国際平和文化都市広島、270億円サッカースタジアム建設の裏で、大田洋子文学碑、市民に説明なく移設か。碑が設置される場所にもそれ相応の意味がある。場所もまた碑の一部なのだ。

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あるがままのアート展から


9月1日(土)

夜半に降った雨のせいか、朝の気温が久しぶりに30℃を切った。

このまま涼しくなるのではないかという願望がかなわないのは毎年のこと。炎暑の一休み、真夏の気まぐれに過ぎない。

 

 

”国際平和文化都市”広島でまたしょうもない問題が起こっている。

新聞記事と広島文学資料保全の会の要望書をご覧いただきたい。

旧陸軍広島被服支廠保存問題への対応も基本的に同じだが、広島市というのはなんとも雑な行政である。

出たとこ勝負、泥縄であることを認識しているからこそ、行政手続きを隠蔽しようとする。

「世界の中のヒロシマ」という存在意義がその根幹から空洞化している。

やることなすこと、市民がの厳しいチェックがなければ、貴重な遺構の保存もままならない。

 

行政に任せておけば、平和公園内のレストハウス(旧大正屋呉服店)の大改造?のように、遺構としての意義をかんたんに捻じ曲げてしまう。基本的発想が「一部遺構保存」あとは、いかに見学者を集め、お金を巻き上げるか。経済効果!数値目標!

 

同じ発想は原爆ドームを上から眺める「折り鶴タワー」にも言える。このひどさはかなりのもの。がっかり名所というのが各地にあるが(札幌市の時計台・沖縄の守礼の門、高知のはりまや橋・・・すべて行ったがどれも無料である。それなりに味もある〉、群を抜いた「がっかり名所」である。

 

建築の認可は広島市。運営会社は広島マツダ。行ってみるといい。どれほどのものか。

入場料大人1700円 中高生900円 小学生700円

来館者が折った折り鶴は、北側壁面のガラスの吹き抜け「おりづるの壁」に落とすようになっているが、これが何と1羽投入100円。

 

私は、入って見なければ文句は云えんと1700円を支払って入ったが、

まさに見かけ倒し、羊頭狗肉、 有名無実、あるいは張りぼて

これだけのものはなかなかない。

 

ろくに下見もしない学校の教員は、旅行業者の口車に乗せられて、子どもたちをここに連れてくる。

「折り紙にどうして100円かかるの」

「10分で見終わっちゃった」

 

そもそも、わざわざ建物を建てて平和公園原爆ドームを上から眺めなければならないものか。

恒久的に残る大きな建物というだけでなく、原爆ドームを中心とした世界遺産の景観すら変えてしまう建築物、計画段階でだれも異を唱えなかったのか。それほどに国際平和文化都市は空洞化しているということか。

 

 

さて、大田洋子の碑だが、これはかの「生ましめんかな」の詩人栗原貞子さんらが中心となってつくられた碑。設置された場所は、要望書にあるように、大田洋子がたびたび広島に帰省し、原爆スラムとよばれたこの地に実妹・中川一枝を訪ね「夕凪の街と人々」の舞台としたことによる。場所もまた碑の一部なのだ。制作は原爆ドーム前峠三吉の碑をつくった四國五郎によるもの。設置後、広島市にその管理を任せたとしても、 

広島市生殺与奪の権限を丸投げしたわけでない」(要望書)

には強い憤りがこもっている。

碑に込められているものに思いを致した時、広島市の杜撰な対応がどれほど人の情を欠いたものか分かるはず。

 

広島文学資料保全の会は、広島に文学館を!市民の会が前身。長い間活動を続けてきて市が文学館をつくる方向性を全く持たないことがわかって、現在の名称に変更したという。

一日にしてすべてが灰燼に帰した広島で、文学資料を集め保存していくことの困難さはどれほどのものだろう。活動に敬意を表したい。

この会、下で紹介する被服支廠ラジオの運営にもかかわっている。

 

 

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広島市長・松井一實 殿

 

       大田洋子「文学碑」についての要望

  一方的な柵工事・周囲の樹木の剪定は市民感情を無視するものである

 

 

 中国新聞(2020年2月4日)は、「中国庭園の移設へ」の見出しでサッカースタジアム建設の顛末を報じた。

 今まで、サッカースタジアム建設予定地として、宇品(南区)のみなと公園、観音(西区)の西飛行場跡地、旧・市民球場跡地などが候補地にあがり、議論は二転・三転し、最終的に広島市中央部の中央公園に決定した、とのことだ。

 当初、スタジアムを中央公園東側と発表したが、突如西側に変更し、中国新聞は「一部が中国庭園・渝華園」(ゆかえん)にかかる可能性が高く、文学碑やモニュメントの移設も検討」と、述べている。この「文学碑」とは「大田洋子文学碑」のことであろう。(この付近にはこの文学碑しかない)

 

中区選出の市議会議員・まにわ恭子氏は「議会報告」で次のように記している。

当初の計画では、スタジアムは東側の配置でしたが、突然、西側に変更されました。建設にあたり調査したところ、東側に貴重なお城の文化遺跡があるからという理由でした。中央公園の案が浮上した時に調査しておくべきことではないでしょうか。また基町の住民は説明を受けていなかったのです。後手、後手です。(まにわ恭子NEWS LETTER VOL61 2020年5月11日)

 

 昨年末から今年にかけて、公園の一部に縄が張られ重機によって掘削されているのを多くの人は目撃しているが、「広島城の遺跡調査」であったことを、「まにわ報告」ではじめて知ることになった。

 令和2年3月に「中央公園サッカースタジアム(仮称)基本計画(案)」が作成されているが、この「調査」が何のために行われているのか、地元住民はもとより市民にはまったく知らされず既成事実として進められているのだ。(スタジアム構想が東側から西側への変更についても、計画案策定が不十分だったことによる)

 

 渝華園は、1992年に広島と中国・重慶市との友好都市提携5周年を記念して開園、四川省の古典庭園を再現しているといわれている。また、大田洋子文学碑は、1978年、「屍の町」や「夕凪の街と人と」など数多くの原爆作品を残した作家・大田洋子の文学を賛え、平和への道標として(建立のお願い)詩人・栗原貞子、作家・佐多稲子、作家・大原富枝などをはじめとする全国の多くの人々の募金によって建立された。

 この地に建てられたのは、たびたび広島に帰省し、原爆スラムとよばれた実妹・中川一枝宅を訪ね、「夕凪の街と人々」の舞台としたことによる。

 さらに、設計・デザインを担当した四國五郎は、「大小十五の石を、碑文を刻んだ中心の碑石に向って、あたかも爆心から爆風によって吹き寄せられたかのように並べました。石のひとつひとつを、数千度の熱線と音速の二倍を超える爆風下に生ま身を晒した老若男女に見たてながら並べました……<夕凪の街と人と>の舞台となったゆかりの地の一角から、碑石が人々への語りかけをはじめるのです」(爆風の中の碑:建立記念誌)と述べ、碑石も自ら山峡を歩き探し出すなど並々ならぬ意気込みであったことがわかる。(平和公園内にある「峠三吉詩碑」も四國五郎の手によるもの)

 実は、「大田洋子文学碑」の移動は二度目のことである。前述の渝華園建設の折、少し移動したが、それでも、碑の建立委員会代表者の栗原貞子・斎木寿夫には事前に丁寧な説明を行い諒解をとっている。今回はどうか。スタジアム建設予定地にいきなり柵を巡らし、「関係者以外立ち入り禁止」とし、こんもりした周囲の樹木の枝は切り取られ無様な光景が出現した。事前の説明や広報もない。

 

 担当課(広島市都市整備局スタジアム建設)は、「広島城遺跡の調査をするため」と述べ、「文学碑の移設は公園内」としているが、あまりに性急な乱暴さに心ある市民は驚いている。

 

 

以上経過説明と意見を述べさせていただいたが、会として次のことを要望したい

                  

 

                  要望

 

1.「文学碑」建設後、建立委員会は広島市に寄贈(碑および付帯する工作物)した が、広島市生殺与奪の権限を丸投げしたわけでない。広島市民の共有文化財産として

保護する義務があるはずである。

よって工事日程および、移動先を、市民に公表し、丁寧な説明をすべきである。

2.「広島城関連遺跡」だけでなく、「旧・陸軍施設の遺稿」(この地域は旧・陸軍関係の施設が林立していた)も視野に入れ、西側の戦争遺跡の綿密な調査も必要である。

3.広島は、「平和・文化」を標榜する都市である。今回のスタジアム建設にかかわり、文字通り「平和と文化」の名にふさわしい対応をすべきである。

 

 広島文学資料保全の会

広島市中区本川町2丁目1-29-301

電話・FAX 082-291-7615

 

 

保全の会の代表の土屋さんらが中心となってyoutubeで「Hihukusyoラジオ」が公開されている。

月に2回程度、1時間番組である。

8月30日に第五回が公開された。

今回は、建築家で都市計画プランナーの山下和也さん。

 

山下さんは云う。 

「ぜひ広島の街の中の遺構、遺産を巡ってほしい。そして「1945年8月6日に自分がそこにいたら」を想像すること。さらにそれ以前の人々が住んでいた街の暮らし、それ以後の復興のことも想像してほしい、そしてそれをどんどん発信してほしい」

 

遺構、遺跡が、まさに生きたものとしてあるという保存運動の根幹の考え方。若者の中に遺構、遺跡が身体化された情報が行きかう事、そうして伝え継承すること。

 

被服支廠がそこにあるから始まる継承のかたちだ。