がガラッと変わる。吹雪。横殴りの雪である。福島と云っても会津の天候は新潟県とほぼ同じ。かつては豪雪地帯だった。

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 喜多方に近づくにつれて葬儀場の看板が目立つ。帰省の目的が葬儀だからそう感じるのかと思いきや、終点から乗ったタクシーの運転士によると市内には10か所の葬儀場があるという。

 平成の大合併によって近隣5市町村がまとまって5万人弱の市になったが、それにしても10か所は多い。高齢化が進んでいるとは云え、「客」の奪い合いには激しいものがあるという。 

 それぞれが年会費無料の会員を募り、生前からつながりをつける。客扱いは丁寧だし、自動販売機の飲み物などすべてタダ。至れり尽くせりのサービスに努める。通夜のあと、喪主である故人の息子とその叔父にあたる故人の弟ともに私たちも葬儀場に宿泊したのだが、布団も風呂も何一つ不自由することがなかった。もちろん建物も真新しく清潔で、設備は最新のものだった。

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 都会では家族葬直葬など葬儀の簡素化が進んでいるが、共同体がまだ色濃く残る地方ではそれほどではなく、旧来の近所同士の助け合いなども続いている。

 

 

 酒造会社に勤める喪主の話によると、喜多方には酒蔵も10か所あるという。過当競争では?と尋ねると、それぞれがそれぞれの持ち分や特徴を守ってやっているのだという。ほとんどを地元に供給する蔵から、全国展開する蔵まで。

 また、ある酒蔵の当主は、3・11後に独自の電力会社を立ち上げ、太陽光、水力など再生可能エネルギーを供給している。自然の水と米を原料とする酒造りと電力事業は通ずるところがあるのだという。

 

 

 挨拶もそこそこに、まだ入棺されずに祭壇の前で布団に寝かされている故人の顔を拝見する。つれあいの手が震えている。

 小さいころから何かとかわいがってくれた従兄だ。お見舞いにも何度も帰省している。

 90年代の初め、定年となった従兄につれあいは万年筆を贈った。

 高校入学の記念に従兄はつれあいの父親から万年筆をもらったという。それがどれほど嬉しかったかという話を従兄はつれあいに何度もしていた。長い間、大切に使ってきたとその万年筆を見せてくれたという。

 万年筆がまだ特別な意味をもっていたころの話だ。

 

 40年前、つれあいの父親の年忌法要のとき、結婚したばかりで手持ち無沙汰にしていた私に声をかけてくれたのもこの従兄だった。

 近くのまこと食堂という、今では有名店となったラーメン屋へ連れて行ってくれ、ふたりでお酒を呑んだ。小一時間ほどしてまた二人で会食の続く料亭に戻ったのだった。

 

 その時、どんな話をしたのか忘れてしまったが、自分が同じような年ごろになったころ、若い世代にあのような心遣いはできなかった。

 

 昭和7年生まれ。中学になるまで戦争の時代。戦後、家は没落し、大学進学をあきらめ通信制に通い長い苦学を経て教員になったという。

 

 通夜振る舞いのあと、4人でお線香番として遺体の近くで泊ったのだが、明け方までお線香番をしたのは故人の弟だった。

 兄弟は必ずしも平坦な人生を歩んできたのでなかった。仕事も生活も家族も波瀾に満ちたものだったことを私も知っている。

 何度もこみ上げてくる故人へのさまざまな想いが、夜が更けるにつれあふれてくる。つれあいは、いちいちそれに相槌を打つ。彼女にも口にしないさまざまな想いがあるのだろう。

 喪主と私は、それに応えることなく寝入ったのだが、私はともかく喪主にとっては、父の来歴を新たにする貴重な時間だっただろう。

 

 二日目。青空が垣間見える。かと思うと、吹雪。次々と弔問客が到着する。

 孫の男女3人が一人ずつ弔辞を読む。みな20代後半だろうか。祖父への思いを率直な言葉で語る。こみ上げてくるものがある。

 

 葬儀が終わった会場のエントランスで見知った15歳ほど下の衆議院議員に会った。高校の部活のOB会で見知った顔である。

 衆議院議員がこんなところまで顔を出すのかと思ったのだが、故人の「教え子」だという。

 3年間国語を受け持ってもらい、学級担任もしてもらった、厳しい先生だった。おかげで国語の成績は高校でも1番だったことがある。他の教科は200番ぐらいだったが。そんな話をほんの短い間にして、去って行った。

 声をかけたときにすかさず握手を求められた。今まで出会った政治家は皆そうだったから驚きはしなかった。政治家は相手の名前が出てこなくても、まず手を握る。そんなものだ。だから握り返しはしなかった。

 

 しかし大方の政治家はこの程度のつながりなら弔電だけで済ますのが常、出席するとすれば弔辞を読むなどするのが政治家のやりかた。

 そうではなかった。彼は弔辞を読むこともなく、周囲に愛嬌を振りまくこともなく、教え子のひとりとして静かに列席していた。

 

 

 通夜、葬儀、骨あげ、初七日の法要とお斎まで二人で出席。しっかりと見送れたと思う。


 遺影はやや厳しい表情だったが、いつも穏やかな話し方で、笑顔の素敵な人だった。

 

 喜多方を出たのは夕方、薄暗くなってから。激しい吹雪の中だったが、5時間かかって着いた新宿はまだ宵の口。星は見えないが晴れていた。

 

 たくさんの人が街を歩いていた。

 

 日曜日なのに小田急下りの快速急行はけっこうな込み具合。二人でたくさんの荷物を持っていたからか、つれあいが席を譲られそうになった。思わず目を合わせて笑った。

 もうそういう歳なのだから、譲ってもらってもいい。やせ我慢しなくても。

 立っている身には、手にぶら下げた葬儀の返礼品がやけに重たかったのだった。

 

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