『山中静夫氏の尊厳死』(南木佳士)の原作を読んでみた。その二

「文庫版あとがき」で南木は次のように書いている。

 

『肺がん治療に関していえば、現在はこの小説が書かれた当時よりいくつもの分野で格段の進歩がみられ、予後は年ごとに改善され、CT検診の成果で早期肺癌のみつかる割合も極めて多くなっている。』(232頁)

 

単行本は1993年、この文庫版は2004年の執筆。16年後の現在は、肺癌治療のレベルはこのときよりもさらに格段の進歩を遂げているのだろう。

しかし、そのうえで南は言う。

 

『でも、自然なる身体が滅んでゆくのを目にせざるを得ない医療現場の現実だけは、まったく変わっていない。絶壁は絶壁として、すぐそこにあり続けている。』(同)

 

看取り、尊厳死という中心テーマに対し、医療従事者の心理の問題がこの小説のもう一つのテーマのようだ。「絶壁」という表現が問題の切実さをあらわしている。

 

前回の続き。

今井の言葉にさらに山中氏の妻は食い下がる。

 

『「あの人のことは先生よりも私の方がよく分かっているつもりです。こんな寝たきりの状態でいつまでも置いておかれるのはかわいそうなんです。」

奥さんはあくまでも妻としてのたてまえを崩さなかった。

「山中さんは今でも呼びかければしっかり答えてくれます。判断力もあります。その山中さんが楽にしてくれと言ってるんです。死にたいとは言っていません。それに、今の山中さんに死にたいですかなんて聞けますか」

良き医者の役を果たしている自分を、もう一人の自分がじっと見つめているのを今井は自覚していた。

「そうですか」

と、一度下を向いた奥さんは急に顔を上げ今井をにらみつけてから読影室を出ていった。』(122頁」

 

山中さんの妻はこれ以降、今井との交流を身をもって拒否するようになる。心を開くのは、山中さんが亡くなってから1か月ほどして今井のもとに届く、妻のはがきを待たなければならない。

 

さて、「なぜ妥協しなかったのか」と今井は自問する。

 

『これまでにも末期癌患者の家族から同じような申し出を受けたことは何度もある。多くの場合、アウンの呼吸で妥協が成立したものだった。その呼吸を会得するのも医者としての経験のうちだと思っていた。」(121頁)

 

年に40人の死を看取る今井の中の変化のきざし。

 

『・・・これまで今井は患者を禁治産者とみなし、後見人である家族とのみ契約をしてきた。だから、家族と妥協してしまえばそれですべてを終わらすことができた。しかし、今回の場合、契約相手は患者本人なのである。本人の許可なくして契約に終止符は打てないのである。』(121頁)

 

いつしか習わしのようになってきた患者の最期へのわだかまり

 

『家族との妥協の上に成立した死は、一見何の問題もないように見えるのだが、いつも患者本人の意志を置き去りにしてしまった後味の悪さが残った。そろそろケリをつけるころだな、とは思っていた。ちょうどそんなところへ山中さんが入院して来たのである。きっちりしたマニュアル通りではないが、これまで山中さんとは尊厳死を念頭に置いた主治医と患者の関係をつくってきた。このプロセスを大事にして、どうしても尊厳死を完成させたい。今井がよく分からないでいるのは、それが山中さんのためなのか自分のためなのかということだった。」(122頁)

 

ここで二つのテーマが重なる。

映画に欠けているのは、こうした今井の思索と、山中氏の思索の深いところでの交錯だ。

 

今井は、山中氏が亡くなったあと、堤防が決壊するようにうつ病を発症する。数か月経って現場に復帰していも、病棟に足踏み入れることができず、外来の患者を診るにとどまる。

 

今井の心にささやかな平安をもたらすのは、先程ふれた山中氏の妻から届くはがきと山中氏のつくった墓に書かれた文字である。

 

「・・・あの日、先生に早く楽にしてやってほしいと申し上げましたのは、主人から墓の話を聴いて、腹が立って、そんなに死にたいのなら早く死ねばいいと思ったからでした。

 今はようやく、先生のご指示に従って良かったと思っております。最後までかたくなだった私をお許しください。」(150頁)

 

療養中の今井は、妻を連れて群馬の実家のお墓に向かおうとして、急に思い立って山中氏の手作りのお墓を訪れる。山中さんは入り婿先の苗字を入れるわけにもいかず、かといって旧姓では、と考え結局「静夫の墓」と彫った。

 

『老婆は、なんまんだぶ、と墓の前にしゃがんで手を合わせた。

 裏をみると、享年月日が刻まれていたが、八月十五日という字だけはいかにも浅く拙い彫り方であった。今井は老婆に聞いてみた。

「ああ、それかい。そりゃ、お彼岸に奥さんが来て、おれんとこからトンカチと五寸釘借りて彫ってっただ。』

 

山中氏の人生、妻の人生、そして今井の人生の重なるところ。

 

恣意的な引用で、小説のいいところをうまく紹介できなかったかもしれない。

同僚の医師たち、看護師たち。川田という末期癌患者夫婦。今井の家族、子どもたち。

短編だが、いい小説だと思った。

 

「心身絶不調の日々のなか、作品にもたれかかるようにして書き上げた」(あとがき)

「十年以上経ったいま読み返してみても、大丈夫か、お前、と声をかけたくなったりする。自分の生命そのものが存亡の危機にさらされていた時期の作品なので、作家としてのなりふりにはかまっておられず、まさに、生きのびるために書いた。」(あとがき)

 

 

 

さて、映画『山中静夫氏の尊厳死』は原作をなぞってはいるのだが、そこのとどまっているように見えた。それだけでは原作の思いを観る者に届けることができない。逆に原作に邪魔されてしまっているようにも見える。

みえるものとみえないもの。みえてしまうものが多いからこそ映画は、みる者にみえないところにこそ大切なものがあることを寸止めのように示唆すべきだと思う。映画『山中静夫氏の尊厳死』は、それがうまくいかなかった映画ということになる。

 

この文庫本には、「試みの堕落論」という小品が併載されている。これもおススメである。作家根性がよく見える佳作である。

 

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今年もらっきょうを漬けました