厳しい環境の中で生きている子どもたちは、この国にもたくさんいる。子どもの貧困率15%というのがこの国の実態だ。さまざまなハザードを抱えながら、親を支えきょうだいを支えて生きていかざるを得ない多くの子どもたち、疲労と無表情が皮膚と心の内部に浸透してしまってそのまま固化している子どもたち。  試されているのは私たち。彼らにどのような思いをもった視線を送ればいいのか。そんなことを考えた映画だった。

    8月半ばに、季節はめぐり秋が近づいたなどと記したが、何ということはない、相も変わらず厳しい残暑が続いている。希望的観測という言葉があるが、まさにそれだったようだ。いや早く涼しくなってほしいという熱望的観測であったか。今となっては暑熱に焦がされる絶望的観測であったともいえるかもしれない。

    残暑のあとには台風というのが今年のパターン。今回も猛暑の中、台風21号が接近している。今までと違うのは、東北地方で秋雨前線が大量の雨を降らせていることだ。山形県では川が決壊している。台風21号が予想通りに進めば、また九州、四国から上陸し、東に向かうことになる。915hPaというからかなり大きな台風だ。西日本も東日本もまたもや大雨にさらされることになる。

 

    猛暑の中、所用で関内に出掛けたついでに映画を2本みてきた。一日3本は多いが、1本では物足りない。
    中区若葉町のシネマジャック&ベティ。

 

『2重螺旋の恋人』(2017年・フランス・107分・原題:L'amant double・監督フランソワ・オゾン 主演マリーヌ・バクト・R18+)

『祝福オラとニコデルの家』(2016年・ポーランド・75分・原題:Komunia・監督アンナ・ザメツカ)。


 1本目。いつもながら邦題について。

 原題はL'amant double、“二人の恋人”、私にもわかる仏語。さらっとしている。邦題は“2重螺旋”。二重ではなく2重。二重螺旋というと、のぼり用と下り用と別れているビルの駐車場や会津若松にある国指定重要文化財のさざえ堂を思い出す。二組の双子の話ということで、“2重螺旋”という言葉を選んだのだろうが、これはよけいな親切ごかしかそれとも気の利いた命名か。悪くないのかなと思う。

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 監督はフランソワ・オゾン、よく知られたフランスの監督のようだが、私は今年初めにみた『婚約者の友人』(2016年)しか知らない。深みのあるちょっと素敵な映画だったので、“2重”もみてみようかと思ったのだった。

 

スイミング・プール」「8人の女たち」のフランソワ・オゾン監督が、アメリカの女性作家ジョイス・キャロル・オーツの短編小説を大胆に翻案し、性格が正反対な双子の精神分析医と禁断の関係にのめり込んでいく女性の姿を、官能的に描き出した心理サスペンス。クロエは原因不明の腹痛に悩まされ、精神分析医ポールのカウンセリングを受けることに。痛みから解放された彼女はポールと恋に落ち、一緒に暮らし始める。ある日、クロエは街でポールに瓜二つの男性ルイと出会う。ルイはポールと双子で、職業も同じ精神分析医だという。ポールからルイの存在を聞かされていなかったクロエは、真実を突き止めようとルイの診察室に通い始めるが、優しいポールと違って傲慢で挑発的なルイに次第に惹かれていく。「17歳」のマリーヌ・バクトが主人公クロエ、「最後のマイ・ウェイ」のジェレミー・レニエが双子の精神科医を演じる。共演に「映画に愛をこめて アメリカの夜」のジャクリーン・ビセット
                           (映画.COMから)


 これだけ読むと“心理サスペンス”の線で先がほぼ読めるような気がしてしまうのだが、映画はもっと複雑で湿気があって生々しく、変態っぽさが充満している。冒頭のシーンは女性器の内部から。

 原因不明の腹痛が精神的なものに拠るとして、医師に精神分析医を紹介してもらうところから映画が始まる。
 この内部への偏執の印象とイメージが、宝石箱に入れられた生きて動く猫の心臓単体を経て、妊娠、出産?の終盤まで続いていく。

 クロエの視点から不安と好奇と恐怖がないまぜになった心理が描かれていくのだが、そこにはとどまらない。意図的にホラー的な要素が組み込まれている。進むにつれ心理的な妄想と思われるシーンが挿入され、現実との境界があいまいになっていく。

 おおきな流れとして、クロエが、双子の精神分析医同士の互いを否定して生きてきた確執に女性として翻弄されていく話かと思ったら、そう単純な話でもない。実はクロエ自身が双子であって、母親の体内にいたときに姉を吸収してしまい、それが体内に残って長じてからの腹痛の原因であるかのように語られる。それはまた母親との確執の表象でもある。

 どちらが父親かわからないクロエの妊娠から、出産(ではなく姉の肉塊?)直前の腹部の奇妙な動きはエイリアンが腹を食い破るシーンに似ている。ちょっと笑えた。ここまでしなければならない映画なのか。なんだか始まりの静謐な雰囲気がどんどん変質していくようで、やや興ざめした。

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 フランソワ・オゾンが、女性を端正に美しく描くのは前作の『婚約者の友人』同様なのだが、『婚約者の友人』が一つの現実を裏返して意表を突く心理的な恋愛劇であったのに対し、本作はあまりに入り組みすぎていてちょっと遊びすぎたのではないかと思われた。

 隣人の高齢の夫人と施設にいるという娘、その部屋にあるいくつもの猫の剥製、そこに預けられる行方不明になるクロエの猫のミロ、ルイに強姦されたという若い娘サンドラ、彼女は起き上がることすら出来ないほど痩せて憔悴しているのだが、クロエに対し視線でホラー的な意趣返しをする。クロエに憎しみをぶつけるその母親、そして終わりに唐突に登場するクロエの母親。ポールとのベッドシーンの最後に突如毀れる大きな窓ガラス。それぞれ思わせぶりなのだが、それほど緊密につながっているとも思われない。
 最小限の音楽と画面の切り取り方の新鮮さにはうならせられたが、物語の中核部分が“薄い”と思った。
 でも次回作は見てみたい。怖いもの見たさか?

 

 『祝福 オラとニコデムの家』。予告編を見るとこのタイトルでもいいかなとも思うが、本編を見ると違うんじゃないかと思う。原題の“Komunia”(“交わり”という意味のポーランド語、コミュニケーションに近いのか)のほうがいい。

 オラが住む狭いアパートには、弟ニコデムだけでなく、働いているのかいないのかわからないお酒の問題を抱えた父親も住んでいるし、男と出ていったと思われる母親が赤ん坊を連れて帰ってきもする。13歳の自閉症の男の子を懸命に世話をする14歳の少女という構図を強調するあまり、こんなタイトルになってしまったのではないか。

 

 

 ポーランドワルシャワ郊外の街セロック。14歳の少女オラは酒飲みの父親と自閉症の13歳の弟ニコデムの家族3人で暮らしている。母親が家を出て行ってしまったため、家事や弟の面倒のすべてを献身的にこなすオラ。そんな彼女が夢見るのは、弟の初聖体式が成功すれば、ふたたび家族がひとつになれるという、ほんの小さな希望だった。(映画.COMから)

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これだけを読めば邦題も納得できるのだが。 

 

 カメラは部屋が狭い分、オラやニコデル、父親とかなり近い。彼らが家の中を歩くとき、カメラをよけたり、カメラの方がスペースを開けてみたりしているふうに見えるときもある。こんな形でドキュメンタリーの撮影が行われたことは驚きだ。殊に14歳の思春期真っ只中の少女オラが、自分の生活を包み隠さず見せることを受け入れたことは信じがたい。

 オラは友人との雑談の中で「弟にやさしくしなければ」という。しかしニコデルは思うように動いてはくれない。学校の授業の準備をしたニコデルの鞄の中から、必要ない教科書をぞんざいにほおり投げるオラ、バスタブでいつまでも水遊びをするニコデルの頭をひっぱたくオラ、それでも聖体拝領式の練習には根気強く付き合うオラ、理屈ばかり並べて動こうとしない言い訳ばかりにみえる父親にいらだちながら気遣いも見せるオラ、時に自棄になるオラ。

 オラは洗濯にアイロンがけ、掃除に食事の用意と働きづめだ。

 ある日福祉士の訪問がある。担当者は父親に酒を呑んだのではないかと詰問する。店の前で見かけたと。父親は自棄になったように否定する。父親自身の中に大きな不全感があって、彼自身それをしっかりと受け止め切れていない。オラに指図はするが、自分では動こうとはしない。気持ちの上でもオラに依存している。 

 連絡を取っていた母親が赤ん坊を連れて戻ってくることに。母親もオラに依存しているように見える。オラは母子が狭いアパートの中で休めるよう心を砕く。一方ニコデルは父親と寝たい、父親は妻と床をともにしたい、間に入ってオラがみなをなだめる。

 久しぶりに4人で教会に出掛けるシーン、初めてのはじけるようなオラの笑顔、外での久しぶりの豊かな会食。光があふれるテーブルはオラの気持ちを表しているようだ。


 ニコデルの聖体拝領のための準備が進む。オラはニコデルに聖書を憶えさせ、司祭の前でしきたりに沿って質問に答えられるよう何度もニコデルに練習させる。司祭の役割までやってみせる。

 ポーランドは伝統的にカソリックの国であり、オラにとってはニコデルが聖体を拝領することが喜びであり、今後の家族の福音となるのではないかと考えているようだ。
  

 自閉の世界にいるニコデルが発する言葉が、時に現実とコミットするシーンがある。教室の中にいて発する「僕は空気ではないんだ」。

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 書き留められないが、ニコデムが発する短絡しているかのように見えるたくさんの言葉が、自己や家族やオラの存在をニコデルなりに了解していることが伝わってくる。映画はそれを意識的にとらえようとしている。
 

 冒頭のズボンにベルトを通すシーンが印象的だ。何度も何度も繰り返してベルトを通そうとするのだが、バックルは正面には来てくれず、うまくいかない。ラストシーンも同じ。でも今度はちょっと違う。会話の成立しにくいニコデムの存在感がいい。

 

 福祉士と話すとき、オラにはにかんだ笑顔が見える。「大変なんだってね」。福祉士は、これは施設に入れなければならないケースだがと言いながら、オラをやさしく励ます。オラにこんな声をかけているのは福祉士だけだ。


 呉美保の映画に『きみはいい子』がある。大好きな映画だ。呉美保自身、このオラの物語が気に入っているとインタビューに答えているのを何かでみた。
 

 そう、アンナ・ザメツカ監督はカメラをもってオラに向かい、スクリーンを通して「きみはいい子だ」と伝えたかったのではないか。
 厳しい環境の中で生きている子どもたちは、この国にもたくさんいる。子どもの貧困率15%というのがこの国の実態だ。さまざまなハザードを抱えながら、親を支えきょうだいを支えて生きていかざるを得ない多くの子どもたち、疲労と無表情が皮膚と心の内部に浸透してしまってそのまま固化している子どもたち。
 試されているのは私たち。彼らにどのような思いをもった視線を送ればいいのか。そんなことを考えた映画だった。

 

 

  映画の中で唯一聞き取れた言葉があった。JINQEE、ありがとう、である。   

 アウシュヴィッツのエデュケーター中谷さんが、「忘れたら十九円って言えばいいですよ」と教えてくれた。ジンクイエ ≠ ジュウキュウエン。

 

 

 

 

 

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本文とは関係ありません。

2018年3月、ポーランドクラクフの街。ホテルの窓から。