『口の立つやつが勝つってことでいいのか』というタイトルはかなりインパクトがあるのに、その中身について触れていなかった。紹介してみる。
著者には11歳上の兄と6歳上の姉がいて、そのせいか著者は口のたつ子どもだったそうだ。
当時(著者は1964年生まれ、70年代半ばのことか)もう学校は「暴力はダメ、話し合いで」となっていて、取っ組み合いなどしていると先生が間に入り、
「手を出しちゃダメ!口で言いなさい」。
それぞれの言い分を先生が聞いてくれたそうだ。
ここから引用。
「そういう時、私は口が立つから、「これこれこうで、相手がよくなくて、『自分が正しい』ということを主張する。
先生もなるほどという顔をして、「じゃあ、今度はあなた」と、もう一方の子の話を聞こうとする。
ところが、相手はうまく説明できないのだ。言いたいことはあるのだが、切れ切れになったり、「でも、あの」とかがやたらに入ったり、要領を得ない。
先生は、ははーんという顔をする。ちゃんと説明できないところを見ると、こっちの子の方に非があるんだなと思ってしまうわけだ。
私の方が正しいということになって、先生は相手の子に「頭木くんにあやまりなさい」と判決を下す。
すると、驚いたことに、相手の子は「ごめんなさい」とあやまるのだ!しゅんとして、うなだれるのだ。
いつもそうだった。私は勝ってばかりいた。
これはひどいと思った。これじゃあ、腕力が強い方が勝つのと何にも変わらないじゃないか。口が立つ方が勝つだけだ。こんな理不尽なことでいいのかと思った。
彼の考察が面白い。取っ組み合いになるのは、「もやもやした言葉にならない思いがたくさんある」からだという。
そして「もやもやした思いを、言語化するのは難しいし、不可能なこともある」。
その上言葉には「手品を仕込む」ことができるから手品のうまい方が勝ってしまうのだと言う。
勝っておきながら(笑)著者は、
「話し合いで解決というのは、とんでもないな、というのが小学生の時の印象だ」
そしてうまく言えないことが気になるようになり、うまく言えないことに真実があるように感じるようになったそうだ。
その通りだと思う。先生の「判決」が納得できないときは、再び取っ組み合いに持ち込むことも重要だ。世の中、国と国の間でも外交交渉が決裂すれば、再び戦争になる。
言葉も暴力も全く正反対の位置にあるわけではないのだと思う。
少なくとも暴力だけが絶対的に悪くて、言葉や論理が優位だということはない。
私は教員だから瑣末なこと、ここでは著者に手玉に取られ「判決」を下した教員の方が気にかかる。
何と言っても、口がたつ生徒の論理はわかりやすい。大人にも通用するようにできている。ちゃんと「手品」が仕込んであるからだ。
youtubeでインフルエンサー?という人たちがしたり顔でしゃべくり回しているのを見ると、安っぽい「手品」だと思う。それはひたすらに言い負けないための、勝つための「手品」だ。
若い頃は生徒の言葉や論理の「手品」に騙されることもなかったわけではない。
しかし、少し歳を食ってからは、目の前の生徒の「手品」より、つまり証拠、供述、論理より、生徒を取り巻くボワッとした空気のようなものをみるようになった。
普段の力関係や付き合い方を見ていれば、どちらが理不尽な対応をしたか、言葉や論理、あるいは証拠などなくてもわかるものだ。
ハナから証拠や供述をあまり信用していないから、これは先入観や予断だと言われても仕方がない。でも、それを気取られないようにする。気取られれば、先生はいつも俺ばっかり疑うとか、先生は俺を信用していないんだろということにもなる。
確かに信用はしていないのだが、それをそのまま口に出すわけにはいかない。かといって、「信じてるよ」とも言わない。
とにかく簡単に「判決」を下さない。双方の事情、言い分を最後まで聞く。相手の言い分もしつこく何度も伝える。
言っていることの脈絡を聞くのではなく、筋が通っていようといなかろうと「どう思っていたか」を聴き続ける。
もやもやしているものを時間をかけて言語化してもらうと、気持ちが落ち着いてくる。周りが見えてくる。相手のことも少しわかってくる。自分の論理だけでは通用しないことにも気づき始める。
「悪い」方がはっきりしても、簡単に一刀両断しない。悪い方にも理屈は必ずある。盗人にも・・・だし、交通事故の過失割合だって、よほどのことがなければ10対0はない。
認めた自分の非の分だけ、とりあえず謝らせる。
曖昧なところは必ず残る。ここがはっきりしなかったよねという確認をする。その上で「同じようなことがないといいね」というこちら側、教員の気持ちを伝える。
次の日から学校の中の日常が続いていく。基本的に街角で起きるトラブルとは違う。
これで収まればいいのだが、ここに親が入ってくるとコトは簡単ではない。生徒よりも親の方が自分の論理に拘泥することが多い。
親には理屈で押し切ることだけはやってはいけないということは肝に銘じてきた。
若い頃の失敗があるからだ。
親の最後の砦は「どんなにこの子が悪くても、私だけはこの子の味方です」。
これは理屈じゃない。こちらに対しても我が子に対しても、これは宣言であり、いわばスローガンだ。
声に出していうことに意味がある。
自分を親の立場におけばよくわかる。子どもと言ったって中学生ともなれば、全くの別人格。これはいったい誰の子だ?というほどに、わからなくなってくる。辛いものだ。だから味方になるしかない。
大事なのは逃げ道だ。親のしんどさを忖度して、決して追い詰めないこと。逃げ道を用意して、ちゃんと逃げてもらうことだ。
親との間も数年間は関係が続いていく。そのうちにどこかですれ違えば、最近どうですかなんて話にもなる。そういう関係でいられればいい。
口の立つやつが勝ちってことには、やっぱりならないと思う。