気温は0℃まで下がらない。出がけに風がなければさほど厚着をしなくても済む。
今朝の気温は3℃を少し下回るくらい。境川沿いに北の方向、町田市方面に向かって歩き始めると、後ろから朝日が背中を照らしてくれる。手袋は10分ほどで外したくなる。東北の寒冷地に育った者にとっては、この首都圏の気候は何年経っても有難い。
風がないと川面は鏡面のように。
雨が降らないため水量が減って、砂洲が露わになっているところもある。
このところ毎日、カワセミを何羽も目撃する。今日は珍しくジョウビタキも。黒、白、茶色の羽。葦の穂先に留まるのはカワセミだけではないらしい。
火曜日は野菜の引き売りの男性が鶴間公園近くの住宅地にトラックを停める。8時を少しすぎる頃、近所の人たちが集まってくる。私たちは近所ではないが、最近はみなさんと顔馴染みになり、挨拶もする。
世間では野菜の高騰が続いているが、ここはもちろんスーパーなどに比べてかなり安い。それも朝採れたてだ。大根など結構な重さになるが、2人で抱えて帰る。
近くの農家の大きな門の前にも無人販売がある。9時をすぎると品物が出てくる。こちらはやや若い男性がつくり手だ。小松菜がいつも新鮮で量がたっぷりある。
冬の朝、たくさんの野菜を抱えて帰る。それだけで少しだけ温かい気分になる。
2025年1月11日 東京新聞
先日、角川歴彦氏の『人間の証明 勾留226日と私の生存権について』(リトルモア)を、図書館から借りて読んだ。ずいぶん長い期間待たされた。
130ページほどの分量。
オリンピックをめぐる汚職事件で逮捕され、容疑を否認、供述調書に印を押さないまま、勾留は226日に及んだ。東京拘置所内での死を覚悟するまでの状況を、咳き込むような文体で赤裸々に綴っている。
保釈されてしまうと、中でのことはなかなか語られないし、まして訴訟を起こすことはほとんどない。
先般の警察、検察の出鱈目な捜査が明らかになった大河原化工機事件では、逮捕された3人が長期に勾留され、相談役の方が拘置所内で胃がんが判明、のちに亡くなっているが、裁判所はこれについて国の責任を認めていない。
求めている捜査の違法性についても、3人の捜査官が起訴されたが、1月8日、みな不起訴となっている。
今回の角川氏の訴訟は、人質司法と言われる報復的かつ恣意的な身柄拘束が長期間続くことへの国家賠償請求だ。つまり国が公権力として行った行為の違法性を問うものだ。
記事の中にもあるが、刑事裁判の被告が、起訴後1ヶ月以内の保釈の割合は、起訴内容を認めた場合は23.4%、否認した場合は8.3%。無罪を訴える被告の9割が勾留されている。
検察が裁判所に勾留を求めて、裁判所がこれを認める。証拠隠滅や逃亡がその理由になるが、何より容疑事実、起訴事実を認めないことが1番の理由だ。裁判所も検察もその意味では変わらない。多くの勾留請求を裁判所はほとんどそのまま認めてしまうのが通例だ。裁判所も検察も司法という権力を互いに握り、被疑者、被告の人権など顧みないのは今に始まった事ではない。
『人間の証明』というタイトルは1976年刊行の森村誠一氏の小説のタイトルと同じ。角川は当時この本の販売責任者として全国縦断サイン会を企画、森村氏と一緒に全国の書店を巡り歩いたという。
そんな関係の森村から激励の写真が届いたという。森村は2023年に死去。
角川氏は、人間は生まれながらにして持っている人間らしく生きる権利、生存権はいかなることがあっても侵されてはならない、それは人間であることの証明なのだという思いから。タイトルの使用を夫人にお願いに上がったという。
夫人は角川氏の言葉を聞いてしばらく間を置いて「光栄です」と答えたとあとがきにある
1冊の著書としては物足りないところもある。それは仕方がないことだ。しかし本としての体裁よりも大事なことがある。切羽詰まった思いが行間からひしひしと伝わってくる。80歳になる著者が自らの無実を訴える裁判のほかに、人質司法を糾弾する国賠訴訟を維持していくのは並大抵のことではない。
人質司法は、いつ誰の身にも降りかかるかわからない。他人事ではない。裁判を注視し、できる限り支援していきたい。