6日、コンサートのために上京したHさんと県立美術館へ。
朝から雨、気温は12℃。桜木町駅から「あかいくつ」号に初めて乗った。雨に煙るヨコハマ、ロープウエイ(YOKOHAMA AIR CABINというのだそうだ)もハンマーヘッドも初めて。ここにこんな建物があったのかというのも。”ぴあアリーナ”も初めて見た。
同じ横浜と冠してはいても、辺境の地の住人には「お初」ばかり。
港の見える丘公園は景色を見るどころではない。雨はどんどんひどくなって吹き降りに。
「没後50年 川端康成展 虹を紡ぐ人」、始まって1週間ほど。館内は閑散。私たちのほかに見学者は一人。
自筆資料も多く、充実した展示。監修は荻野アンナ氏。展示の随所に彼女のコメントが入る。
太宰が川端にあてた巻紙の手紙があった。
太宰は川端に対しあまりいい感情を持っていなかったようだ。元はと言えば、川端が太宰の日常を理由に芥川賞の選考で✖をつけた(と太宰は思っている)のが面白くなかった。それでも、手紙で川端に対し、なんとしても次は自分に受賞させてほしいと書いている。
これほど受賞を乞うのは、太宰にとっては、これも長年言われてきたことだが、芥川龍之介に対する思いのほかに、賞金がほしかったというのが大きな理由。
結局、太宰は芥川賞を受賞せずに亡くなるのだが、もしこの時期に太宰が受賞していれば、その後の彼の人生や作品に違うものがあったかもしれない、というのもよく言われること。
第1回芥川賞のころ、1935年、昭和10年。川端は1899年生まれの36歳ですでに選考委員だった。
太宰はその10歳下、1909年生まれで26歳。たった10歳の違い。そういう年回りだったことに驚いた。
ちなみに三島由紀夫は1925年生まれ。
かたやすでに小説家としての地歩を築き、芥川賞の審査員、かたや心中騒ぎを起こし、左翼運動から足を洗い、ようやく小説を発表し始めた駆け出しの小説家。
展示を見ていても感じるのは、川端康成という人物のなんというか狷介さ?
気持ちを開いていくよりうちへうちへ閉じていく傾向。
そんな川端にとってあとからやってきた新進の太宰は、作家として一つの脅威だったのかもしれない。太宰の才能を一番見抜いていたのは、川端だった。候補作「逆行」より「道化の華」を推薦したのも川端。そうであっても、こいつにだけは受賞させたくない・・・。太宰は、選評を見るにつけ自分を落としたのは川端だと思っていた・・・。
そんな想像をしたくなる巻紙の手紙だった。
雨はひどくなるばかり。タクシーとJRを乗り継いで、再び桜木町へ。午後の新幹線で帰るHさんを横浜の立ち呑みの聖地?、ぴおシティ地下へ誘い、小一時間の午餐を愉しむ。