「第三者返答」を考える

 

伊是名さんのコラムには、ふだんなんとなく気が付きながらスルーしてしまっていることに気づかされることが多い。

 

こうして「第三者返答」という表現で具体的に指摘されると、これらが日常の些細なエピソードではなく、社会の中のさまざまなシーンで繰り広げられる普遍的な意味をもつものであることに気づく。

 

人と人はどう向き合っているのか。

障がい者に限らず、外国人であったり、老人であったり、患者であったり、子どもであったり・・・当事者でありながら当事者として向き合ってもらえないシーンが社会の随所にある。そしてそれが多くの場合、相手は無意識に配慮や忖度の思いから、第三者返答をしていることが多い。

 

二つの記事を読んで考えたことを書いてもらう宿題を出した。許可を得て掲載する。

書いているのは大学4年生の若者たち。➡は私のコメント。

 

 

 

 

①どちらも悪くは無いように思ってしまう。姉は姉なりに伝えようとしている。相手は 姉に言ってもわからかいのかと気を使い大山さんに返答する。大山さんはたまたまそこにいるだけの状況が起こっているだけであるため、話し相手にも思うことはあるだろうが、なにも悪いことはしていないと思う。現在は言葉を考えるだけで音声として話してくれる機械の技術力がある。そういった技術がもっと促進すればこういったことはなくなると考える。(とーふ)

機械の技術力の問題と考えてしまっていいのでしょうか。問題は、大山さんのお姉さんに対して、他の人たちが自分の判断で「障がい」を「理解」したと思い込んで対応してしまうことではないですか。発語が分かりにくくても相手の言うことはそのまま理解できる人はたくさん会います。そうした人に出会っていないこと、かかわりをもつ経験がないことが問題なのではないでしょうか。

②私も勉強不足で「第三者返答」について初めて知った。店員等の側には何ら悪気はないのだろうが、受け取り手である伊是名さんを始めとした、障害を持った人たちなどにとっては、それが悲しい気持ちにさせてしまうことに繋がってしまう。こういった一種のトラブルについては、(あまりこういう言い方は好きではないが、分かりやすくするために敢えて用いる)健常者と障害者の間での考え方や価値観の違いによって生じるものであると感じる。健常者側からすれば、気遣いのつもりの「第三者返答」が、障害者側からすると、それは自分の存在の否定に感じられてしまう。だからこそ、両者の共通理解や共通認識が持てるようにすることが大事なのではないかと思った。伊是名さんについて少し調べてみたが、以前にも電車に乗る際のトラブルが起きたとあった。バリアフリー化に関する問題であったが、こういった問題も総括的に捉えていく必要があると思う。またその際に、大事にしなければならないことがあると感じる。それは“障害を持った人たちは何も特別な権利や特別な扱いを求めているわけではなく、健常者と同じような生活がしたい”ということが最たる主張であることである。この認識を健常者側がもっと持つことによって「第三者返答」に代表される特別扱いがなくなると思うし、またそうした共通認識の下の社会こそが本当の意味での平等な社会になるのではないかと思った。(Y字バランス)

➡「健常者と障がい者の間での考え方や価値観の違い」と言ってしまっていいのでしょうか。たとえば私は健常者に入るのかもしれませんが、自分の考えや価値観を健常者一般の考えや価値観というふうにまとめてほしくないし、さまざまな障がいをもつ人たちも「障害者」一般の考え方、価値観を持つ人というふうにひとくくりにされたくないのではないでしょうか。それから、こうした第三者返答が社会のなかで日常的に起きてしまう要因を考えてみてください。あなた自身、大学4年生になるまで「第三者返答」を知らなかったということ、それはあなたが受けてきた学校教育と関連はないのでしょうか。

③確かにこう言った場面はよくあるかもしれないなと思いました。障害を持った人に対してだけでなく、海外の人に対しても日本人の友人もしくは家族がいた場合に外国人の人ではなく日本人の方の方を向いて話すことはよく見る。

自分はこの記事を読んで、気をつけなければいけないなと思いました。自分は善意(相手に伝えたい)で行っているとしても相手を間接的に傷つけてしまうことはどちらも心苦しい。日本人は昔から察しと思いやりの精神が強くあり、言われてなくてもこうした方がいいと思い相手のためになると思って行動してしまう。それ事態は良いことであるが、この第三者返答について、会話の中ではこうして欲しいという相手からの要望があればその通りにするという心持ちでいて良いのかなと思う。逆に自身の要望を察してもらう前提ではなく自ら伝えていくことで余計なことは考えずに目の前の人との会話を行えるようになるのではないかと思う。(ボンバイヤ)

➡大山さんがお姉さんに対してゆっくりと大きな声で話されるのに対し、「いえ、わかるので普通でいいんです」と言いにくかったのは、相手がお姉さんに気を遣っていることが分かったからですね。でも、そのままでは相手の人はお姉さんに対して何の気づきもないまま「この人はゆっくり大きな声で話さないとわからない人」という認識を改めることができません。大山さんの気持ちはわかりますが、私は大山さんには文句や抗議ではなく「普通に話してくださいね」と言ってほしいと思いますが、あなたはどう思いますか。

④まず、第三者返答という問題があることについて、私は、この記事を読んではじめて知った。確かに、障害のある人や子どもに何かを説明する際に、付き添いの人に説明をする場面はよく見かける。また、私自身も飲食店でアルバイトをする際に、来店された視覚障害を持つ人に対し、その付き添いの人に商品の説明をしてしまった経験を思い出した。この記事にもあったが、その時の私を含め、第三者返答をしてしまう側としては、スムーズな受け答えをする方が、問題なく商品等の提供ができると考えていると感じる。つまり、対応する側としては、気遣いをしているつもりであるということである。しかし、障害を持つ人や子どもの視点からすれば、自分の存在を無視されていると感じていることが理解できた。より普段から平等について考え、実行しなければならないと感じた。(岸田君)

➡あなた自身が第三者返答をした経験があること、今回そのことに気づいたことは重要だと私は思います。第三者返答をしてしまう理由としてあなたは「スムーズな受け答えをする方が、問題なく商品等の提供ができると考えてい」たと書いています。それがほんとうにそうなのか考えてみる必要がありますね。それとあなた自身を視覚障がい者の立場に置いて考えてみることです。自分が訊いたことをなぜ自分に向かって説明してくれないのか、そう思うのはごく自然なことではないでしょうか。

⑤記事では、障害のある人とない人が一緒にいる際に障害のある人の質問に対して障害のない人に返答をするケース、すなわち第三者返答について、障害のある人の気分を損ねかねないものとして、理解や配慮の必要があると述べられていた。

 この記事から、改めて差別について考える機会を得ることができた。

よく「見た目で人を判断するな」という言葉を耳にするが、見た目以外の判断材料がない他人に対して、見た目という情報に依存して対応を決めてしまうのは至極当然のことのように思える。そもそも差別それ自体はあって当たり前のものであるため、ここで問題となっているのは互いの認識のズレである。通常、こうした認識のズレは、時間をかけて相手を知り、必要に応じて認識を改めていく(すなわち、コミュニケーション等を通して互いの価値観をすり合わせ、徐々に認識の相違を正していく)ことができる。しかし、見ず知らずの相手、しかもその場限りの関係でのトラブルとなる第三者返答においては、そういった解決は見込めないように考えられる。そのため、相手の外見から予測を立て、行動を決定する前に、「本当に相手は自分が思っているような人だろうか」と考えられるだけの精神的余裕と教養が重要になると考えた。また、前者はともかく、後者は新聞や本、テレビなどのメディアを通して深めていくことができるものである。そういった意味では、今回記事を読み第三者返答について知ることができて良かったと感じている。

また、差別という観点において、これは授業で赤田先生がお話しになられていた1992年の日本人留学生(服部剛丈)射殺事件にも通ずることでもあるように感じた。

(米津玄師は「よねつ」なのか「よねづ」なのかハッキリしてくれ)

➡障害のある人に理解と配慮が必要と言われますが、間違った「理解と配慮」が第三者返答となるのが現実です。そもそも理解はあなたのいうように相手のコミュニケーションの中から生まれるものだし、勝手な思い込みは理解ではなく「誤解」となってしまいます。また「配慮」はこういう障がい者にはこうすべきと思い込みにとどまってはならず、相手がほんとうにそういう配慮を欲しているのかを積極的に訊くことが重要です。「何かお手伝いできることはありませんか?」と声をかけるのと同じです。

⑥課題資料を見て、私たちは気付かないうちに、無意識に人を傷つけてしまっている可能性が多く潜んでいることを感じました。まず、伊是名夏子さんについて調べてみたところ、JR線乗車にあたってバリアフリー法が改正され、車いすを利用する彼女でも無人駅を利用するための対応を求めたことが多く書かれていた。彼女自身、障害者であることを特別に扱ってほしくないといった気持ちがうかがえた。それらを知ったうえで今回の資料を再度拝見すると、私たちは無意識に、そして優しさが逆に傷つけてしまっていたことを痛感しました。私は、障害者の方を変な風に見ないことや、障害者に対するいじめはこの日本であまり見られないと考えます。その一方で、障害者の方を優先する気持ちや、障碍者の方にはわかりやすく接する気持ちは強くあると感じます。これは日本の思いやる心や、社会的弱者に対する優しさの表れだと思います。しかし、彼女の意見を聞くと、このように弱者と決めつけ、優しく接することが逆に特別視していることに繋がっているのだと気づかされました。しかし、実際に障害者の方に逢った時に、健常者の方と同様な対応は取れないと思います。それは、この意見が伊是名夏子さんの意見であり、すべての障害者に当てはまるものではないからです。だからこそ本当に難しい問題であり、この事実を知ってもなお、優しく、わかりやすく接することになってしまうと私は感じています。(ゆず七味)

➡「障がい者に対するいじめはこの日本ではあまり見られない」とあなたは書いていますが、そうでしょうか。伊是名さんの『炎上』を見ると、そうは思われません。私たちには見えにくい、見えない差別やいじめがあることを、障がい者自身が何十年にもわたって告発してきています。伊是名さんは、今私たち(伊是名さんたち)が生きていられるのは、過去に多くの障がいをもつ人たちが歯ぎしりする思いで闘ってきたからだと書いています。「見ない」「見えない」ことの問題を考えていきたいですね。

⑦確かに、障がいのある方とない方が横に並んでいた時どちらに話すかを考えたときに、私もない方に話しかけてしまうと思った。それはなぜなのか考えてみると、障がいのある方に話しかけるよりもない方に話しかける方が色々な気遣いを必要としないからだと思う。見ず知らずの障がいのある方に話しかける場合、言葉が通じるかどうか、地雷を踏まないかどうかなど様々な考えが生まれてきてしまうと思う。これは日本人の他人を気遣う精神が悪い方向に働いてしまっているのかもしれない。コラムでは「私に話しかけないで本人に話してほしい」と書いてあったが、決して障がい者を無碍にしているわけではなく、気を使いすぎた結果だと思う。見ず知らずの障がい者と話す際に多くの考慮が頭に浮かんだ結果、自然と、考慮しなくてもいい障がいのない方に話しかけてしまうのではないだろうか。(たな)

➡中途障がい者ということばを知っていますか。だれもが、交通事故や病気によって障がいをもつ身になる可能性を持っています。たなさん、もしあなたが事故で車いす生活を余儀なくされ、言語機能にも障害をもってしまったとします。ある時、あなたは友達と電化製品の量販店を訪れ、自分が関心のある機材について「この商品は具体的にどこまでの機能があるのか。価格はどのくらいまで下げられるのか。補償期間は何年つけられるのか」と店員に訊いたとします。その時店員があなたにではなく、友達に向かって説明をしたとしたら、あなたはどう思いますか。その店員に対して「気を使い過ぎた結果だ」と思えるでしょうか。

⑧マスク問題同様難しい問題であるとともに無意識のうちに差別してしまっている行動なのかなと思いました。

私自身もスーパーのバイトをしている際に障害を持っているお客様や外国のお客様の接客をする際に聴覚や視覚等の問題で普通に話したら理解しづらいかなとゆっくり話したり、大きな声で話すことがあります。

逆にいらない気遣いをしている事から「当事者本人を馬鹿にしたような対応を取ってしまっている事が問題」だと考えます。

これに対してはあえて健常者の方と同じ対応をとって、相手の方から要望があったらそれに応えるといった形が好ましいと考えます。(I LOVE 埼玉)

➡相手の様子を見て勝手に忖度し、気遣って「ゆっくり話す、大きな声で話す」のではなく、まず普通の速さ,声量で話してみて困った様子が見て取れたら「ゆっくり話した方がいいですか」と訊くことができたらいいですね。日本語を母語としない外国人の人たちでも、日本語を話すことは苦手だが聴くことはある程度できる、という人もいます。人みなそれぞれ違うのだということが大前提と考えるべきです。

⑨自分自身障害を持つ方や支援を必要としている方とその支援者と接する際にどうしても話をしている方に目や視線がいってしまう。それは否定しているというつもりは鼻からなく、話している人にどうしても目線がいってしまうといったことや、どうしても伝えたいという気持ちが先行してしまうからなのかと思ったことがあります。どう接していいかわからないので、特別支援学級での補助員としてのボランティアに参加することにし、障害を持つ方同士のコミュニケーションや伝え方があるなと学ぶことができた。第三者返答が起こってしまうのは関わり方がわからないという点が一番の問題点なのではないかと私は思う。どうしても伝えなきゃという気持ちよりまずは相手のことを考える、思いやる気持ちを持つことが大事であると思いました。(名無し)

➡教員の場合、保護者と生徒を前にしたときに、生徒本人にではなく保護者に向かって話す傾向があります。第三者返答です。問題は「当事者は誰か」ということです。本人に伝えたいことは本人に、保護者に伝えたいことは明確に保護者に、ということを忘れないでくださいね。当事者返答を心がけてください。相手がたとえ「小さき者」であっても。

⑩この記事を読んで教師を目指すものとして気を付けていきたいと考えられました。「子供の意思」をその保護者から聞くようなことはあってはならないと思いますし、「相手にしづらい」と決めつけた行動をとることは「他者の否定」につながるからです。

 伊是名さんについて調べると問題点も取り上げられていましたが「障がい」が「障害」となるような社会を変えていきたいというような考えを持っているのではと考えます。

 複雑化する社会の中で、適切な対応を行っていくのは難しいことではありますが、しっかりと考えて、「本人と向き合う」ような人間になっていきたいです。(コンパス)

➡「他者の否定」、あるいは当事者の否定ということですね。忖度や配慮で当事者を避けてしまう傾向が私たちには抜きがたくあります。そのことをいつも忘れないように、と私もいつも思っています。

⑪「第三者返答」という言葉を今回初めて知りました。私も気が付かないうちにやってしまっていたかもしれないと思いました。また、伊是名さんが炎上したことについても調べて驚きました。何も悪いことを言っていないのに、障害を持っているというだけで誹謗中傷をされたり、私生活が脅かされるような嫌がらせにあったりしていて信じられませんでした。バリアフリーという言葉が浸透している現在も、障害を持つ方への偏見は消えていないということを思い知らされました。私は、障害を持つ方に「普通」に接することができるようになりたいと思いました。(A)

➡伊是名さんに対する『炎上』は今の日本の『空気』の一端を表しています。普通に接するために、今回第三者返答について知りえたこと、重要だと思います。良かれと思ってしたことが人を傷つけること、少なくありません。私(あなた)は、あなた(私)ではないし、互いが違う個性をもった存在であることに敏感にならなければならないなと私も思います。

⑫私はまずこの記事を一人で読んで、ゾッとしました。なぜなら、伊是名さんの経験は決して他人事ではなく、むしろ障がい者ではない人たちは、何も考えず無意識に起こしてしまう行動だと考えるため、より一層社会的に考えていかなければならない議題だと感じたからです。個人的には、私の祖父も視力障がい者であるため、一緒に出かける際も祖父が伊是名さんのような対応を受けているのを見かけたことがあります。もちろん全ての人がそうだったわけではなく、ごく一部の体験でしたが、正直その時、私も相手の方の行動に違和感を覚えました。ですがあまり深くは考えずにいました。今回の記事の中でも、特に、「自分の存在が無視され、何も決められない人、保護者が必要な人だと思われていると感じ、傷つきます。」と書かれていたのを読んで、苦しくなりました。私が伊是名さんの立場だったら同じように傷つくと思うからです。店員さんもそのような意図はないと思いますが、自然にとった行動だったと思うので、難しい問題だとも感じました。記事の中に、外国人の例も出てきて、この具体例には、私自身も経験する面が多いので、私自身も気づかないうちにそんな行動をしちゃっていたのかな?と自分自身を見つめることができました。以前大学で受けた講義の先生が、障害者の気持ちに共感することもある意味差別ではないのか?偽善ではないか?と話されました。この問題に対する1つの答えを導くことはとても難しく、深刻であると思いました。(ハンバーグ)

➡おじいさんを通してあなたは同じような経験をしたのですね。だから伊是名さんの文章に共感できたのですね。あなたが感じた「違和感」はとても重要なものだったと思います。「障害者の気持ちに共感することは差別か?」という疑問ですが、そう考える前に「障がい者」とは何かを考えてほしいと思います。人間は健常者と障がい者に分けられるのかという問題です。おじいさんは視覚障がい者とのことですが、視覚に障がいがあることがおじいさんのすべてでしょうか。おじいさんにとって視覚障害は大変重いハンディではあると思いますが、かといってそれが自分のすべてであるとは考えていらっしゃらないのでは。近くにいるあなたにはそのことがよくわかるでしょう。ですから一概に「障がい者」とひとくくりにしてモノを考えるの「ちょっと待って」です。

⑬第三者返答という言葉を私も初めて耳にしました。このコラムを読んで、私も普段アルバイトなどで接客をする際、このような差別的な対応をとってしまっているのではないかと思いました。私自身も第三者返答については相手に気を遣って行っているものでしたが、相手側からすると気を遣われるのもあまりいい気はしないのかと、少しハッとさせられました。このコラムにも書いてあるように良かれと思ってやってしまっているようなことは相手は少し嫌な気持ちをしてしまうかもしれないということを覚えておきたいです。(は)

➡「ハッとした」ことはとっても重要なことです。だれでも、自分が当事者そのものなのに、自分から視線を外して第三者に向かって話されるのは気持ちのいいものではありません。たとえそれが配慮によるものであったとしても。障がいをもつ人が、その時に「わたしに向かって話して」と言いにくい気持ちも想像できます。想像力をそこまで広げていかなければと、私も思います。

⑭大山さんは、姉が難病を患っていても普通に接して欲しいと感じていましたが、それは大山さんのエゴの様に感じてしまいました。大山さんのお姉さんは本当に、まるでそこに存在しないかのように接せられていると感じていたのでしょうか。姉に接してくれていた人たちは、最大限の配慮をして接していたと感じます。「第三者返答」という言葉はあまり好きになれません。その話している空間をもっと楽しむ、深く考えずその場を楽しむ事が大事だと考えました。大山さんと同じような経験がないので、実際に自分がそうなったらどうかわかりませんが、最後に記されていた「言動の裏にある気持ちを汲み取る事や知ることを心掛けて人間関係を築く」ということは非常に大切であると感じました。また、大山さんの様な状況の人もいて、そういう考えを持った人もいるということがわかりました。(ルーカス)

➡自分の思いをしっかり文章にしていますね。最後の「そういう考えを持った人もいるということがわかりました」という点も大事だと思います。そのうえで、他の人の意見や私のコメントも読んでみてください。また違った考えがあなたの中に生まれるかもしれません。

⑮ 1 まず、伊是名夏子さんはどんな人かを調べてみよう。

元々、コラムニストだった伊是名さんは駅員に対しての意見をツイッターに載せたことで炎上した。身体に障害を持った女性です。

2  最近、伊是名さんがネット上で『炎上』した事件ついて考えてみよう。

  ネット上の誹謗中傷は、本当に問題だと思います。有る事無い事を書いてしまったり、私は誹謗中傷や、基本的にコメントなどをすることがありません。なのでコメントなどをする人、インターネットで人を攻撃する人の気持ちが本当に分かりません。自分の身近な人でもない、顔も見たことない、どんな生活をしているのかも知らない。そんなような人になぜ、興味関心を湧き、本当かどうかわからないことを信じて、そのような行動をとってしまうのでしょうか。とても学がない行動だなと思います。

3  障害ということを伊是名さんはどう考えているか、深堀りしてみよう。

この方は、障害だからこそ、人間として輝いていると思いました。きっと元々もすごく素敵な人だったのだと思います。しかし、この障害で強くなっているように私には見えました。私は辛いことがたくさんあった方が人生は濃くなると思います。私には想像のできないような辛く険しい道を辿ってきたであろう伊是名さんですが、とてもかっこよく素敵な女性だなと思いました。挑戦をして失敗をしても挑戦し続けることがなりたい自分に近づく方法です。(たまごかけうどん

➡「きっと元々もすごく素敵な人だったのだと思います」という想像がいいですね。障がい者は障がいを克服しようと常に努力する人、ハンディに負けずに前を向いて歩く素晴らしい人という物語が巷に流布しています。私は違うと思います。ハンディがあろうとなかろうと人は人です。後ろ向きな生き方をしている人がいるように、ハンディを持った人にも後ろ向きな人はいます。それに多かれ少なかれ人間はハンディを抱えているものです。はっきりとした境界線の向こうに障がい者がいるのではなく、境界線など人によっても違うし、本来曖昧なものではないでしょうか。

⑯まず、「第三者返答」という言葉を初めて知った。そこにいるのにも関わらず、存在を無下にされるのは、本人からすれば傷つくことであると容易に考えられる。改めて、相手に体や目を向けて話すことが基本的なコミュニケーションの一つとして重要であることに気づかされた。私自身も接客業のアルバイトで、子どもが質問してきたが、その親御さんに視線をやって説明してしまうことがある。一人ひとりを尊重するという意識を持って、改善しようと思った。

また、第三者返答を行った側は、「良かれ」と思ってやっていることにも注目しなければならない。今回のコラムでは、主に店員さんとのやりとりが挙げられていたが、効率よく完璧にサービスを提供したいという気持ちがあれば、より正確に伝わる方を選択する方が妥当である。だからこそ、無意識のうちにこういった考えが働き、介助者等に対して返答を行ってしまうのだと考えた。(地球)

➡自分の体験を振り返ることができたのは素晴らしいですね。「効率よく完璧なサービスを提供したい」こととそのことが当事者を傷つけてしまうとすれば、そのサービスは効率もよくないし、もちろん完璧でないということになります。

⑰私自身、アルバイトで接客する中で、海外の人を対応することがある。たまに日本語を話すことができる人がいると、その人に向かって話してしまっていることがある。それはどうしても合理的に時間を活用して次のお客様に対応するという考えが働いているからであると考える。人々の中で通底してしまっている“合理性”によってこうした問題が起こってしまっているような気もする。もちろん親切心や、赤の他人から訳の分からない内容を伝えるよりも、いつもそばにいて、その人の気持ちを理解している人に、こちらの意図を伝わりやすく伝えてほしいから、“第三者”に対して話をしてしまうということもある。思いやりがあらぬ攻撃に変わってしまっていると言う事であろう。もちろん時間があるのであればゆっくりと当人のために言葉を尽くしたり、伝わりやすい表現を模索することもできるだろう。しかしながら、こうした場合には、往々にして時間が限られていたり、その人だけに対応することが難しい環境にあるのではないかと考える。ゆえに、“第三者”に対して、対応する側は話してしまうし、対応を受けたいと思っている当人も我慢するという状態が生まれてしまっていると考える。

対応として、簡単に「対応する時間が十分に取ることができないから、今回は“第三者”にお話を通して、当人様に連絡いただく」という旨や、「英語が話せないので、今回は日本語の分かる方を介して、お話させていただく」ということを伝えることで、ある程度は障壁を緩和することができるのではないかと考える。こんかいの授業の中でもそうであるが、相手の気持ちを理解するために、相手の話を聞くということを意識する必要性があると思う。ただ、どうしても時間が取れないのであれば、その理由を相手に伝えて、納得してもらったうえで対応したり、それでは納得がいかないのであれば、いったん待ってもらって、時間が取れるときに対応するという姿勢を見せることで大きく変わると思う。とかく、昨今の人は言葉を尽くすことを忘れているように思う。自分が考えていること、行動をとっている理由を相互に言い合うことである程度、問題は緩和できると考えるのである。

 伊是名さんが炎上した件については、ちょっとした有名人であることの自覚を持って、問題提起の仕方・言い方を考えるべきだったと思う。大塩平八郎ちゃんネル)

➡時間がないから合理的な判断に立って第三者返答をする、するに際してはそのことを相手の人によく説明してから行うべき、ということですね。考えてほしいのは、そうした合理的判断だけが第三者返答の根拠になっているのかどうかということです。私たちの無意識のなかに、相手を当事者として見ようとしない心情があるのではないでしょうか。そこもぜひ考えてみてください。最後の指摘ですが、「炎上」の全体像を見た時、それを第一義的に指摘するのは筋が違うように私は思いました。

⑱第三者返答という言葉を初めて知りました。私も実際に同じような経験をした事があります。私は遊園地でアルバイトをしているのですが、子供相手にアトラクションの説明をする際に子供の目ではなく親の目を見て説明してしまうことが多いです。しかし、最近は子供の目と親の目を交互に見るように意識していました。この第三者返答の記事を読む前から、子供の立場を考えて説明の際の対応をかえようと意識していたのでとても共感しました。私が海外に行った時に、現地の言葉が分からなくても近くのガイドさんだけでなく、私の目も見て説明してもらった方が嬉しいと思います。常に相手の立場を考えて発言や行動をするべきだと思いますが、実際に自分自身が障害者ではないので本当にその人の気持ちを理解することはできないため、すれ違いが起こってしまうのではないかと考えました。(紅はるか)

障がい者であるかどうかよりも、当事者として扱われないことが問題なのですね。遊園地でアトラクションに気をつけなければならないのはまず子ども自身ですから、子どもは自分に向かって真剣に注意をしてくれる大人には強い関心を払うはずです。外国に行ったときガイドさんにではなく、自分に向かって説明してもらったほうが嬉しいという感性にも私は共感します。

⑲代わりに対応することはいいとは思うが、その人の気持ちになってあげていてもその人が嫌だと思って心の中に収めていることがあるのでそのようなところを考えながら生活しないといけないと思いました。(   )

➡そのとおりです。でもちょっと簡単に書きすぎましたね。大変だけれども、自分の思考過程や体験を振り返ることなども含めて、じっくり書いてみてください。

⑳2つの記事を読んで、障害者に対して良かれと思っている行動が当事者にとっては、とても傷つく行為である恐れがあることを知った。自分自身もこの記事を読むまでは、障害がある人は、介護が必要であり近くにいたら配慮をするべきだと思っていた。しかし、会話の返答について、その人本人にしてほしいという記事を見た。いない存在として会話を進められているのが、とても悲しいことであることを知った。自分の障害に対する固定概念に囚われていたと気づいた。まずは、その人に寄り添うこと、何に困っていて反対に何はできるのか、よく知っていきたい。多様化する学校教育で、このような対応は必要不可欠なると感じた。(あ)

➡人と人との関係を「配慮する人」「配慮される人」に分けてしまう発想は避けるべきですね。そういうシーンがあることは事実だし、実際にそうすることも重要ですが、それは「シーン」であって「人」ではありません。例えば私は老人ですから、時に配慮されることはあるけれども、私自身も他の人に配慮することもあります。障がいをもつ人はどうでしょうか。やはり同じように配慮されるだけでなくするシーンもたくさんあるものです。

㉑私は、障害のある人に配慮することは大切だと思っています。しかし、今回の記事を読んで配慮が腫れ物に触るような対応になってしまっていないか一度見直す必要があると感じました。質問をしたときに自分ではなく介助者に返答されると悲しい気持ちになるだろうと思います。障害者に説明しても無駄だと思われているのではないかとあらぬ疑念を持たせることにもなると感じました。無意識の差別意識がないか考え直す必要があると思います。

 今回の記事を読んで、筆者の伊是名さんの車椅子炎上事件について調べてみました。鉄道事業者側のバリアフリー設備が整っていなかったことが原因だと思いますが、車椅子を使う人は事前に連絡が必要だという案内を見逃していた伊是名さん側にも非があると考えました。また、時間はかかったかもしれませんが、最終的に駅員が対応したにも関わらず「JRで車いすは乗車拒否されました」のタイトルでブログを書けば批判を浴びるのも仕方ないと感じました。私は伊是名さんの主張を肯定することはできませんでした。(こんにちは)

➡そうなると、ハンディのある人は常に自分の方から配慮を求め、お願いをしなければならないということになります。あなたがたとえば骨折をして、松葉づえをついて電車に乗っていたとします。目的の駅ではなく一つ手前の駅で降りる用事を思い出してその駅で降りてしまいました。その駅にはエスカレータやエレベータはなく、階段しかありません。どうしますか。駅のスタッフを見つけ、思い切って「すみません、階段を上るのを手伝ってもらえませんか?」と言ったとき、「そういうのは事前に連絡していただかないと困ります。一人では対応できませんから」などと言われたとしたら・・・。「じゃあ、しょうがない。治ってからこよう」とあきらめるかもしれません。ではもしあなたが「治らない」人だったらどうするでしょうか。ハンディを持つ人はつねに困難が立ちふさがる前にリスクを避けるための手段を取るべきなのでしょうか。突然用を思い出して電車を降りてはいけないのでしょうか。バリアフリーというのはハザードを失くし、エスカレーターなどの設備を整備することだけではありません。だれもが「突然思い立った時でも、普通に援助してもらえるかどうか」です。駅で気分が悪くなり動けなくなった時、今ではさまざまな対応がとられます。だれも事前に気分が悪くなることなど予想できませんから、当然のことですね。同じように考えれば「事前連絡の必要」ということが、障がいをもつ人の自由な動きを狭めていると考えられないでしょうか。バリアフリーをそんな視点から考えてみてはどうですか。

㉒まず、投書にもあったように、第三者返答という言葉を初めて知った。確かに何か聞かれたり説明をしたりする際に、障がいを持っている人自身ではなく、その人に付き添っている人に目線を向けて話すという光景が容易に目に浮かぶ。それは障がいを持っているから上手く理解してもらえないだろう、近くにいる健常者の方が動けるしわかってもらえるだろうと潜在的に思っているからなのかもしれない。

 このコラムを読んで、良かれと思ってしていたことが逆に障がいがある人もその近くにいる健常者の人をも傷つけてしまっていたのだと知ることができた。障がいを持っている人全員が一人で何でもできるし理解できるという訳ではないと思うが、障がいを持っていても一人でできることはあるし理解することもできるから、健常者と同じように‘‘目を見て話すこと’’がとても大切なことなのだとわかった。(まいにちねむたい)

➡大山さん自身も声をかけてくれる人に対し、遠慮や忖度をしているところもありますね。善意と善意が両者の気持ちをつなぐ邪魔をしてしまうということもあるのですね。

㉓自分がどちらの立場になっても解決の難しい問題であると感じました。第三者返答を体験して、分かってもらおうと思っても、毎回人に説明をするのではきりがありません。逆に、第三者返答をしてしまっても、その人の事情など分かるわけがないですし、悪気ももちろんないと思います。解決法として考えたことは、全て許してしまうということだと思います。この人は悪気がないと自分で思うだけで、見えない釘は心に刺さってこないのではないかと私は感じました。(お)

➡この授業でも第三者返答ということを知らなかった人が大半でした。まずはハンバーグさん(のところを読んでみてください)が感じた違和感が「第三者返答」という言葉で表現されたことは重要ですね。これを多くの人が意識的に広げていくことが重要かもしれません。「当事者は誰なのか」をいつも考えることも。言葉の伝わらない外国に行ったときの自分を考えれば、障がいというものの一面がよくわかりますね。