師走の声をきいてもう4日。初霜が降りたのは、11月の終わりだったか。
今朝、快晴の下、境川の散歩。カワウとサギの数十羽の群れが一緒に飛んでいた。最後の方にアオサギ一羽がついていった。
久しぶりにオナガを見た。飛び方が他の鳥に比べてゆったりと見えるのは、尾が重いせいだろうか。
11月29日、久しぶりに全学労組の文科省交渉に出席。内容については、先月から始めた慣れないTwitterで報告している。
90年代の終わりに全国の独立系少数労組の世話人をしていた。何とかして文部省にものを申したいと交渉の道を探るべく、霞が関に足繁く通ったことがあった。
管理職でもなければ文部省なんて行きことはなかった。神奈川・横浜とは言え、東京・霞が関は都会も都会、お上りさんそのものだった。とにかくいろいろなものが物珍しい。
今では旧館となっている文科省の建物(テレビで文科省といえばこの旧館が映されることが多い。実際によく使われているのは高層ビルのほうなのだが)の中庭に「さざれ石」があった。ただのセメントの塊のように見えたが。
先般、台風の対応で訳の分からない動き~本人は私的視察といっているが、たぶんサボっていたのだろうが~で物議をかもしている千葉県知事の森田健作が、文部次官となって登庁した当日に出くわしたこともあった。ランがいくつも届けられていた。至近から森田健作を眺めたが、今ほど人相は悪くなかった。
約2年間、10数回だろうか、とにかく何度も通い、ひたすら話し込んだ。担当者は一度変わったが、二人ともノンキャリの真面目な人物でよく話を聞いてくれた。ある時、Sというその担当者が「分かりました、やりましょう」。交渉団体(公的には話し合い)となった。
「で、名称はどうしましょう?」
大部の申し入れも出来上がり、予備交渉で出席人数、時間配分などいくつものハードルを乗り越えたとき、担当者が言った。
「え?全国学校労働者連絡会ではいけないんですか?」
「いけなくはないんですが」
連絡会じゃ軽い?もう少し箔をつけてくれということか。
「私達は、全学労連さん(事務職の独立系組合)と区別して、皆さんのことを内部的には全学労組と呼んでいるんですが・・・」。
一存では決められない。
持ち帰って世話人会で話し合うと、ほぼ即座に
「それでいいんじゃない?」
ということになった。この軽さがこの団体のいいところだ。
以来、連絡会は正式に「全国学校労働者組合連絡会(略称全学労組)」となった。
文部省に命名してもらった稀有な団体ということになる。
しかし交渉関係になったといっても、日教組や全教のような大組合とは格が違う。20組合ほどの零細組織には、文部省もそれなりの対応となる。
出席する役人のほとんどは、20代後半から30代前半のせいぜいが係長クラスか専門官の若いキャリア職員。いちばん年をとっているのは、窓口を担当しているノンキャリの係長。
とは言え、こちらはみな交渉に練達した人ばかりだから容赦はしない。話し合いはすぐに膠着状態に陥る。彼らは、ちょっと激しく追及されると真っ赤になって黙り込んだ。
「はっきりしろ!」「何を云ってるかわからない!」「それが文科省としての見解でいいのか!」
文部省としては若い職員に世の厳しさを知らしめようと、有象無象のかませ犬のような私たちの前に彼らを差し出したのだろう。
なにしろ日本で一番過激な労組と週刊新潮に書かれた大阪教育合同を筆頭に、交渉にかけては百戦錬磨の少数派独立組合の面々。姿かっこうからして、交渉窓口の私だけは一応約束を守って背広ネクタイだが、ほかの全国から集まった人たちは、甚兵衛やジャージ、サンダル履きの人達もいた。若い職員からすればさぞ胡散臭い団体と思っただろう。
昔ばなしになってしまった。これだから老人は困るといわれてしまう。
あれから20年。
今回の交渉はちょっと様子が変わった。出てきたのは初中局企画官のMという人物。今までの若いだけのキャリア組とは違う。
受け答えの中身はしっかりしているし、何を云われても落ち着いている。早く終わってこの場を去りたいという姿勢が感じられない。話があるなら聞きますよという態度。立場こそ違え、政策の全体像をよく把握していると感じられる人だ。もちろんその立場の違いから出てくる言説がいちばんの問題ではあるのだが。
お陰で、変形労働時間問題や上限ガイドラインなどについても中身のあるやりとりができた。
大きな声を出す交渉も大事だし、それはそれで意味はあるのだが、互いの意図を探りながらの交渉も面白いもの。
その変形労働時間制の審議、桜を見る会の陰で続いている。