台風10号はまだ九州にいるのだが、東海道新幹線は計画運休。あちこちで風水害が広がっている。
テレビは台風10号一辺倒だ。散歩にも出かけられない。
近所付き合いのあるMさんのところに、国道246号が大渋滞とか、上瀬谷小近くの海軍道路が冠水しているとかのメールや、高層階から写した境川の増水の写真や、Mさんが通っている子育て支援施設の前の道路が雨水で溢れ帰っている動画が送られてくる。
Mさん、今日まで取り置きの図書館の本も取りに行けず、電話で延長をお願いしている。
私はといえば、今日はひまに飽かせて映画に行くつもりだったが、やめた。
前々から延ばし延ばしになっていた『ロイヤルホテル』と『時々、私は考える』の2本。
いつ電車が止まるかわからないのでは安心して見ていられない。
午前中から断続的に激しい雨が降り続いている。
止むと、セミと虫が交互に鳴き始める。
夕方のニュースで国道246号の大渋滞は秦野近くのトンネル入り口での崖の崩落事故によるものであることがわかる。クルマ2台が岩の下敷きに。運転手は逃げ出して助かったもよう。(8月30日)
映画が割と良かったので、どんなものだろうと『朽ちないサクラ』(2018年・徳間文庫 初版は2015年)を読んでみた。
それほど引っかからず、スーッと読めてしまった。拍子抜け。最大の山場のラストシーンも約30㌻ほど。
杉咲花と安田顕の息詰まるようなやりとりも意外に淡々と記述。骨がらみと言ってはなんだが、映画はかなりいい肉付けをしたのだなと思った。
表現媒体が違うのだから、比べても仕方がないのだが、原作は原作の良さ、映画は映画の良さ、それぞれ独立させて考えてみても、質的に映画が原作を超えることは、私の場合少ない。
今回は稀な例。設定も人物造型もストーリーの進み方も映画の方が説得力があるように思った。
もう1冊、『口の立つやつが勝つってことでいいのか』(頭木弘樹・2024年・青土社)
新聞の書評を読んで購入したのだったかよく覚えていないが、4ヶ月ほどツンどいて読んだ。
面白かった。
オビによれば、著者は大学3年の時に潰瘍性大腸炎という難病にかかり、13年間の闘病生活を送ったという。
職業は文学紹介者。
独特のエッセイ。日常生活にかけられた普段は気が付かない「薄膜」のようなものを丁寧に一枚一枚自分の感覚で剥がしていくような。かといって匠気を感じさせることなのない力の抜けた文章。
例えば「思わず口走った言葉は、本心なのか?」。
著者中学一年の時の話。
ある夜、友達の家に泊まりにいくつもりでしたくをしていると、母親が「今日はやめておきなさい」と言い出した。
口論になった。そんなに泊まりに行きたかったわけではないが、口論というのは盛り上がってしまうもの。興奮の中で著者は思わず
「なんで泊まりにいくと思っているの?この家にいるのがイヤだからだよ!」
著者は自分でびっくりする。思ってもいな言葉が口をついて出てしまったのだ。
しかし口はさらに勝手に「こんな家、いたくないんだよ!」
そして泣き出す著者。泣いている自分に驚いている著者。
母親の肩越しに向こうの部屋にいる父親の姿見える。悲しげな表情をしている。
本当はそんなふうに思っていたのかというショック。
しかし「本心ではないんだ」という本心は言い出せなかった。
母親は著者を宥めるように「行ってきなさい」と私を送り出した。
本当にことを伝えねばと思ったが、信じてもらえるだろうかと著者は考える。
どう否定したって、つい出てしまった本心を慌てて否定しているだけと取られるのではないか。
結局そのことには触れずに過ごし、今に至る・・・という。
「人が激したときに、つい叫ぶ言葉、酔ったときに、つい漏らす言葉、寡黙な人の口から、ぽろりとこぼれ出た言葉。そういう「思わず出てしまった言葉」は、「本心そのもの」のように、どうしたって感じられる」
「人間は心の中に、強く思っているけど、決して口に出してはいけないことを、たくさん抱え込んでいる。それを抱え込みつづけるには、常に理性の力が必要とされる。なんらかの理由で、理性のたがが少し緩んでしまうと、本心が溢れ出てしまう。だから思わず口にしてしまった言葉は、本心であることが多いだろう」
としながら、著者は「しかし、100%ではない。・・・じつは心の中に全くないことだった、という場合もある」
著者はいろいろといろいろと思索をめぐらすが、
「どうして、そんなときに本心でない言葉が出てくるのか、その理由はわからない」。
「でも、言葉にすると力を持ってしまう。「言葉にすることのおそろしさの一つだ」。
読みながら、何度か頷いた。
そして、いやいや、案外シチュエーションによっては心にないことを言ってしまうことって多いのではないかと思った。
寡黙な人は別として、酔った時とか激したときについ本心でないことを言ってしまうって、人と人との関係ではかなり当たり前にあるんじゃないだろうか。
ケンカのさなかで、普段は思ってもいないのに相手を否定してしまう言葉を効果的に?使ってしまう。不和の夫婦間では珍しいことではないだろうし、それが不和の状態を深めてしまい、離婚に至るということもあるだろう。
いや、それは普段からそう思っているから出てしまうんじゃないかとも思えるが、性格や人の行為には二面性や三面性があって、普段は許容できるものが、逆に相手を懲らしめ体固めに攻撃材料に転換してしまうこともある。
いずれにしても著者が言うようにそれは皆「言葉にすること」のおそろしさだ。
口にさえ出さなければ決定的にというところまではいかない。人間は理不尽だと思いながら、思わぬことを口に出してしまうもの。
では表情はどうだろうか。いつも適切な?表情で反応することばかりではないし、人の読み取り方もさまざま。これはこれで厄介なものではないか?
朝日新聞に掲載された著者の書評を友人が送ってくれた。読んでみたいと思った。
文学紹介者として優れていると思った。書名は『ロシア文学の教室』(奈倉有里・2024年・文春新書)