映画備忘録。9月23日、kiki
『17歳の瞳に映る世界』(2020年製作/101分/PG12/アメリカ/原題:Never Rarely Sometimes Always/監督:エリザ・ヒットマン/出演:シドニー・フラナガン タリア・ライダー/日本公開2021年7月16日)
ペンシルベニアの17歳の高校生がニューヨークに出かけて妊娠中絶をする数日間を描いた映画。
邦題のつけ方にはいつも不満が残る。この作品も同様。
原題の”Never Rarely Sometimes Always”は本編の中でのもっとも重要なシーンに出てくる言葉。どこを忘れてもここだけは忘れられない印象の強いシーン。
予告編同様、観客は映画を見る前だし、当然この言葉の重要性に気づくべくもない。映画を配給する側は、観客をスクリーンの前に連れてくることを最大の目的とするから、何ともやわというか抒情的というか、何の映画か想像すらできないような邦題をつけてしまう。永遠に解決しない問題。
アメリカでは少なくとも19の州で妊娠中絶に対して何らかの制限を設けているという。
望まぬ妊娠をした高校生が、中絶をするためにいとこと二人で深夜バスに乗ってニューヨークへ。
最初のシーンは日本で言えば高校の文化祭のようなものだろうか。学校単位というより、家族がみな見に来ている小さな発表会という感じか。
シドニー・フラナガンが演じるオータムはギターを弾きながら歌を歌う。気のない歌い方だ(実際のシドニーフラナガンはかなりパンチの効いた歌を歌う歌手?)。
会場から「slut!(尻軽女といった女性への侮蔑語」?のような掛け声がかかる。なんとも雰囲気が悪い。
オータムの家族がコンサートの後レストランで食事をするシーン。
義父らしい男に母親が「褒めてやって」というが、義父は「ママが云うから褒めるよ、お前は最高だ」。
義父になつかないオータム。他のシーンでもこの義父は、飼っているメスの犬を相手に性的なしぐさを子どもたちの前で平気でする。ろくでもない。
オータムは何も食べずにレストランを出る。出がけに、近くのテーブルの男子にコップの水をかける。性的なからかいの視線を投げかけていたせいなのか、それともオータムのセックスの相手の男なのか、わらかない。ろくでもない。
体長の優れないオータムはいとこのスカイラーとスーパーでアルバイトをしている。
集計したお金を店長に渡すのに小さな窓口から差し入れるが、その都度店長は二人の手を嘗め回す。
とにかくろくでもない男ばかり出てくる。
妊娠がわかるとオータムは迷わず中絶を決意。親には伝えない。スカラーとともにニューヨーク行きのバスに乗る。
ふたりは言葉はほとんど交わさない。説明もない。いついっしょにニューヨークに行くことになったのか、見ている側にはわからない。
ことほどさように、この映画、言葉が少ないというより画面が的確にものを言う。二人の表情が速いテンポで切り替わりながら映し出されるが、しかしそれもいわゆるわかりやすい「芝居」ではない。それでも「わかる」画面の力。
ニューヨーク行きのバスの中では、若い男がスカイラ―をナンパする。
ニューヨークの地下鉄では、酔漢が股間に手を突っ込んで近づいてくる。
ろくでもない。
春に見たチェコの映画『SNS-少女たちの10日間』を思い出す。世界中の男たちが、若い女性を性的な対象としてしか見ていない。
ニューヨークの地下鉄などと聞けば、わたしなどつい犯罪の温床といったステロタイプな見方をしてしまうが、そんなつくられたドラマチックさより、普通の男たちの下品で露骨な欲情の顕れのほうがずっと気持ちが悪い。
これ以外に出演しているのは、年配の女性がほとんど。
地元では妊娠10週目と言われたが、ニューヨークの検査では18週であることが判明。
このあたりの事情はよくわからない。地元の医院がそれほどひどそうにも見えなかったが。
お金もなく、泊るところなくなってしまう二人。
なにか起こるわけではない。二人の焦燥感だけが伝わってくる。
バスの中でスカイラ―をナンパした男がまた近づいてくる。
スカイラ―は、ボウリングや酒場などをうまく引き回すが、最後に「お金を貸してほしい」と頼む。
男はATMをさがすと言ってスカイラ―を連れて行ってしまう。
大きな荷物とともに残されたオータム。
ようやく二人が大きな柱の陰でキスしているのを見つける。
オータムは黙って後ろからスカイラ―の手を握る。
何の言葉もないが、いいシーンだ。
中絶のための問診。
ここが最大のシーン。女性のカウンセラーは次々と質問を投げかける。
無理にこたえなくてもいいとしながらも、選択肢をその都度声にする。
もうお分かりだろう。これが
Never? Rarely? Sometimes? Always?
無理やりセックスをされそうになったことは?
相手が避妊を嫌がったことは?・・・・・
オータムが唯一激しく感情を表すところだ。
どれほど社会的に、システム的に男女が平等とされたとしても、つまるところ男の女に対する”支配”はなくならない。
男女が非対称の存在であり、社会的な平等を共に手にするにはさまざまなツールや制度だけでなく、相手に対するリスペクトが必要だ。
気がつけばエンドロールが流れていた。
これほど言葉少なに厳しく現在の女性のおかれた位置を的確に表現している映画はなかったのではないか。
見終わっても気持ちは晴れない。
残るのは二人の少女が、根拠もなく昂然と顔を上げて前に進もうとする気丈な表情だ。