今朝、外気温が4℃。
冬の朝、気温が下がっていないと、落胆している自分に気付く。
「お、今日はあったかいな!」とはならない。
張り合いのない日がやってきたように感じるのはなぜだろう。
寒がりなのに、である。
単に気温が低いとわくわくするのである。寒いのに氷が張っていると、少しうれしいのに似ているかもしれない。
氷と言えば、先日、飯能市のゴルフ場で、写真を撮ろうと集まった高校生5人が、凍った池に乗り、氷が割れ池に落ち、4人が自力で岸に上がるも、1人は死亡したという報道があった。
ラジオのニュースでやっていたが、自然の氷は、ある程度の厚さがあっても、氷に含まれる不純物のせいで割れやすいのだそうだ。
自然の氷を研究している学者は世界に数人もいないというのに驚いた。
東京のFさんから
「きのうは、やたら横田からオスプレイが飛びました。危ない、何か落ちてきそうで」
境川の西側、大和市と綾瀬市にまたがる厚木基地から飛び立つオスプレイを見たことがある。情報が刷り込まれているからか、それともあまりスピードが出ていないからか、「何か落ちてきそう」と思うのはよくわかる。
その大和市の向こう、厚木市の向こうに大山が見え、丹沢山塊が見える。
その先に富士山の頂上部分が見えるのだが、一昨日、平地には降らなかった雪が山岳部ではかなり降ったようで、今富士山はようやくいつもの冬の富士に。裾野の下のほうまで濃い白さに。
そして手前の大山、丹沢は青い地に上から白いゴマをまぶしたようで、山肌がいつもに比べてぐっとせり出してくるように感じられる。
毎年思うことだが、この景色、北陸か東北の地方都市の風景に近い。
横浜の風景とはだれも思わないだろう。
19日(火)、1週間前になるが、ようやく今年度の大学の授業が終わった。
週1回、15回の講義は、毎年秋口から始まって、大寒のころに終わる。季節の変化は着るものの変化であり、シャツ一枚で始めて、オーバーを着るまでということになるのだが、今年は違った。
授業はすべて、今いる私の部屋でおこなった。
Zoomでの授業。
始まるまではつらかった。方法もICTの技術も知識もない私が、できるんだろうかと暗澹たる気持ちになった。
頼みの綱は、次女のつれあいのあっちゃんと、1月になれば終わっているよという根拠のない自信だけ。
なんとか終わった。
世の中はテレワークだ、在宅勤務(同じか)が主流になっているといわれている。
みなそんなにうまくハマっているのだろうか。
私にとっては未曽有の体験だった。
発見もあった。
双方向授業(オンデマンド授業のほうが一般的には多いのかもしれない)独特の距離感のようなものが、良くも悪くもあって、その都度いろいろなことを考えさせられた。
今、義務教育ではGIGAスクール構想の前倒しで、一人一台のパソコンが配られつつある。オンライン授業の意義と必要性を説く人も多い。
時流に乗るというか、パソコンの配布が遅いと、文科省に文句を言っている教育評論家もいた。保険のコマーシャルまでやっているタレントだが。
オンライン授業やパソコンを使った授業がそんなにいいものだろうか。
そのためにワキに追いやられる大事なコト、モノはないのだろうか。
ある人に福音であるものが、別の人に福音とは限らない。
高齢者にとってキーボードが助けてくれる部分はあるが、子どもが育つ過程でキーボードが邪魔をする部分はないのだろうか。
インターネットが、今までにない学びの広がりを見せてくれることはあるかもしれないが、じゃあ世界とキーひとつでつながることは、ほんとうによいことだらけなのだろうか。
距離が一気に縮まること、遠距離で簡単につながることが、ある人たちにとっては労働が強化されたり、仕事がなくなったり、人が簡単に死んだりすることはないのだろうか。
ある、よね。
科学技術の進歩は、人間にとって福音であると同時に、いつだって害悪をも一緒に連れてくるものだ。
パソコンを子どもたちに配って喜んでいるのは誰だろう。
忘れてはならないのは、その人たちが子どもたちに何か有益なことをしてくれるわけではないということだ。
メーカーにとっては、ユーザーが半永久的に製品を使い続けてくれることだけが重要だ。
クルマでも冷蔵庫でも、同じだ。
できれば自社製品を長く使ってほしい、そのための差別化はいくらでもするけれども、
「これってほんとうに必要なの?」
という疑問が芽生えないように、性能や使用効率を上げることに腐心する。
そう考えると、もろ手を挙げてGIGAスクール構想に賛成はできない。
コロナ禍に乗じて一気に進められる事業、本来ならもっと議論が起きたはず。
21年度の後期の授業が、対面になるのか、オンラインになるのかまだわからない。
火曜日がとりわけて寒かったり、雨だったりすると、少し得をした気分にはなったのは事実。
しかし最後の授業のとき、例年の授業と同じように、わずかだが互いに去りがたいような気分があったのも事実。
いつもなら手を振りあって「じゃあ、また。元気で」と彼らに声をかける。それから物理的な距離が互いの間を分けてくれるのだが、オンラインは「退出」のボタンを押すだけ。
一度も対面していない間柄ではあるが、画面上では20時間を共に過ごしてきた。
オンラインは物理的な距離も超え、つながるのも切れるのも一瞬だ。
「徐々に」とか「余韻」とか、そんなものはない。