『僕が飛び跳ねる理由』(2020年製作/82分/イギリス/原題:The Reason I Jump/監督:ジョス・ロスウエル/2021年4月公開)気になって仕方がなかったのは、そのスペルが全く間違っていないことだ。 自閉症だから?こだわりが強いから文字盤を指し示すのにもミスがない? なんだか違うなあと思った。

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映画備忘録 6月6日 本厚木 "あつぎのえいがかんkiki"での1本目。

 

 

『僕が飛び跳ねる理由』(2020年製作/82分/イギリス/原題:The Reason I Jump/監督:ジョス・ロスウエル/2021年4月公開)

 

斬新な映像と音響は自閉症の人々の独特の感覚を表現しようとしているのだろう。美しくて静かで・・・。けっこうな時間眠ってしまった。原初的な感覚を呼び覚まされる心地よさなのか、単なる食事のあとの眠気だったのか、わからない。

 

コミュニケーション能力がないのではなく、伝える方法をもたない。だから、文字盤を使ってのやり取りが可能になっていくシーンは目を開かれる思いがしたし、絵画表現の素晴らしさも伝わってきた。

 

しかし、では文字盤が使えない自閉症の子どもたち、絵画や特別の表現能力をもたない自閉症の子どもたちもたくさんいることを忘れてはならないと思う。

 

子どもたちには無限の可能性があるという無責任な教育的テーゼが昔からあるが、障害をもった子どもたちに「何か特別なもの」を求める傾向は今でもある。

端的にいえば、パラリンピックには程遠い障害者が世の中にはたくさんいるのに、自分はとるに足らない健常者でありながら、障害者に向かって「君にも何か特別なものが眠っているのではないか」などと云う人。自分が言われてみればいい。

 

映画は自閉症の子どもの独特の世界観を伝えようとしているが、それは同時に彼らの特別な能力に敏感に反応せよというメッセージにも聞こえる。

いわゆる普通の子どもたちと違った形で主張をする普通の自閉症の子どもたち、絵が下手な子どもがいるように、すぐに拗ねて持続する力のない子どもがいるように、自閉症の子どもにもいろいろな子がいる。それぞれ違うし、文字盤が使えなくても絵が下手でも、一緒にいると何を言いたいかがぼんやりとわかってくる。いつも思うのは、彼らとわたしたちは地続きであるということ。何が言いたいかわからないときだってある。健常者同士だって普通に分かり合えないのに。

特別な能力や表現力がなくても、そこにいること、いてあたりまえであること。

 

目が覚めてからはしっかり見たけれど、すこし押しつけがましく感じたのは私がひねくれているからか?

文字盤は私たちの世界と彼らをつなぐ一つのツールであるかに見える。でも、そのツールは私たちが彼らにつながるツールであって、彼らにとってそれが必須のツールかどうかはわからない。文字盤が強いストレスになってしまう子もいるのではないか。

映画は、彼らが指さした文字を字幕としてスペースを置かず並べ、最後にスペースを入れてそれが『文』になっていることを鮮やかに表現する。

気になって仕方がなかったのは、そのスペルが全く間違っていないことだ。

自閉症だから?こだわりが強いから文字盤を指し示すのにもミスがない?

なんだか違うなあと思った。文字盤、辛くなければいいのだが。