武田珈琲(石垣島・崎枝)のコーヒーと陶風舎(松江市東川津町)のコーヒーカップ? そして目の前にいるM君と、遠い昔のY君のこと。

 昨日一日、全国的に大荒れの天気。横浜も朝から暴風雨。

 

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 午後はからっと晴れた。気温は18度。久しぶりに午後の散歩。空も雲も秋空のように高い。渇水気味の境川にも潤いが戻った。ミモザの黄色が鮮やかだ。気持ちのいい午後。

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 ふたつ、紹介したいものがある。というかコマーシャルである。

 

 石垣島に出掛ける直前、つれあいが、公立学校に勤務していた退職者に配られる「公立学校共済だより」なる雑誌に、石垣島でコーヒーをつくっている若者の記事を見つけた。行ってみたいと云う。

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 滞在4日目に国立公園の一部となっている景勝地川平湾と、島いちばんの高さの於茂登岳(525.5㍍)登山口を訪れた。

 この日は朝から雨。こんな日は雨が止むとハブがよく出るという話を聞いたので、於茂登岳は登山口「車窓見学」ですませた。安価なツアーのようである。


 川平湾は透明度が高くグラスボートがよく知られているが、雨がパラパラ来ていたため砂浜に降りて写真を撮っただけ。客の呼び込みの人たちもはなから諦めているようで、手持無沙汰の体。


 近くに高峰酒造所の看板を見つける。泡盛「於茂登」をつくっているところ。

 40年前、初めて石垣島に来た時に、当時、若い市会議員だった当主にお話を伺った。

 沖縄自立論がしきりに語られた時期、地域政党沖縄社会大衆党が元気だったころの話だ。当時、30代半ばだった方だから、今では80歳近いだろうか。

 

「武田珈琲、探してみようよ」。

出かける前につれあいは武田コーヒーの情報をネットで集めたという。「とにかく難しい」「見つけにくい」。まるで泡盛の「入手困難」酒のよう。言われれば呑みたくなる、行きたくなる。


 住所をナビに入れる。枝番が・・・ない、というより一つ違いはあるのだが、そのものは出てこない。ナビにも載らないところか。

 まあ、一つ手前の番地を入れればなんとなるだろう。

 

 天気が少しずつ回復してくる。島を周遊する幹線道路から横道に入る。道はそこそこ広い。崎枝というのが集落の名前だ。少し行ったところに分かれ道。地面すれすれのところに10㌢四方の小さな表示。手がかり発見。字が消えかかっているが武田珈琲と読める。

 矢印に沿って進む。前にも後にもクルマはいない。両側に幅のある歩道。車が通らないのに歩道?延々と続く。帰途、本格的な自転車旅の人たちと何人もすれ違ったが、みな車道を走っていた。歩道には段差があるから走りづらいのだろう。となると歩道は誰のため?

 

 さきほどの表示から3,4キロ走っただろうか。

「入るとこ、見落としたかもしれないね」と言い合った頃、海側になる右側に小さな表示「武田珈琲」を見つける。
「あったね」「うん、あった」
今度は全くすれ違えない狭さ。前からクルマがきたら大変だ。両側は背の高い笹?がびっしり茂っている。
「ほんとにこんなところにあるのかね」
3分ほど走ると、建物が見えてくる。海に向かったテラスに男性の姿が。武田珈琲、到着。

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武田さんご夫妻

 久しぶりの客を迎えるように、気持ちのこもった「いらっしゃませ!」


 テラスで珈琲の試飲をいただきながら、武田さんの石垣島でコーヒーをつくるに至った経緯や測り知れない苦労について、何度も「もうやめた、帰ろう」と思った話や、生計を立てるためにやっている家庭教師のバイトのこと(高峰酒造書にもいっているらしい)、石垣島にきてすぐに結婚を決めたという奥さんは、元々ご両親がいくつか喫茶店をされていて自分も珈琲にどっぷりハマってきたという。コーヒーいのちの人生に訪れた大きな転換となった石垣島でのコーヒー修行と、家財道具を湘南ナンバーの軽乗用車に乗せてフェリーで渡ってきた話などを伺う。

 湘南ナンバーから話は盛り上がり、拙宅至近のグランベリーモールにもよく来たという話にも。今改装中で「グランベリーパーク」にリニューアルしていると云うと、「ええ、行ってみたあい!」。人里離れたところでコーヒーをつくっている人とは思えないほどの落差に大笑いする。

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 雨はすっかり上がり、青空が見え始めている。テラスを吹き抜ける風は少し湿り気を帯びていて、気持ちがいい。

 ほのかに甘みを感じさせるをコーヒーをいただき、2種類を購入。20分後に訪れた若者のカップルに写真を撮ってもらい辞去。


 ハワイ島でハワイコナの産地の農園を見学したことがある。豊かに実った大きな珈琲の実がつややかに実っていたいたのを憶えている。


 石垣島は、緯度こそハワイとほぼ同じだが、台風銀座でもある。

 石垣島でコーヒーをつくるのは至難の業。さまざまな技術を編み出さなければならないという。それでもこの辺境極まる土地で自分たちの好みのコーヒーをつくろうというお二人の意気込みはかけがえのないものだと思う。平凡な人生を歩んできた私たちからすれば信じられない人生。月並みだが、お二人の未来が素敵なものになることを願わずにはいられない。

 

 石垣島から戻った次の日、卒業生のM君と二俣川で会った。島根・松江在住の彼と会うのは25年ぶり。中2の学級担任、国語の担当というだけのつながりだが、卒業後もたびたび会ってよく話をした。映画の話題が多かったような気がする。馬が合うというか、気心の知れた間柄。どうして25年も会わなかったのだろうと思う。聞けば54歳だという。


 会って10分ほど。ついこの間呑んだよねというほど気を許している。彼のゆったりとした性格のなせる業だ。


 話をしているちに、出雲大社の近くで何段重ねかのそばを食べたということ(割り子そばという名前が出てこなかった)を思い出した。あの時は連絡先をもっておらず失敬したよと話すと、M君はお土産だと云って袋を取り出した。

 

 中には出雲そばとあごだし、そして奥さんが焼いたという蕎麦猪口が二つ。

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 門外漢にもシンプルでセンスの良さが感じられる一品。聞けば、松江の自宅に窯もあり、陶風舎という陶房を営んでいて、お店も開いているという。一緒にいただいた名刺からは作陶家松本尚子さんの穏やかで優しい雰囲気が感じられる。

 彼はこんな素敵な人と結婚していたのか!

f:id:keisuke42001:20190312151840j:plain名刺の表、裏?

 帰宅してもう一度箱を開けてみると、底の方に2枚お皿が入っている。蕎麦猪口の下に敷くものだろうか。いやいや蕎麦猪口に皿を敷くなんて見たことがない。では、別々に使うものか?などとつれあいと話しているうちに、「把手はないけれどコーヒーカップにもなるよね」ということになり、明朝、これでコーヒーを飲んでみた。なかなかよい。10日経つけれど、今日もこれで呑んでいる。

コーヒーカップf:id:keisuke42001:20190312151901j:plain

 

 さて、カウンターで呑んでいたのだが、となりの客がするっと話に入ってきた。アタマを剃りあげた坊さんのような頭をした人。同区内の中学の卒業生でM君の3つ下だという。あまりにきれいに光っているので触らせてもらう。ひとくさりアタマの手入れの苦労話を聞く。いつか役に立つかもしれない。 

 

 けっこうな話し好き。アタマの話が終わったからといって無下にするわけにもいかず、ふたりで彼の話を聞くことに。


 そのうちに、

「そっちの中学にかなりワルいのがいましてね、中3のときに校長を脅かして週に3日くれば卒業させろって約束しちゃったんですよね」

「いい人だったんすけど、私その人にめちゃくちゃ殴られましてね」。

 

 何?その話。よく知っている。Y君のことだ。

 

「それ、私のクラスの子。校長脅した?時も、そこにいたよ」

 

と私。

 地元で呑めばこういうこともある。

 脅したというより、彼にはなるべく早く卒業して働きたいという思いがあって校長に頼み込んだ形だった。校長も、それまでほとんど学校に来ていなかった彼のことだから、3日でもいいからしっかり学校に来なさいと伝えた。

 ただまずかったのは、校長がそれをペーパーにしてしまったことだ。

 

 どこからどうつながったのか、知られるはずもないペーパーが、次の日にはマスコミの知るところとなり、まず読売新聞の社会面トップに「校長脅し念書」というタイトルが躍っていた。あれが念書か?とは思ったが、万事休す。

 

 それから1か月ほどの狂騒曲?は忘れがたい。思い出したくもないが。

 80年代の初め、荒れる中学が全国を席巻した時代。町田の忠生中学事件などが起こったころだ。

 彼は並みのワルではなかったが、手先の器用な頭のいい生徒だった。卒業してから5年ほども付き合っただろうか。来歴はいろいろ支障があるから記さないが、苦労の多い人生を歩んだことは想像できる。

 

 彼とM君は年齢が3つ違うだけ。

 25年ぶりに会ってよもやま話をしているM君がここにいて、最後に会ったのがやはり25年ほど前になるY君は、いない。

 教員と生徒。逆方向の電車に乗っているようなすれ違いもあり、ときには接触事故を起こすようなこともある。かかわりなど全くない別路線のこともある。

 

いずれにしてもかかわりは長くて3年。互いの行き先はわからない。ほとんどの出会いは誤解による。誤解にはいい誤解とまずい誤解があるだけだ。

 

 ○○病の数値が気になるのだが、M君との話が中途半端になってしまい、別れがたく河岸をかえて1時間、話していうちに互いに少しろれつが回らなくなっていった。

 

広島市の被爆体験伝承者養成事業、伝承者は「原発問題には触れるな」と広島市市民局 国際平和推進部 平和推進課 被爆体験継承担当。当事者性ということをどう考えるか。

    これは今朝、広島の中澤晶子さんから送られてきたもの。私のところは朝日新聞は取っていないので、この記事が全国版のものなのか地方版なのか分からない。もう読まれている方がいるかもしれないが、大事な記事だと思うので載せておく。

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すみません。画像を回転するすべを知りません。ご自分で回転させてください。

 広島市被爆体験伝承者養成事業は、被爆者である語り部の方々が年々少なくなっていく中、被爆の実相を後世に伝えるための事業として始められたものだ。


 原爆の実相を伝えるのが目的なのだから、さまざまな見解のある原発問題には触れるなと云うのが広島市の意向のようだ。

 原発にはいろいろな考え方がある、それよりも被爆者の残したものに寄り添って、ということだろうが、それほど単純なことのようには思えない。


 記事の中の伝承者の言葉にもあるように、被爆者の記憶をそのまま伝えるのならAV機器を充実させて、今まで記録してきたたくさんの録画・録音をそのまま視聴してもらえばよい。


 では、今このこの時代に生きる人々が「伝承する」ことの意味とは何だろうか。

 

 被爆者の一言一句を正確に伝えることが大一義とならないことは当然だ。

 大事なことは、被爆者だけでなく伝承者もまた歴史の中の「当事者」であると同時にこの時代を生きる「当事者」だということだ。

 

 彼らが日々感得する問題について、伝承と絡めて話をするのはごく自然なことだ。伝承することは、時に自分を語ることであるはずだ。

 

 原爆投下から73年余、今この時期に行政が伝承者を育てるということは、被爆の歴史の伝承をすすめるとともに、この時代に生きる伝承者の「今」も同時に受け入れ育てることだと思う。


 「いろいろな考えがある」として「いろいろな考え」を排除するやり方は今に始まったことではない。こうした発想には、いろいろな考えを排除したいと考えている者に対する忖度が含まれていることは言うまでもない。
 

 伝承者が「テープレコーダー」に留まらないように豊かな伝承を形成していくこと、それが豊かな想像力をもった行政の在り方ではないかと思う。広島市独特の市民局 国際平和推進部 平和推進課 被爆体験継承担当というという素晴らしい名前の部署が、かえって継承の道筋を狭めてしまうのは残念でならない。

 

 

 

 

9日のドイツでのデモについてミュラー・柴 勵子さんのレポートも寄せられました。そのまま転載します。

 

 

 

今日は3月11日、8回目の福島デーを迎えました。
私達SGD脱原発活動も7年目となりますが、日本の安倍政権下による、原発推進政策は海外輸出(ベトナム、英国、トルコ)こそ挫折しましたが、民意を顧みる事なく、一方的に進められいます。

福島デーに先駆け、3月9日の中間処理場のある Ahaus で行われた反原発デモには、SGDからは7人が、雨にも、突風にも、寒さにもマケズに参加してきました。

集会は駅前と市庁舎前の2箇所で行われましたが、福島の現状(原発事故は今もって収束されていないこと、小児の甲状腺癌の罹患率の上昇などを含め)報告もありました。又私達の垂れ幕や「FUKUSHIMA WARNT」のプラカードに気づいた仲間たちが、寄ってきて一緒に写真を撮り、励ましの言葉をかけてくれたり、SGDのシンボルであるひまわり(造花ながら結構よく出来ている)をわけて下さいという方があり、垂れ幕につけられたひまわりが、高々と共に行進する光景も嬉しいものでした。

地元での抗議集会に参加することによって、今後も共に脱原発をアピールしてゆきたいと願っています。


下記の報告(独語)と写真をご覧頂ければ幸いです。

ミュラー・柴 勵子(記)

 

– 9. März 2019 – Antiatom-Demo in Ahaus – Atommüüll-Zwischenlager dürfen keine Endloslager werden! –

– 1.400 Menschen demonstrierten in Ahaus –

Aus der Pressemitteilung des Demo-Trägerkreises «Atommüll-Zwischenlager dürfen keine Endloslager werden»

«Mit einem Demo-Zug durch die Ahauser Innenstadt und der Aufstellung von gelben X-en und schwarzen Fahnen am Zwischenlager Ahaus protestierten 1400 Menschen gegen die Zwischenlager-Politik der Bundesregierung und für einen sofortigen Atomausstieg.

Die Organisatoren der Demonstration fordern, geplante Castor-Transporte aus Garching und Jülich nach Ahaus zu stoppen und die Errichtung möglichst sicherer Zwischenlager an den beiden Standorten. Mit der Demonstration erinnerten sie außerdem an die Katastrophe von Fukushima, die vor 8 Jahren einmal mehr verdeutlich hat, dass die mit der Nutzung der Atomenergie verbundenen Risiken nicht beherrschbar sind. Neben solidarischen Grüßen an japanische AtomkraftgegnerInnen, drückten die DemonstrantInnen auch ihre Solidarität mit der russischen Umwelt-Organisation Ecodefense aus, deren Aktivist Vladimier Sliviak auf der Demo über jüngste russische Repressionen berichtete.

An der Demo beteiligten sich auch 80 Landwirte aus Ahaus und Umgebung mit ihren Traktoren.»

Bürgerinitiative „Kein Atommüll in Ahaus e.V.“ – https://www.bi-ahaus.de
.ausgestrahlt – gemeinsam gegen Atomenergie
Umweltinstitut München e.V.
Bundesverband Bürgerinitiativen Umweltschutz (BBU) e.V.
Aktionsbündnis Stop Westcastor
Aktionsbündnis Münsterland gegen Atomanlagen
Bund für Umwelt- und Naturschutz (BUND) e.V.
Bürger gegen Atomreaktor Garching e.V.

Fotoserien-Link: https://photos.app.goo.gl/oMpKbSs85ByrxmTT7

Copyright: Klaus Reinhard Müller © CC BY-SA 4.0

文章は、グーグル翻訳をつかうとなんとか大枠の意味はわかります。

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NHKBS時代劇『小吉の女房』江波杏子さん追悼。

 今朝の気温4℃。快晴。啓蟄を過ぎてもこんな日がある。というより、南関東の3月は意外に寒い日が多い。

 海軍道路の広大な畑のあちこち、作物が植わっていないところに霜柱が広がっていて見事。

 畑のそこここに収穫されなかった大根、ブロッコリーなどが放置されている。そこにヒヨドリの群れ、ヒヨドリは雑食だがブロッコリーが好物とのこと。からだが大きい分、腹を満たすのが大変なのだろう。庭に来るヒヨドリも大食漢である。

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今朝のヒヨドリ


 横浜の田舎、瀬谷区には随所に無人有人の野菜販売所があるのだが、このところ開いていないところが多い。

 ちょうど行きあった野菜作りの名人と云われる農家のOさんに声をかける。

 「4月半ばまで売るものがない」そうだ。野菜の端境期なのだろう。秋から冬には「買うものがない」とはあまり感じなかったのだが。


 西にみえる富士山(静岡県)とその前の丹沢山塊(神奈川県)に新たに降雪。思わず写真を撮りたくなり、エレベーターに乗る。8階の廊下を吹き抜ける風は1階のそれとは違ってかなり冷たいが、高いところは気持ちがいい。安全な高所は恐怖を感じない。写真は相変わらずへたくそで恐縮なのだが、実際はもっとずっと秀麗である。

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マンション8階から西の方向をのぞむ。富士山の手前がうっすらと雪をかぶった丹沢山塊。このまま視線を右に動かすと北岳を中心とする南アルプスが見えてくるのだが。

 

 

 NHKBSプレミアムのBS時代劇に『小吉の女房』という番組がある。録画してみていたのだが、昨日最終回を見た。連続ドラマを最終回までしっかりみることは多くない。この作品は最後まで愉しめた。


 幼少時代の勝海舟の父親小吉とその家族を主人公とした物語。

 原作は山本むつみさんのオリジナル脚本。『ゲゲゲの女房』や『八重の桜』などを書いた方。時代考証もちゃんとなされていると思われるが、登場人物の配役を自在に動かすお手並みは絶妙だと思う。

 

 江戸時代、幕末間近の天保期。貧乏旗本・勝家の女房・お信は、毎日お金の苦労をしながらも、無邪気な笑顔も絶やさない。身分にとらわれず、人に分け隔てがなく、度胸の良さも満点だ。
夫は、勝小吉。生来の無鉄砲。腕はめっぽう強く、頼まれたら嫌とは言えない。
お信は、そんな小吉が愛おしくてたまらない。お信の明るさとのんきさ、知恵や機転が、トラブル続きの小吉を支える。そして両親を冷静に見守るのが、跡取り息子の麟太郎。利発で聡明。母から身分を超えた博愛を、父から義侠心をもらい受け、やがて「勝 海舟」として江戸の人々を救うことに…。(HPから)

 

という設定。どうということのない物語ではあるのだが、小吉の古田新太とお信の沢口靖子の息の合った演技がとってもよい。沢口靖子の若々しい清新さは信じられないほど。彼女が古田新太と同年齢の53歳とは思われない。


 それに加えて荻野清子さんという作曲家の方の音楽がなんとも軽妙でコミカル、垢ぬけていて、刀を差して走りまわる時代劇とのミスマッチがとっても良い。映画やドラマの音楽を多く手掛けるよく知られた方らしいが、この時代劇を品の良いしゃれたものにしている。

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見た目よりも、演技の清新さうぶさがいい。


 そして忘れてはならないのが、昨年10月に亡くなった江波杏子。お信の祖母登勢の役。沢口靖子は劇中で「おばば様」と呼んでいる。麟太郎はひ孫にあたる。


 娘夫婦に早く先立たれて、孫娘のお信に勝小吉という婿養子をとったものの、この婿と登勢は折り合いが悪い。無鉄砲で上昇志向の全くない小吉に対して登勢は容赦ない。小吉もまたぶつぶつと「反抗」にいとまがない。

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入ります。


 大姑(おおじゅうとめ)として登勢は家名を汚さぬよう、秀才の誉れ高いひ孫の麟太郎をまっすぐ育てたいと願っているから、いちいち小吉のやることが気に食わない。

 登勢と小吉の間に入る天真爛漫なお信と父親が大好きな麟太郎、そこをベースに毎回いろいろな事件が起きる。


 きりっと背筋が伸びて、周りの空気を冷やしてしまうような迫力。

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 18本の映画がつくられたという『登り龍のお銀姐さん』の頃のあだな艶っぽさとは違って、気丈な立ち居振る舞いと鋭い眼光、『仕事人』の姑、菅井きんとはちょっと違う。強気なのだがどこかに人生の黄昏を見つめている風情がある。随所に味わいのある演技が見られて、何度も唸ってしまった。
 

 最終回で登勢は亡くなるのだが、急逝したことと重ねてみてしまう。亡くなったのは昨年の10月だが撮影をすべて終えてからのことだったという。最後の仕事はラジオドラマの収録だったとか。

 享年76歳。またひとりいい役者をなくした、と思う。
 

石垣島の散歩の道すがら、薄皮一枚はぐとみえてくるものは…。

   3月に入ってから2日間、雨が降り続いた。40分ほどに過ぎないのだが、朝の散歩がなくなると、どうも気分がすっきりしない。

 

 石垣島では、初日の夜の深酒で1日、3日目パンナ公園のエメラルド展望台への登山(160㍍の急階段)の疲れで一日、都合2日は休んだが、2日目4日目は、朝、一人で散歩をした。

 

 朝と云っても、西のはて、石垣島は夜が明けるのが遅い。2軒目の滞在先は、730交差点の目の前にあるホテル。島中でいちばん繁華な場所だが、早朝の6時ごろは人通りもほとんどなく、わずかなネオンが点滅するだけで宵闇がまだそこここに蹲っている。

 あるかなしかの風を感じる。長袖のシャツ一枚では少し肌寒いかなと思ったが、歩いているうちに気がつけば腕をまくっている。気温は20度を超えている。昼間は27度になった。

 

 石垣島の日の出は、この季節7時ごろ。かと云って学校や会社の始まる時間が遅いわけではない。通勤と思われるバイクの人も。10分ほど歩いた先の港の広場では、10数人の人たちが集まってラジオ体操をしている。明るい音楽が大音量で薄暗闇の中に流れてくる。不思議な光景。


 少し明るくなってくると、埋め立ての島新港地区(南ぬ浜町)にかかる青いサザンゲートブリッジが大きく見えてくる。歩道も広く、歩いて渡れる島だ。南十字星がここからよく見えるのだという。

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 資料によれば、90年代初めに石垣市内閣府沖縄総合事務局によって、ここに人工ビーチやホテルなどの商業施設、海洋歴史博物館、フィッシャーマンワーフなどが計画されたが、バブル崩壊によって実現せず。現在、人口海浜がつくられ、トライアスロン大会などが催されているという。

 

 ゆっくり歩いてのぼっていくと、いちばん高いところに少しスペースがあり、椅子もある。

 床に地図と各地への距離が記されているモニュメント。方位がよくわかる。

 サンフランシスコまで12500㎞、東京まで1940㎞、那覇まで400㎞。与那国島まで130㌖。台北までは270㎞などと。

 

 東の水平線の雲間に陽光が見え始める。いったん見えると上るのは早い。雲間を見え隠れしながら上っていく。横浜でみている太陽に比べて、かなり大きく見える。
日の出が見えたのはこの日だけ。

 


 この新港地区。3年前にPAC3(地対空誘導弾パトリオット)が配備されたところで知られている。迎撃ミサイルである。2016年の北朝鮮のミサイル発射のときにここに配置された。以来3度にわたって、その都度配置されている。


 石垣島でもっと繁華な地点である730交差点(78年に通行方向を逆転したことを記念してつくられた交差点)を通って、500人規模の陸自がここ新港地区に配備されたという。

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PAC3

 

 これが陸自の日常的な配置の前触れのひとつだったことは想像に難くない。

 迎撃するということは、その地点も狙われるということだろう。尖閣有事に対する陸自兵站確保が今回の配置の理由ならば、PAC3も含めて石垣島そのものが危険にさらされることは必定だ。自衛隊が守ってくれると受け入れ容認派は云うが、74年前の沖縄戦では軍は住民を守らなかった。ここ八重山での戦争マラリアと云われる軍による住民の強制避難、退去によるマラリア罹患で、3000名以上の人が亡くなっている事実もある。

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 穏やかな南の島は、一枚薄皮をめくれば戦争の歴史が隠されている。その薄皮は、終わるどころか、新しい始まりを隠せないほどさらに薄くなっているのではないか。


 ホテルへの帰途、ランドセルを背負った小学生4,5人とすれ違う。みな半袖に短パンである。
 石垣島には学校と郵便局が多い。児童・生徒数は少ないけれど、地区ごとに小学校がある。16の公立小学校と私立小学校が1つ、中学校は5校、小中併設の学校がこのほかに4つある。このほか特別支援学校と高校が3校。350人が通う小学校と8人が通う小学校。統合せずに地区が学校を守っているのだろう。

 どうして郵便局が多いのか、と土地の人に聞いたら「生命線ですから」という答えが返ってきた。学校も同様に、辺境の地から飛び立っていくためのひとつの生命線なのだろう。

 ならばなぜ陸自PAC3など、と考えてしまう。

 

 

 さて、境川河畔の散歩。二日間の雨で水量が増している。観音寺という古刹が境川、鶴瀬橋のたもとにある。この寺の墓地が境川に沿って広がっている。

 そこに60㍍にわたって河津サクラが濃いピンクの花を咲かせている。春の彼岸頃には散ってしまうようだが、その頃にはソメイヨシノが主役となる。

 穏やかな川の流れと春めいた空気。気持ちの良い散歩だった。

 

 

 今回、年に5,6度ほどだが、長年、泡盛を送ってもらっている酒造所を初めて訪れた。家族だけで酒造りをしている小さな蔵。いつからか、短い手紙を交換するようになった。
初めてお会いして言葉を交わしたのだが、初対面とは思われず、旧知の友人に会ったような気がした。お土産にもいただいたのだが、昨日、新たに注文した泡盛が届いた。

 

前略
 旅の疲れは如何ですか。今回の旅は予定を立てずに来島したとのことでしたが、十分に楽しめましたでしょうか。拙宅を尋ねることが目的のひとつだと伺い、ありがたく、嬉しく思いました。ひとときでしたが、愉しくお話が出来、本当に良かったと感謝しております。今後ともよろしくお願いいたします。
                            草々

 

 真っ白な一筆箋に達筆な文字。お酒を仲立ちにしたささやかなつながり。こうしたかかわりがとても大切なものに感じられるようになった。年をとったのだろうか。

 

 

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アーケード街「ユーグレナモール」で立ち寄った立ち呑みの店

 

 

 

県民投票の裏で、沖縄防衛局、石垣島で陸自配備のための作業を強行。

 1日の夕方に、石垣島から戻った。5日ぶりのことだ。
薄暗くなってきた時間だったので、カーテンは開けなかった。


 2日の朝、疲れが残っているのか、遅く起きて来たつれあいが「梅、どうなっているかな?」と言う。「そうだ、梅だよ、梅」とカーテンを開けてみた。

 枝いっぱいについた薄いピンクの梅の花びらが目に飛び込んできた。思わずスリッパのままテラスに出てしまう。つれあいの小言に、落花はわずかだよと応える。

 まさに今が盛り。

 

 ホームセンターで売られていた1mばかりの高さの細い苗木を庭に植えたのが、9年前のこと。毎年、花も実も申し訳程度にしかならなかったのだが、ようやくこの2,3年、立派な花をつけ、幹も5,6㌢になり実も10数個生るようになった。

 

 同居の義母の介護のこともあって、30年住んだ港北の菊名大豆戸町から、20㌔離れたここに移り住んだ。結婚以来、2度目の転居。その記念というわけでもないが、ふたりで買い求めたのがこの豊後梅だ。

 朝食を済ませて、ぼうっと庭を眺めていると、なにやら梅の枝に動くものが。

 メジロだ。

 慌ててスマホを取ってきて撮るのだが、うまくいかない。「指で画面の中心を押すとピントが合うよ」などと言われてもうまくいかない。そのうち、メジロは飛んでいってしまう。

f:id:keisuke42001:20190304170049j:plain         渾身の?ワンショット

 そこでつれあいが、石垣島で食べ残したタンカンを半分に切って私に手渡す。枝に刺せという。花のついていない枝の先端2本にオレンジ色のタンカンを刺す。

 間もなくタンカンに取りついたのは、ヒヨドリメジロの4倍はありそうなガタイで周りを伺いながら貪り食っている。先日、白菜をしこたま食べていった夫婦だ。
タンカンは見る間に食べつくされる。

 メジロのつがいはどこに行ったのか、と思って外を眺めていると、ヒヨドリがいなくなったころを見計らって飛んできている。鳥に貴賎はないが、眺めていてきれいなのは茶色のヒヨドリより鮮やかなウグイス色のメジロ

 家の中の生き物。水槽の中の熱帯魚。多めに餌をやっていった4匹のスマトラと6匹のプリステラ、なんとか生きていた。

 午前中のうちに、次女のところに預けたらいを引き取りにいく。こちらもいろいろ阻喪はあったようだが、元気。いつものことながら迷惑をかけた。3歳の暁人が喜んでくれたようだが。

 

 2月25日早朝、前日の沖縄の辺野古基地建設に対する県民投票の結果をみて、ひとことブログに書いてからの出発。

 

 石垣島那覇の新聞が届くのはお昼頃。あるものすべて買い求めた。琉球新報には、編集局長と並んで沖縄タイムスの編集局長が寄稿している。両紙の関係がよくわかる。

f:id:keisuke42001:20190304172704j:plain         本島2紙,八重山2紙

 

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琉球新報の26面 最終ページ 気合が入っています。

 

 

 石垣島に到着したのお昼すぎ。当初は投票をしない自治体のひとつだった石垣市、ふたを開けてみれば7割以上の反対票。

 島の中には、「自衛隊のミサイル配備反対」と「基地受け入れ賛成」の幟旗があちこちに。本島から400キロ以上も離れたここでも、米軍、自衛隊の違いはあるが、受け入れか否かで揺れている。

 

 本土ではあまり話題にならないが、28日、沖縄防衛局は周辺住民の意向を無視して、陸自配備の作業を強行した。辺野古の県民投票に反対していた市長は、陸自配備を積極的に容認している。

 周辺4地区との面談、説明の次の日の強行。説明はアリバイに過ぎず、テレビの報道は「どこに訴えればいいのか」と困惑する住民の声を紹介していた。配備計画が発表されたのは2017年5月。

 

 与那国島に続いて宮古石垣島と「尖閣有事」を想定した自衛隊配備が進む。

 沖縄戦では軍隊は住民を守らなかった。八重山諸島には戦争マラリアと云われる旧日本軍が住民を圧殺した歴史がある。

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 25日、白保地区の商店で昼食をとった。民宿がやっている食堂である。ここは以前に宿泊したことがある。朝食はこの食堂で食べた。10年以上前のことだ。

 缶ビールを注文したら、飲み物はとなりで買って来いと云われる。

 そうだった。そういうシステムだった。オリオンビールといかのゲソ天。

 雑貨屋然とした店の入り口には、沖縄のおばあさんが坐っている。県民投票の結果を熱心に読んでいる。八重山日報だ。店番はそっちのけである。その手元を何気なく見ていると、

 

 「読む?」「いいんですか?」「いいよ」「勝ちましたね」「面白くなったな」「そうですね」。

 

 陸自が配備されるのは、ここからほど近いところだ。幹線道路国道390号線の至近、小学校、中学校、特別支援学校と道路沿いに並んでいるところだ。

 

 

 

 

 

 

 

     

沖縄県民投票、反対の民意、あきらかに。

  沖縄県県民投票「反対」は43万4273票,投票総数の71・7%を占めた。有権者総数の4分の1を超え、昨年9月の知事選でデニー知事の過去最多得票の39万6632票を上回った。

 

 これでも日本政府は、アメリカのための基地をつくり続けるのか。

『ファースト・マン』と中澤晶子さんを囲む会2月14日

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 2月14日、桜木町・みなとみらいブルク13でファースト・マン』(2018年・米・141分・原題:First  Man・監督デイミアン・チャゼル・主演ライアン・ゴズリングを見る。平日の13時過ぎ、7割ほど席が埋まっている。

 かなりの長尺だが、全編惹き込まれ、時間を感じなかった。


 アポロ11号による月面着陸という極大の世紀の偉業に、一人の父親という極小の存在を対比させ、見事に結晶させた佳作だと思う。


 みる方のことをほとんど考えていないほどの轟音と画面の激しい揺れそして徹底した静寂。

 こうしたこだわりは、若いすぐれたドラマー志望の学生を完膚なきまでに叩きのめし、わずかな愛情さえも見せない音楽教師を描いた『セッション』に通じるものだ。

 チャゼル監督は映画をつくるにあたって、ニール・アームストロングを家庭にあっては敬愛される良き父として、宇宙飛行士としては歴史に名を刻むヒーローとして描くこと拒否するという地点からスタートしたようだ。

 映画は、生涯多くを語らなかったというアームストロングの人生を描いた、ジェイムズ・R・ハンセンによる伝記「ファーストマン」が下敷きになっているが、この伝記とチャゼル監督の人間へのこだわりの強さが良質な化学反応を起こした。

 

 公開後、映画の中にアームストロングが月面にアメリカの国旗を立てるシーンがないことが物議を醸したという。アメリカ国民からすれば、米ソの冷戦対立の中、血税を使って偉業を成し遂げたのはアメリカ人だというプライドは当然だが、チャゼル監督は「船長が月面に星条旗を立てるシーンこそないが、月面に星条旗が立っているシーンはある」と釈明、「この作品ではアームストロング船長の内面や知られざる一面を描き出したかった。船長が月面に星条旗を立てるシーンはあまりにも有名で、知られざる一面ではない。」(引用はWikipediaから)と疑義に答えた。前段は言い訳であり、後段にこそ彼の明確な意図があると思われる。

 しかし、たとえアームストロングの内面を描こうとしたとて、ほんの数秒の星条旗を立てる部分をカットする必要があったのか?

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 アームストロングという人間の中に分け入って彼を描き切ろうとしたとき、星条旗のシーンはかえってそれを阻害するものと考えられたのではないか。


 この点をとらえて反米映画だとする論調はまったく笑止である。主演のゴズリングやアームストロングの子息のコメントを読むまでもなく、星条旗のシーンがカットされたことで、よりアームストロングの深い奥行きのある人間性が浮かび上がり、映画としての輪郭がはっきりし、風格が与えられたように思う。これは、反米映画どころかアームストロングへのオマージュを下敷きにしたむしろ上質なアメリカ映画である。

 

 アームストロングの中には、幼くして亡くなった娘のことが長く澱のように沈んでいた。ジェミニ計画に選ばれながら拒否するも、娘の死去後に彼は、宇宙飛行士への意欲をかき立てる。と云っても、それは静かな内省的なもので、未知への挑戦をといった英雄主義とは懸け離れたもの。

 そのアームストロングの内面的な葛藤をライアン・ゴズリングが見事に演じていると思う。

 家庭でのアームストロングは、子どもたちに対して時に明るくひょうきんな態度で接するが、出発前夜、妻に「子どもたちに父親としてしっかり思いを伝えてほしい」と何度も促されながら、煮え切らない態度に終始する。

 なんどか妻にせがまれ、深夜2人の息子、8歳と12歳ぐらいだろうか、に対峙する。

 そこには偉業に臨む偉大な父親とは懸け離れた、家族を至上のものとする平凡で等身大の父親しかいない。

 あどけない質問をする幼い次男に対し、思春期を前にした長男は「帰ってくるのか」の問いを鋭く発する。

 「わからない」。

 妻が求めた言葉とはたぶん違う。一瞬の沈黙。

 促されて寝室に向かう二人。次男は父親とハグをして別れを表現する。長男はおずおずと右手をさし出して、父親に握手を求める。

 

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 出発前のインタビュー。アームストロングは同僚の派手なパフォーマンスに対し、味もそっけもない態度。記者たちの評判は良くない。

 月までの長い苦闘にかなりの時間が割かれるが、冒頭で述べたように轟音と激しい揺れに観客も付き合うことになる。音楽はやや派手すぎる感があってよいとは言えないが、その分、音声がカットされた月面地平線のシーンは美しい。


 月に降り立ったアームストロングは、亡き娘の小さな腕飾りをそっと地面に置く。「人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては偉大な一歩だ」という言葉が、どこか紋切型に聞こえてしまうほど、このシーンは痛切だ。

『セッション』同様、妥協を許さない映画づくり。チャゼル監督、次は私たちに何を見せてくれるのだろうか。

 

 

  夜、中華街・香港路・牡丹園で広島在住の児童読み物作家「中澤晶子さんを囲む会」。市内の中学でヒロシマ修学旅行を行っている若手の教員を中心に30人ほどが集まる。会は十数年続いているが、この会場で行うようになったのは6年ほど前だろうか。

 

 中澤晶子さんが横浜の中学の修学旅行の手伝いを始められてもう20年以上。

 

 きっかけは1988年に発行された『あしたは晴れた空の下で』という作品の一部「いのちということ」が、光村出版の中一国語に掲載されたことによる。

 チェルノブイリ事故に遭遇した日本人一家を描いた物語。横浜の中学校では、この作品を読んで広島を訪れ、中澤さんにお会いするというのが、修学旅行の一つの定番となっている。

 ある時は旅館の大広間で、ある時は平和資料館の講堂で、ある時は平和公園を一緒に歩いてなど、中澤さんはさまざまな形で各校の修学旅行に深みを与え続けてきてくださった。

 また新たな見学場所の発掘?にも熱心だ。広島県が現存する被爆遺跡としては最大級の旧陸軍被服支廠の保存に動いたことにもかかわっている。ここは原爆投下後、爆心地からある程度の距離があったことから臨時救護所として使用された。峠三吉の『原爆詩集』所収の長編詩「倉庫にて」の舞台となった場所である。

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陸軍被服支廠の一部

 出席者の中には、実際に修学旅行で生徒として中澤さんのお話を伺ったことのある教員も複数いた。また教職にはついていないが、中学を卒業して十年以上になる卒業生も出席していた。

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お話をされる中澤晶子さん 

 今回も、人権の問題を中心に原発問題から広川隆一批判まで、いつもながら縦横無尽なお話を伺ったあと歓談に入るのだが、その合間に出席者全員が一言ずつ話をする。学校のくびきを解かれた若者たちから自由闊達な発言が続く。これが中澤さんのお話と併せて、この会の醍醐味である。

 気がつけば、10時をとうに過ぎていた。見送ってくださった女将さんからエントランスで、一人ひとりに中華の赤い袋に入ったチョコが手渡された。

 今日、バレンタインデー。