さいたま市教委、10万人の児童・生徒に医療従事者への感謝の拍手を指示。なんというか、深みがないのである。私には目端のきく行政マンのその場かぎりの思いつきにしか思えない。 こういう「思いつき」が「業績」になってしまう世界だということに、少なくとも末端にいる教員は自覚的であってほしいと思う。

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白味が出る直前の庭のクチナシ


梅雨に入ったが、毎朝の散歩は雨で中断されることなく、続いている。

 

境川遊歩道の上流にある鶴間橋の往復。橋の西側は大和市、東側が町田市。ここまで片道ほぼ30分。

 

最近、気になるもの。

 

西岸の某民家に結構な規模のキウイの棚。実をつけ始めていて縦3~4㎝横2~3㎝まで育っている。

 

帰り道の東岸の某マンションの庭。きゅうりのつるがフェンスを這っている。イボイボのないきゅうりが一日で2~3㎝大きくなる。

 

自分のものでもないのに、そだっているのがうれしい。

 

境川に鯉がたくさん生息している。ほとんどが真鯉だが、誰かが離したのだろうか、

まれに錦鯉(のようなもの、たぶん)も泳いでいる。

真鯉はどのあたりに住んでいるのか特定できない。みな似たり寄ったりの姿かたちをしているからだ。

その点、錦鯉は上流と下流の特定の地点近辺に2匹、必ず見つけることができる。たぶん2,30メートルのところをいつも行ったり来たりしているのではないか。

 

毎日、つい探してしまう。

 

鶴瀬橋近くの左岸に空き家らしい2階建てのお宅がある。いつも窓が閉まっている。

ここの2階の雨戸の戸袋にムクドリが巣をつくっている。毎日のように出入りしているのが見える。ムクドリは飛び立つときに「ピピッ」と鳴く。大集団の群れをつくる。戸袋の中がどうなっているのか。子育て中かもしれない。

 

きのう、珍しくワカケホンセイインコを見かけた。といっても、その場でわかったわけではない。帰ってからネットで調べて同定したのだが、どこかから逃げ出したものか。

この鳥、色からしても南方の鳥のようだ。

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画像はネットから拝借しました

 

今朝の新聞に、さいたま市教委が15日、市内の市立学校186校10万人の児童生徒に対し、医療従事者に向けて拍手をする催しを実施、事前に実施日時や方法について全学校長に通知していたという記事が載っていた。

 

私は、学校で「感謝」という言葉が出てきたら要注意、立ち止まってその意図を見透かすべし、なんて云ってきた。そのぐらい学校の「感謝」というものは胡散臭いと思っている。

誰が何の為にどういう意図で感謝をうながしているのか、よくよく考えてみると、最終的にはうながしている張本人に感謝の意が向けられていることがよくある。

 

毎日おいしい給食を作ってくれる給食調理員の方に感謝しましょう

いつも学校のなかをきれいに保ってくださっている技術員さんに感謝しよう

道路での安全の為に毎日立ってくださる○○隊の方に感謝しよう

 

こういうふうにしていろいろなものが感謝によって隠蔽されていく。

感謝には、相応の価値判断が付随している。「おいしい」「きれいに」「安全に」。

子ども一人ひとりの価値判断ではない。促す側、教員の側の価値判断が前提となって感謝が強制される。

おいしくないよね、あそこいつも汚れているよね、おじさん時々よそ見しているよ、なんてことは脇に置かれ、そこには感謝をするという行為そのものが美しくて重要なのだというメッセージが込められる。

先生にも感謝しなくちゃね、毎日、私たちのために一生懸命勉強を教えてくれるのだから、ということになる。

感情の押し付けは、ものの実態、実体を見えなくさせてしまう。「畏くも!」といったとたん思考停止というのとほとんど同じ構造だ。

 

医療従事者に対し感謝の気持ちを表す、ということが悪いわけではない。それを教育関係のなかで何も考えさせずに押しつけることが問題なのだ。

なにゆえ医療従事者が厳しい立場に置かれているのか、保健所の数が減らされたのはどうしてか、、感染症に対する対応が甘く、感染症の為の病床が激減したのはなぜか、など社会の仕組みや政治のありようから原因や背景を考えさせることが重要であるのに、

学校では、感謝の拍手がそうしたものを見えなくさせてしまう。

さいたま市教委は、「いろいろな意見があることは承知しているが、大変意義深い教育活動なので実施した」とコメントしているが、少なくともこれは教育活動とは云えない。教化活動に近いものではないか。

 

なんというか、深みがないのである。私には目端のきく行政マンのその場かぎりの思いつきにしか思えない。

こういう「思いつき」が「業績」になってしまう世界だということに、少なくとも末端にいる教員は自覚的であってほしいと思う。