『その声は、長い旅をした』(中澤晶子/国土社/2019年10月10日/1400円+税)声変わりは肉体の成長の大きなきざしだが、同時にわずかに消え残った無垢の喪失と新たな再生の、辛苦の物語でもある。 この物語にはそんな暗喩が込められていると思った。

11月28日

曇天が続いている。

今朝、カワウの群れを見た。30羽ほど。すぐ後ろにサギが一羽。首を伸ばして飛んでいると、カモかと見まがう。

このところ、カワセミをよく見かける。啼き声が聞こえるとたいてい見つかる。シジュウカラメジロもよく見かける。

寒いかなと思って歩いているのだが、そのうちにからだが温まってくる。まだ本格的な寒さとは言えない。

あす、快晴の予報。最低気温4度の予想。

11月ももう終わる。来年のカレンダーが新聞の折り込みに入っている。手帳もいつの間にか太っていて、余白がわずかになっている。

 

2016年に設定だけしたTwitter。ふと思いついて先週から始めてみた。脈絡も何もないが。

Twitter@keimac11211

 

 

読み飛ばし読書備忘録⑰

『その声は、長い旅をした』(中澤晶子/国土社/2019年10月10日/1400円+税)

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広島在住の児童読み物作家中澤晶子さんの最新作。挿絵はささめやゆき。名コンビ。

声にまつわる物語。タイトルも秀逸。

ページをひらくと、歌が聴こえる。変声期前の男の子の声。静かで軽快なオブリガードのよう。

 

500年前の天正少年使節団のコタロウと現代の2人の少年、開と翔平。少年たちははるかな歴史の流れをらくらくと飛び越える。習俗も時代も思いさえかけ離れているのに、少年たちの声だけが時間を超えてつながれている。声帯が音声を発するという点では、時間の隔たりなどないに等しい。

音楽についての過度な描写がなく、その点で『蜜蜂と遠雷』よりもずっと自然に入ってくる。

子ども向けの読み物でありながら、そのことを忘れさせる密度の濃い表現が随所に見られて、心地よかった。

 

変声とともに訪れる一つのキセキ。ジョスカン・デュ・プレの「千々の悲しみ」を歌うシーン。

 

 つぎの小節、開がはじめに旋律をうたい、ぼくがそれに高音でかぶさるはずのところ。出そうと思った声は、出なかった。かさかさした空気だけが、のどからもれた。/それは、ぼくと開と、先生しか知らない。他にはだれも気づいていない。なぜって、デュエットは問題なくつづいたから。ぼくは口を動かしただけだったのに。/うたっているのは、そばにいるだれかだった。/高い音ほど、やわらかく響く、すばらしい声が、ぼくのかわりに開とぴったり息を合わせてうたっている!あの声。ぼくの声じゃない,ぼくの声。

 

 

 四番町少年合唱団は、声をあわせ、ひとつになった。/ぼくたちといっしょにうたっているのは、あの声だけではなかった。/たくさんのひとたち、はるかむかしの、遠いところの知らない人たち。/知らないけれど、どこかなつかしく、銀色の声の糸でつながっている人たち。/うたっているのに、あんなに静かだったのは、なぜだろう。

 

声変わりは肉体の成長の大きなきざしだが、同時にわずかに消え残った無垢の喪失と新たな再生の、辛苦の物語でもある。

この物語にはそんな暗喩が込められていると思った。