Mさんのフクシマツアーレポート。       私はどこに立っているの?  ~Weフォーラム2024in福島フィールドワークに参加して~① 

10月初め、Mさんが1泊2日のフクシマツアーに参加。感想を書いてくれたので、紹介する。長いので3回に分けて掲載の予定。

 

 

  私はどこに立っているの?

~Weフォーラム2024in福島フィールドワークに参加して~

 

 他人事でもう過去のことになりつつある福島が気持ちのどこかに引っかかっていた。

フェミックスから届いた2024、10、11月号に挟まれていた案内、福島フィールドワークには浪江、双葉、大熊町を訪ねるという。申し込むことにした。Weの中村さんたちが行った下見に参加した広島の中澤さんからいいフィールドワークだったとの情報も背中を押してくれた。

参加者25名、名前を知っているというだけの中村泰子さん以外一人の知り合いもいないが、そこは私の性格、同じ思考の人を嗅ぎ分けることにして。

 

 10月5日土曜日10時50分福島駅集合。ここから浪江町津島をバスで経由し、双葉町産業交流センターへ向かう。走るバスの中、ガイドの今野寿美雄さんの生まれ育ったところだという津島町は開拓地で満州からの引揚者が山を切り開き、農業や酪農ができる土地にしてきた所。満州に行ったのも国策、日本に帰って来たのも国策、ダムで移転させられたのも国策、ここに住んだのも国策、そうしてこの土地を捨てて他の土地に住むようにさせられたのも国策、国策に代々長い間、翻弄されてきた人々。「ゼネコンの復興」あれさえなければ風光明媚な所だと今野さん。

 そういう意味で言ったら私の父も戦争に振り回されたと言えるのかもしれない。兵士として3回!召集され中国へ渡った。復員してきた彼を待っていたのは、いつの間にか後継ぎから外されていたという事実。軍刀で切り倒したかったと言っていたという話は、母から聞いた。マラリアに罹り、さらに爆音で片方の耳が聞こえ辛かった。40代からお酒を飲み始めた父の酒癖は、人に誇れなかった。62歳で亡くなった。戦争という国策に翻弄された父のことを私はどこまで我が事として受け止めてきたか。

www.f-bicc.jp

 双葉産業交流センターは町内で最も早く避難指示が解除された中野地区に2020年10月にオープン。貸し会議室、貸事務所、フードコート、レストラン、土産物屋さんなど商業施設が入る複合施設。この日は何かイベントが行われているらしく多くの家族連れが集まっていた。お祭りのようだった。ランチを食べて屋上へ。空は曇っており、眺望は楽しめなかった。

www.fipo.or.jp

午後は、同じく双葉町にある東日本大震災原子力災害伝承館へ。これもまた大きな建物。パンフレットには、未曾有の複合災害を経験し、復興の道を歩んできた福島の記録と記憶を防災・減災の教訓として未来へ繋いでゆくと書かれている。壁伝いに1914年からこれまでの災害の発生を受け、時系列で書かれたものを歩きながら説明を聞く。今野さんの力のこもった説明が続く。1914年猪苗代水力発電所の建設が始まる。今野さんは次に2004年と2007年の新潟中越地震を指差す。2007年は福島第一原発津波対策が予定されていた年だという。世界最大の新潟柏崎刈羽原発110万キロワットと135万キロワットの発電所中越地震のために壊れたので784000キロの福島第一原発津波対策は後回しになったという。この時に津波対策がなされていればこれだけの被害を受けることはなかったのかもしれないと誰しも思うだろう。

なぜこの課題に取り組むかの画像

写真は一般社団法人大熊未来塾HPから拝借しました