八月や 六日 九日 十五日
いつもに比べ、わずかに風を感じる境川を歩いていると、彼岸の大和市側から放送の音が聞こえる。
そう言えば昨年も散歩の途中だった。
8時15分。黙祷を呼びかけるアナウンス。
800キロ離れた広島で、広島平和記念式典が行われている。
戻ってから政治家の発言をチェックする。
特筆すべきは湯崎知事の発言。今の政権や松井市長(の対応、招待者の二重基準)の姿勢に対して厳しく批判するもの。
比べてみる。
岸田首相
核軍縮を巡(めぐ)る国際社会の分断の深まりやロシアによる核の威嚇等により、核軍縮を巡る情勢は一層厳しさを増しています。
何も言っていないも同然。わざわざ広島まで来ていうようなことではない。終始ぼんやりした印象。地元出身の実態のなさ、情けない。一年以上前の広島サミットを持ち出して、業績(とは思えないが)を誇示。
途中、文章を飛ばしてしまい、それを市の職員のせいにした前総理菅某に比べれば罪がないか。
松井広島市長
ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエル・パレスチナ情勢の悪化により罪もない多くの人々の命や日常生活が奪われています。
いつも通り政権追随のスタンスを徹底踏襲、「イスラエル・パレスチナ情勢の悪化」とはなんだ?国をあげて多くの無辜の民を殺し、相手国の指導者を暗殺している国を招待し、片や声もかけない片手落ち。地元ではアオギリを枯らせたサミット記念館を作り、パールハーバーと公園協定を結び、平和記念公園から表現の自由を排除した責任は大きい。
湯崎広島県知事
翻って現在も、世界中で戦争は続いています。強い者が勝つ。弱い者は踏みにじられる。現代では、矢尻や刀ではなく、男も女も子供も老人も銃弾で撃ち抜かれ、あるいはミサイルで粉々にされる。国連が作ってきた世界の秩序の守護者たるべき大国が、公然と国際法違反の侵攻や力による現状変更を試みる。それが弥生の過去から続いている現実です。
湯崎県知事は、ロシア、ウクライナ、パレスチナ、イスラエルという国名を一切使わずに、現在の世界情勢を正確に表現し、批判している。
NHKのテレビカメラはその間ずっとイスラエルのコーエン大使を映し続けたという。
これぞまさに現場の仕事。ディレクターの判断に快哉を叫んだ人々は多いはず。「処分せよ」という声が政権側から上がることは必至。
県と政令市が仲が良くないのはどこも同じだが、それにしても湯崎知事にあまりいい印象はなかった。数年前、横浜の民間人校長を一本釣りで教育長にあてた人事など、その本人の素性と実績を知っているだけに、ひどいものだと思った。
そのリクルート出身の教育長、タクシーで福山と広島を往復していたことや、仲間内の人間と随意契約を結んでいたことで市民が官製談合防止法違反で広島地検に告発状を提出するなど、しっかりその馬脚を現してしまい、さすがに知事も再任することはなかった。
そんなことは別に、今回の知事の挨拶は、そこここに個人的な思いが溢れていて、知事自身が自分の言葉で語っているように感じられた。毎年、長崎市の市長の平和宣言と同様に。
これはつまり松井広島市長に対する大いなる苛立ちの現れ。
世界のヒロシマの首長なら、政権追従でなく、独自の政治的姿勢を明らかにせよとの思いがこの挨拶には込められているようだ。
知事には、この挨拶を政治家の平和問題、国際問題のバックボーンとして堅持して言って欲しいものだ。
挨拶全文
79回目の8月6日を迎えるにあたり、原爆犠牲者の御霊に、広島県民を代表して謹んで哀悼の誠を捧げます。そして、今なお、後遺症で苦しんでおられる被爆者や御遺族の方々に、心からお見舞いを申し上げます。
原爆投下というこの世に比類無い凄惨な歴史的事実が、私たちの心を深く突き刺すのは、「誰にも二度と同じ苦しみを味わってほしくない」という強い思いにかられた被爆者が、思い出したくもない地獄について紡ぎ出す言葉があるからです。その被爆者を、79年を経た今、私たちはお一人、お一人と失っていき、その最後の言葉を次世代につなげるべく様々な取組を行っています。
先般、私は、数多の弥生人の遺骨が発掘されている鳥取県青谷上寺地遺跡を訪問する機会を得ました。そこでは、頭蓋骨や腰骨に突き刺さった矢尻など、当時の争いの生々しさを物語る多くの殺傷痕を目の当たりにし、必ずしも平穏ではなかった当時の暮らしに思いを巡らせました。
翻って現在も、世界中で戦争は続いています。強い者が勝つ。弱い者は踏みにじられる。現代では、矢尻や刀ではなく、男も女も子供も老人も銃弾で撃ち抜かれ、あるいはミサイルで粉々にされる。国連が作ってきた世界の秩序の守護者たるべき大国が、公然と国際法違反の侵攻や力による現状変更を試みる。それが弥生の過去から続いている現実です。
いわゆる現実主義者は、だからこそ、力には力を、と言う。核兵器には、核兵器を。しかし、そこでは、もう一つの現実は意図的に無視されています。人類が発明してかつて使われなかった兵器はない。禁止された化学兵器も引き続き使われている。核兵器も、それが存在する限り必ずいつか再び使われることになるでしょう。
私たちは、真の現実主義者にならなければなりません。核廃絶は遠くに掲げる理想ではないのです。今、必死に取り組まなければならない、人類存続に関わる差し迫った現実の問題ですにもかかわらず、核廃絶に向けた取組には、知的、人的、財政的資源など、あらゆる資源の投下が不十分です。片や、核兵器維持増強や戦略構築のために、昨年だけでも14兆円を超える資金が投資され、何万人ものコンサルタントや軍・行政関係者、また、科学者と技術者が投入されています。 現実を直視することのできる世界の皆さん、私たちが行うべきことは、核兵器廃絶を本当に実現するため、資源を思い切って投入することです。想像してください。核兵器維持増強の十分の一の1.4兆円や数千人の専門家を投入すれば、核廃絶も具体的に大きく前進するでしょう。
ある沖縄の研究者が、不注意で指の形が変わるほどの水ぶくれの火傷を負い、のたうちまわるような痛みに苦しみながら、放射線を浴びた人などの深い痛みを、自分の痛みと重ね合わせて本当に想像できていたか、と述べていました。誰だか分からないほど顔が火ぶくれしたり、目玉や腸が飛び出したままさまよったりした被爆者の痛みを、私たちは本当に自分の指のひどい火傷と重ね合わせることができているでしょうか。人類が核兵器の存在を漫然と黙認したまま、この痛みや苦しみを私たちに伝えようとしてきた被爆者を一人、また一人と失っていくことに、私は耐えられません。
「過ちは繰り返しませぬから」という誓いを、私たちは今一度思い起こすべきではないでしょうか。