本格的な冬の気温。昨日4℃、今日5℃。今朝の散歩は存外風が冷たかった。
極寒の地で暮らす方々には申し訳ないが、ようやく冬支度を本気で始めた。
と云っても、灯油を用意したり、布団や下着を冬仕様にするぐらいのことだけなのだが。
旧陸軍被服支廠の保存に関して、広島県のHPに意見を書いてほしいと広島の中澤さんから依頼があったので、昨夜Twitterで全国の人達にお願いした。
以下、自分が書いた「意見」である。拙速であってもなるべく早く届けた方がいいと思い、バタバタと短い時間で書いた文章である。
広島県宛て
旧陸軍被服支廠の保存についての意見です。
先般、広島県はこの建物について3棟のうち2棟を解体、1棟を外観保存というかたちでの方針を明らかにされましたが、以下の理由から反対です。
たしかに耐震の面では補強が必要かと存じますが、建物そのものはいまだ極めて堅牢で当時の軍部の技術の粋を集めたもの、建築物としても歴史的に重要なものであります。
また、全長270㍍3階建てという巨大な被爆遺跡は市内にはなく、きわめて希少かつ貴重なものであり、これを解体してしまうのは被爆都市広島および広島県に向けられた期待に対する背信と云わざるを得ません。
私は2年前、実際にこの建物の内部に入り仔細に見学をしました。ほとんど手が入れられることなく保たれたこの場所には、1945年8月、救護所であったときの空気がいまだに残っているように感じられました。また、峠三吉の『原爆詩集』所収の「倉庫にて」の現場であることから、保存によって8月6日の「ヒロシマ」を再現するに十分なものがここにはあると思われます。こうした点を考えますと、外観保存ではなく、内部保存と見学が可能な施設として再建されるべきとかんがえますが、いかがでしょうか。
私は、横浜市の中学の1教員として、20年にわたってヒロシマ修学旅行を続けてまいりました。その中で大変印象が強いのは、当時学徒動員で広島城の中国軍管区司令部地下壕に派遣された、故岡ヨシエさんのお話です。岡さんが、新型爆弾投下を初めて福山通信隊へ打電し、友達の遺骸を踏み越えながら避難したというその現場で話される臨場感に、多くの生徒らは何度涙を流しながら聞いたことか。平和学習のインパクトとはこういうものか、その人、モノ、場所について納得したものでした。
しかし、被爆の証言者の高齢化はとどまるところを知らず、岡さんもすでに泉下の人となりました。広島を語る人、モノ、場所はどんどん少なくなっていくばかりです。
そんな意味からも、さまざまな偶然の重なりによって戦後70年余を原形をとどめたまま残り続けたこの建物は、重ねて申し上げますが、きわめて希少且つ貴重な被爆建物であります。なにとぞこの建物を全面保存し、原爆の悲惨さを語り継ぎ、平和と核廃絶を希求する人々のよすがとしていただきたく、広島県の賢明なご英断を願うものであります。
以下質問です。
多くの市民からも全面保存の要望が強くなされているにもかかわらず、なにゆえ、2棟解体、1棟外観保存なのか、被爆都市広島市を県下にいただく広島県として、その合理的理由を明らかにしてください。