『水俣曼荼羅』

映画備忘録。

3月22日(火)あつぎのえいがかんkiki 

水俣曼荼羅(2020年製作/372分/日本/配給:疾走プロダクション/監督:原一男/編集・構成:秦岳志/公開2021年11月27日)

 

ゆきゆきて、神軍」「全身小説家」「ニッポン国VS泉南石綿村」などを世に送り出してきたドキュメンタリー映画の鬼才・原一男監督が20年の歳月をかけて製作し、3部構成・計6時間12分で描く水俣病についてのドキュメンタリー。日本4大公害病のひとつとして広く知られながらも、補償問題をめぐっていまだ根本的解決には遠い状況が続いている水俣病。その現実に20年間にわたりまなざしを注いだ原監督が、さながら密教曼荼羅のように、水俣で生きる人々の人生と物語を紡いだ。川上裁判で国が患者認定制度の基準としてきた「末梢神経説」が否定され、「脳の中枢神経説」が新たに採用されたものの、それを実証した熊大医学部・浴野教授は孤立無援の立場に追いやられ、国も県も判決を無視して依然として患者切り捨ての方針を続ける様を映し出す「第1部 病像論を糾す」、小児性水俣病患者・生駒さん夫婦の差別を乗り越えて歩んできた道程や、胎児性水俣病患者とその家族の長年にわたる葛藤、90歳になってもなお権力との新たな裁判闘争に懸ける川上さんの闘いの顛末を記した「第2部 時の堆積」、胎児性水俣病患者・坂本しのぶさんの人恋しさとかなわぬ切なさを伝え、患者運動の最前線に立ちながらも生活者としての保身に揺れる生駒さん、長年の闘いの末に最高裁勝利を勝ち取った溝口さんの信じる庶民の力などを描き、水俣にとっての“許し”とはなにか、また、水俣病に関して多くの著作を残した作家・石牟礼道子の“悶え神”とはなにかを語る「第3部 悶え神」の全3部で構成される。(映画ドットコム)

 

封切りから4か月。今、この映画をかけているのは、全国で大阪・十三のシアターセブンと熊本のDenkikan、大分のシネマ5bis、そしてあつぎのえいがかんkikiの4館。

いつも通っているkikiが2週間にわたって上映を組んだこと、なんだか誇らしい。客の入りを見ていると、経営的に決して楽ではない中、この作品以外にもかなり意欲的な番組の編成をしている。近いわけではないが、通い続けたくなる映画館である。

ちなみに今回の料金は、シルバー会員割引はなく一律3900円。

 

内容については触れない。印象をいくつか。

20年近く取材と撮影を続けてきた作品。休憩を入れると7時間近い作品だが、長いとは感じなかった。撮る方の視点が定まっていることと、被写体となる患者や関係者との関係が良好に形成されてきたことがよく伝わってくる。

 

水俣病の歴史を患者と支援を通じて描いてはいるのだが、それ以上に撮る方は、被写体の人間の奥行きとか深みのようなものに迫ろうとしていることがよく伝わってくる。

つくる側、撮る側が、患者のみならず医師や支援者を水俣病という属性だけでみようとせず、全体性をもったものとして向き合い、感受しようとしていると感じられた。

 

そして、その時にはからずも出てしまう原一男自身の、例えばジェンダー観やオジサン的常識?。撮影者としての差別性のようなものまでさらしてしまっていることに、原自身はたぶん気付きながら、あえてカットせずにそのままにしている。

つまり、水俣病を撮りながら、関係としての原自身も映画のなかに染み出てくるということだ。これは『ゆきゆきて進軍』のときからの同じ構造だ。

凡百のドキュメンタリー映画との違いがここにある。

 

それと、長い間取材が、対象の変化をいやおうなくカメラがとらえてしまうということ。

やせたり、太ったり、老いであったり、歩き方や病状の悪化であったり、死であったり。

残酷ではあるが、それがドキュメンタリー映画のもつすごさである。

 

カメラは人の成長もとらえてしまう。

おずおずと判決の感想を述べていた若い女性が、いつのまにか耳の遠い患者・原告のそばに寄り添い、周囲との意思疎通の仲介者となり、さらに日を経ると厚労省との交渉の最前線に立ち、あろうことか厚労省職員が隠し持っているメモを奪い取るなど

大変な成長ぶりを見せる。その上気した表情のなんと生き生きとしていること。

役人や政治家は、はじめこそわかったふうを装うが、患者や支援の激しい追及についついホンネをさらしてしまう。

患者側だけを描いて、行政側を描いていないのはおかしいというレビューがあったが、

私には画面から十分に行政側の姿勢や考えが伝わってきたと思えた。そのぐらい行政交渉のシーンはよくとらえられていた。

中でも小池百合子環境大臣の、口だけは謝っているが、表情からは何で私が謝んなきゃいけないのという開き直りがよくうつしだされていた。

「自分の責任ではないのだから、とりあえずやり過ごして先送りしておけばいい」といった官僚対応は、私も長年見た来た。

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最後に一つだけ。

石牟礼道子さんが第3部に登場し悶え神の話をするが、映画の締めを「許し」という点にしたことについて、私は唐突と感じたし、違和感をもった。

患者だけでなく、支援の医師も関係者も、たとえ分裂してでも少数になってでも闘おうとしている人々。

その人たちを前にして映画として「終わらせる」ことに意味があるのかどうか。ドキュメンタリー映画に、フィクションのような「落としどころ」は必要ない。

最後の不知火海の遠望と音楽は、6時間超の映画のラストシーンとしてわからないわけではないけれど、それでいいのかなという思いが消えなかった。

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