『ベルファスト』どうして映画に入っていけなかったのか。

映画備忘録。5月3日。あつぎのえいがかんkiki

 

ベルファスト(2021年製作/98分/G/イギリス/原題:Belfast/脚本・監督:ケネス・ブラナー/出演:カトリーナ・バルフ ジュディ・デンチ ジュード・ヒル キアラン・ハインズ/日本公開2022年3月25日)

俳優・監督・舞台演出家として世界的に活躍するケネス・ブラナーが、自身の幼少期の体験を投影して描いた自伝的作品。ブラナーの出身地である北アイルランドベルファストを舞台に、激動の時代に翻弄されるベルファストの様子や、困難の中で大人になっていく少年の成長などを、力強いモノクロの映像でつづった。ベルファストで生まれ育った9歳の少年バディは、家族と友達に囲まれ、映画や音楽を楽しみ、充実した毎日を過ごしていた。笑顔と愛に包まれた日常はバディにとって完璧な世界だった。しかし、1969年8月15日、プロテスタント武装集団がカトリック住民への攻撃を始め、穏やかだったバディの世界は突如として悪夢へと変わってしまう。住民すべてが顔なじみで、ひとつの家族のようだったベルファストは、この日を境に分断され、暴力と隣り合わせの日々の中で、バディと家族たちも故郷を離れるか否かの決断を迫られる。アカデミー賞の前哨戦として名高い第46回トロント国際映画祭で最高賞の観客賞を受賞。第94回アカデミー賞でも作品賞、監督賞ほか計7部門にノミネートされ、脚本賞を受賞した。(映画ドットコムから)

 

ベルファストという言葉を目にし、聞くだけで、自分の中で出来上がっているイメージがある。待ち遠しかった映画。ところが、見始めて30分経っても映画の中に入っていけなかった。

自分のもつイメージと食い違ったからだろうか。

どのシーンも凝っていて、ていねいにつくりこまれている。9歳のバディの眼から見た街、家族。ジュディ・デンチの表情もいい。祖父の台詞は深い。夫婦(バディの父母)の関係、父とプロテスタントの関係もよく伝わってくる。それなのに「作りもの」っぽさを感じてしまう。モノクロの映像でありながら、どこかひりひりするような子ども特有の絶望が伝わってこない。『3丁目の夕日」ではないが、知らぬ間に美化されてしまう少年時代。

ロシアのウクライナ侵攻という事態が進んでいるが、クリミアやドンバス地区だけでなく、モルドバジョージアにおいても親ロシア系住民と地元の住民の間での長く深い軋轢が伝えられるようになった。

ベルファストもまた長い軋轢、桎梏を経て今があるが、この映画はそうした分断よりも少年時代への憧憬のようなもののほうが先に立っているように感じられた。

 

日本には、1945年の終戦時に200万人を超える朝鮮人がいた。彼らは日本国籍を与えられ、差別され続けた。祖国が日本の統治下にあり、祖国が彼らを援助することなど考えられなかった。何より祖国は日本のもので、すでになきものだった。

戦争が終わると、カッコ付きの日本人だった彼らは、日本国憲法の下で日本国籍をはく奪され、朝鮮人となった。日本国籍のない人々は、日本国の権利の恩恵を受けられなかった。

日本国籍を持っていても、はく奪されても在日朝鮮人は「チョーセン人」として、戦後も差別され続けた。

80年代の指紋押捺拒否問題を経て、今、改めて日本国籍を取得する在日・朝鮮韓国人も多い。その人たちの中には、日本名あるいは朝鮮名を名乗りながら、自らを朝鮮系日本人として自分のアイデンティティーを立てようとしている人たちもいる。

違う歴史をもつ沖縄の人が、在日沖縄人という言い方をすることもある。在日アイヌ人というのも。

どれも、今のロシア本国と親ロシア住民との関係とは全く違うものだ。

ベルファスト北アイルランドの独立という形でいったん長い「戦争」を終えたが、英連邦のEU離脱という局面において、今また新たな事態に向かっている。

 

「復帰」直後から沖縄独立論の系譜はあるが、現実的に私たちは、日本人以外の人々の日本における独立とか、あるいは祖国の侵攻という事態をなかなか想像できない。なにしろ、東欧にこれほど複雑な民族の軋轢があったことすら知らなかったのだから。

 

ケネス・ブラナーという監督が自分の子ども時代を描くとき、こうまでも色濃く祖国や街への思いを表出することに私の想像力がついていかないのは、こうしたことにもよるのだろうか。

 

この家族とイングランドの関係は、よくよく見ればロシア本国と親ロシア系住民の関係に近いのだが、そうしたことをあまり感じさせず、どちらかといえば上質な人生訓のようにこの映画を見てしまうのは、やっぱり私はどこかずれているのだろう。

 

 

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