前回の問題である。
2016年の体罰案件に対して出された横浜市人事委員会の決定に対する市教委の正式見解がこれである。神奈川新聞の報道は、正確に市教委の姿勢を報じていたことがわかる。
それにしてもこの理屈はすごすぎる。
たとえば殺人事件の裁判で、被告が殺人に至ったという証拠が不十分、あるいは見つからなかったので無罪とする、という判決が出た時に、
『裁判所は「証拠がないから無罪」と云っているが、被告によって殺人がなされていないとは云っていないのだから、無罪とは言えない』ということか。
なんとも言い抜けの上手な役人たちだが、基本的に「疑わしきは罰せず」の近代法の原則はここ横浜市教委では通用しないらしい。
人事委員会が指摘したのは、ひとこと「市教委の調査が不十分だった」ということだけ。不十分な調査に基づく処分は認めませんよ、とごく常識的な指摘をしたにすぎない。
おのが無能ぶりを同じ行政の公平機関に指摘されていながら、
「体罰がなかったものと判断されたものではないと認識している」つまり「体罰はあった」と言い続けているのだ。
体罰あがったから処分をした。➡ 体罰の証拠がないから処分を取り消した ➡証拠はなくても体罰はあったと認識している
言葉が汚くなるが、お前の認識などどうでもいい、結論は「無罪」なのだ。やらねばならないのは、給与の返還と杜撰な調査で大変な迷惑をかけたという当該教員への謝罪だ。
出した処分が99%、人事委員会で追認されるのがこの世界の常識なのに、
この10年ほどで横浜市教委はどれだけの処分の撤回を人事委員会に指摘されてきたのか。
どれもこれも「調査が不十分」、つまり仕事が「雑」だということだ。
穴があったら入りたいほどのかっこ悪さなのに、この往生際の悪さはどうしたものか。
さらに高給取りの教育委員会議の委員諸氏のコメント
「当該の子どもや保護者が体罰を受けたと感じた事実を重く受け止めてほしい」
というコメントもひどい。
「体罰を受けたと感じた事実」で判断するならば、人事委員会などいらないではないか。生徒や保護者が「体罰を受けた」と言えば「体罰」になるということだから。
自分たちが「戒告」という処分を「決定」しておきながら、それが否定されると
「重く受け止めてほしい」。
処分を否定された、つまり間違った処分を出した自分たちの責任の問題の方が、問題じゃないのか。
「重く受け止めてほしい」という言葉はそのまま「人事委員会裁決を」という言葉をつけてブーメランのように返っていくのではないか。
それほど裁決に不満ならば、裁決取り消しを求めて地裁への提訴をすればいい。
その気もないのは、「減額した給与の計算に時間がかかった」ことを処分取り消しの公表を遅らせた理由にしているのでもわかる。そんな計算は5分もあれば終わる。公表遅れは、どうやったらこの無様な状態を屁理屈で言い抜けるか、考えていたのだろう。
霧が丘事件のときには、減給3か月の処分が戒告に「減額」になった。
当該の汚名を晴らすのに5年間、かかった。
支援の中心にいた私は、裁決後、市教委と半年の折衝を重ね、当該、双方の弁護士、支援組合同席のもと、「謝罪の場」を設定させた。
その場で教職員人事課長はその席で立ち上がり、着任前に起きた事案にもかかわらず、「当該の先生には大変にご迷惑をおかけした。二度とこういうことのないように適切に対応していきたい」と深々と頭を下げた。
潔い真摯な対応だった。
それなのに、また同じことが繰りかえされ、そればかりか今度は「おれは間違っていない!」と強弁するありさま。
恥の上塗り、である。
12000人を超える教職員をビビらせるための見せしめ処分を続けてきた報いである。
もっと丁寧にきっちりしたしごとをせい!である。