10月の声を聞いて、今年もあと3ヶ月に。しかし昼間の気温はまだ30度。散歩も短パンこそ終わったが、上半身は半袖シャツのままだ。
今朝の境川、珍しくカワウが潜って餌を探している側に大きなアオサギ、マガモ、そしてカワセミも。サギもギーギーと鳴いていた。水辺の鳥たちの親密な姿。数日台風も来ていないせいか、川の水は透き通っていて清冽。
9月の終わりは外出することが多く、落ち着かなかった。何をどうしていたのか、覚え書き風に記しておく。
22日、歌舞伎座。
年金の窓口にしている城南信用金庫の招待。これが二度目。
久しぶりに銀座へ。
地下鉄の東銀座が歌舞伎座の最寄り駅だが、乗り換えるのもなんだなと思い、銀座駅で降り歌舞伎座への出口を探す。
歌舞伎座方面という表示を見ながら地下道を歩いていくと、東銀座駅に出る。あれ、繋がってるんだ?お上りさん状態。
秀山祭九月大歌舞伎、亡くなった吉右衛門追善公演。
吉右衛門にちなんだ、得意とした演目が並ぶ(ということらしい)。
第1部 一、白鷺城異聞
二、菅原伝授手習鑑 寺子屋
第2部 一、松浦の太鼓
二、揚羽蝶繍姿
二、藤戸
見たのは第一部、11時開演。城南単独の貸し切りか合同か。
白鷺城異聞は吉右衛門の作だそうだ(筆名は松貫四)。歌舞伎役者が作品も書くというのは知らなかった。
中村吉右衛門といえば長谷川平蔵しか知らない。鬼平の吉右衛門は優しいところと酷なところとがないまぜになった渋さがよかった(原作はこれがもっと際立つが)。
でも吉右衛門は鬼平で人間国宝になったわけではなかった。歌舞伎の大名跡として長年つとめてきた名優。
自分で書いた「白鷺城異聞」では、徳川方に下った千姫を呪って出てくる豊臣秀頼の亡霊を退治する宮本武蔵役だったのだろうか。そんなことも知らない。
幕が開くと、正面に本田平八郎忠刻役の又五郎。いい男。そして千姫は中村時蔵。どちらも知らない。千姫はかなり年がいっている。1955年生まれ。おばあさん風なのだが、見ているうちにその挙措の優雅さから年が気にならなくなっていく。そしてはっきりと女性に見えてくる。すごいものだ。
刑部姫は七之助。これは知っている。秀頼の霊は勘九郎。これも知っている。テレビでの印象は軽薄な感じだが、なかなか重厚。
この程度である。あらすじはあらかじめ読んでおいたからアタマに入っているが、正直あまり関係ない。やりとりもまどろっこしいし、話もなかなか進まない。見る人がみればさまざま見どころというものがあるのだろうが、私たちのような門外漢は広い舞台のあちこちをキョロキョロ見回しながら、大事なところを見逃したりしているのだろう、たぶん。
でも、なぜかこれが飽きないというか面白い。特に義太夫と三味線と役者の掛け合いになるところがいい。文楽は演じるのは人形なので、セリフは全て義太夫が語るが、歌舞伎は、ト書や音楽を三味線や琴、太鼓などがストーリーと役者を盛り上げる。楽しみ方としてはどちらかといえばオペラ的。
どうして秀頼の亡霊をやっつけるのが宮本武蔵なのか、よくわからないし、やっつける前に勧められた酒ばかり飲んでいるのもなんだか。
それでも、自然に拍手をしたくなったり、みえをきったりすると「おおー」なんて声も出る。前回はイヤホンガイドを借りたが、今回は丸腰、わからないなりにそれなりに・・・である。
休憩。
あちこち探索する。
なんとまあ、お土産屋さんの多いこと。
歌舞伎町タワーの最上階まで上ってみる。
このタワー自体がビジネスビル。一番上は、転職サイトのマイナビの社屋。
誰もいなだだっ広い応接室、もったいない。
戻ってみたらはじまっていた。休憩時間の勘違い。
コロナの前は、休憩時間に座席で昼食を食べていたようだが、今は禁止。その分休憩時間が短くなったのか?45分と思っていたのが30分になっていた。
さて寺子屋。
平安時代の天神様、菅原道真の時代にどうして江戸時代の寺子屋なのか、時代考証はメチャクチャ。しかしこれで江戸時代からずっとやっている。菅原伝授といえば寺子屋の場と言われるほどオーソドックスな演目なのだそうだ。江戸時代の人々は、考証のリアリティになど頓着しなかったようだ。
「せ(す)まじきものは宮仕え」という言葉の出典はこの演目なんだとか。
知らなかった。この演目を見て、なるほどそこからきたのかと得心。
道真公に恩を受けた三兄弟のうち松王丸だけが敵方の藤原時平に仕えている。
一方、道真から書道の極意を伝授された武部源蔵は寺子屋を営んでいて、そこに道真の子「菅秀才」を匿っている。
吉右衛門はこの二人をよく演じていたという。後年は特に松王丸が多かったようだ。
さて物語。
源蔵が菅秀才を匿っていることが敵に露見、菅秀才の首を討てと命じられる。しかし恩義のある道真公の子を討つのはなんとしてもできず、悩みを深めているところに、母親に伴われた子が入塾を希望して訪れる。
どことなく品格を備えたその子を見て源蔵は、この子なら菅秀才の身代わりとできるのではないかと思いつく。ひどい話だ。
そしてなんとその子の首をとってしまう。
しかし、実はこの子、寝返った松王丸の子ども。子どもを連れてきた母親は松王丸の妻。
夫婦は、源蔵がこの子を菅秀才の身代わりにすることを予想して、あえて塾に入れたのだった。
松王丸は、寝返ったとはいえ、道真公への恩義を忘れていなかった。菅秀才を守るため我が子のいのちを差し出したのだ。
まったくひどい話である。子どもの命など主君への忠義に比べれば鴻毛より軽し、親の都合で行われる命のやりとり。しかし物語は親の情愛と仕える人への恩義の間で揺れ動くさまをえがく。
なんと敵方の首実検役を任されたのが松王丸。
クライマックスは、源蔵が松王丸に差し出す菅秀才の首)を入れた桶を松王丸が覗き込むいわゆる首実検のシーン。
観客は、その桶の中の首が、実は松王丸の子、小太郎であることを知っているから、息を詰めて松王丸の所作と表情をじっと見つめる。
そこにある我が子の首を見つめながら、「これは菅秀才の首に間違いない」という松王丸。観客は松王丸の気持ちに同化して涙、涙、ということになる。
今回の松王丸は幸四郎だった。これはこれで素晴らしかったが、はて吉右衛門ならどうだったろうと思ってしまう。
その前のシーンで、役人どもが一人ひとりの子どもを菅秀才でないかと調べる場面がある。
ここで弥十郎がでてきた。知っている。知っている人が素に近い姿で出てくるとホッとする。ユーモアを交えた悠揚迫らぬ演技。大河ドラマでなくてももっと出てきて良い役者。
首実検の場がクライマックスとどの資料にも書いてあるので、
「もう終わりか」
なんて思っていたら、この後が結構長い。
しかし、先のも書いたが楽しめたのはストーリーより音曲含めた義太夫と役者の掛け合い。だから長いのも気にならなかった。
ということで、半可通にも及ばない初心者見学が終了。
もう一つの盛り上がりが実はこのあとにもあった。
1か月ほど前、アド街ック天国が東銀座、木挽町の特集をしていた。この中で、七之助や勘九郎が木挽町界隈の飲食を紹介していた。昼食の店を探すのちょうどよいと録画をしておいた。
ラーメン屋が何店か紹介されており、その中で画像から吟味してあたりをつけたのが萬福。木挽町の老舗。
歌舞伎座の裏1,2分のところ。
時間は14時ごろなのに、ほぼ満席。
ぎりぎりに一つあった空席に坐れて、それぞれラーメンとワンタン麺を注文。
老舗の味、懐かしい東京ラーメンの味・・・。
Mさんが運ばれてきたラーメンのスープをひとすすりする。微妙な表情。
まさかと思い、私も同じようにワンタンメンのスプをすする。はあー?である。
「名物にうまいものなし」ということわざがあるが、これでは「名店にうまいものなし」である。想像がたくましすぎて、とてもそこまではいかないが通常のレベルでは…というのでもない。
はっきり言って、麺もまずいし、スープも全くコクがない。薄味の旨味ともちがう。
とても老舗の味とは思えない。
どうしてこれほど繁盛しているのか、不思議。
ポツポツと雨が落ちてきた。少しがっかりして、「でも歌舞伎が面白かったからいいよね」と、Mさんに声をかけるでもなく呟いて、帰途についた。