昨日、20時前、自分の部屋置いておいたスマホを取ろうとしたら、緊急地震速報がびっくりするほど大きな音で鳴り始める。
その直後、グラっときた。これでは速報の意味がない。驚くばかりで心の準備もできない。震度4。
震源の深さは約13㌔、地震の規模はマグニチュード5.3。最も強かったのは、厚木中町、中井、松田、清川の震度5。
各私鉄は緊急停止。新幹線も止まった。
8日の日向灘を震源の南海トラフ地震とは無関係というのが専門家の見解。
素人考えだが、山中湖や河口湖、富士川などが軒並み震度4を記録しているのを見ると南海トラフより富士山の噴火と関係はないのかと考えてしまう。
的外れ?
地震といえば、話は変わるが、先日、神奈川文学館で辻原登氏の講演を聞いたとき、ご本人が「どうぞ持っていってください」と受付に並べてくれた著書を何冊かいただいてきた中にあった『円朝芝居噺 夫婦幽霊』(講談社2007年)を読んだ。
ある文学者の遺品の中から出てきた速記文を高値で買い入れた筆者が、各種ある速記法からこれを解読してもらうと、これが円朝芝居噺、現代では誰も聞いたことのない円朝の幽霊話の一つであることが判明。
小説はまずこれを全文紹介、と言っても、噺の発端も中身も全て辻原の創作。円朝の因縁話を思わせる落語になっている。安政の大地震を物語の転換に使っている。
全文5回の口演記録ごとに詳細な訳者注までつけているから驚く。
そして最後に「訳者後記」。ここで円朝の息子朝太郎を登場させる。
朝太郎は円朝三回忌のときに墓所に美しい花と「円朝伜」と書いた紙片を残して消えてしまっている(ことになっている)。
ここから新たに「円朝伜 朝太郎小伝」が始まる。
朝太郎は、知力にたけ、何でもできる男だが何事も長続きしない。
円朝は死に際に朝太郎を廃嫡する。
この朝太郎と芥川龍之介の親交が偶然に始まる。
芥川が残した手帳12冊(芥川龍之介全集1988年)から、芥川が朝太郎に向かって
「朝太郎さん、僕はね、円朝論をやろうと思ってるんだ」
と言わせる。これに朝太郎は、
「坊ちゃん、おっといけない。先生、およしなさい。論(セオリイ)はいけません。物語(ロマンス)をお書きなさい。円朝おやりなさるんならセオリイだけはいけません。ぜひロマンスをおやりなさい。それもうんと長尺ものをね。何なら、私がお手伝いしてもよござんすよ」
芥川は朝太郎を二階書斎「我鬼窟」に招じ入れると、朝太郎はここでいろいろな幽霊の型をやってみせる。その数およそ百態。さすが円朝の息子。小さい頃から、円朝の集めた各種掛け軸に囲まれて育った。
ここから二人は途方もない計画に着手する。この共同作業、名付けて「夫婦幽霊」。
円朝の口演はなかった。
芥川と朝太郎は、物語をまず日本語で書き、しかるのちに速記記号に置き換えた。酔狂の極み。後世の解読は保証されない。
それを二人はやった。手の込んだ偽書作り。芥川にとっては鴎外の「史伝」に魏書で対抗するという試みだったかもしれないと辻原は書く。
では、伜朝太郎にとっては何を意味するか。
辻原は書く。
「円朝は朝太郎を愛し、絶望し、愛した。この愛に息子は応えなければならない。それは、父の作品の課で、父を生き返らせることであった。息子が書いて、それを父の作品とする。・・・偉大な父の事業に、負傷の息子が一つだけ小さな作品を付け加える。自らを父の事業の一部となす。これだ、息子にできることは、看病とこれだ」
「口演は・・・あったかもしれない。・・・場所は芥川の書斎「我鬼窟」。客は客は芥川ただひとり。日付は? わからない。」落語もよくしたという朝太郎によるものだ。
その後、朝太郎は、苦心して速記記号に置き換えた。
「その四年後、年号が昭和に改まった二年七月二十四日未明、芥川は田畑の自宅でヴェロナールとジャールの致死量をあおいで自殺した。『僕もあらゆる青年のやうにいろいろの夢を見たことがあった』と彼は遺書に書いた。」
さて、震災の起きる数時間前、大正十二年9月1日のことだ、朝太郎は、世話をしてくれていたお市を訪れる。分厚く束ねた風呂敷包みを抱え「少しばかり路銀をめぐんでおくれ」
お市があるだけの金を渡すと朝太郎は
「お市、きっと天災が来るぞ。もうすぐ来るぞ。近所に呼びかけて危険から遠ざかれ」
ラストシーン
「朝太郎は怒ったように顔を頬張らせ、くるりと踵を返すと、風呂敷包を大事そうに抱え直し、光の中へ入り。遠ざかり、消えていった。マグニチュード7.9の列震が東京を襲ったのは、その日のその日の午前十一時五十八分四十四秒だった。安政大地震から六十八年後である。」
こうして朝太郎が抱えていった風呂敷包みの中にあった速記録が、回り回って文学者の手を経て、辻原の手に渡ったということだ。
安政の大地震から関東大震災に至るまで、物語と作者、係累をめぐる因縁話が完結する。
面白かった。